六十
綿津見神社の本殿は江津の湾に臨む切り立った崖の中腹にある。
麓の幣殿から崖沿いに伸びる参道は一本しかなく、封鎖は容易い。本殿から崖を越えることも、下ることも、よほど身軽で山に慣れたものでなければ難しいだろう。
崖下に建てられた幣殿周辺の境内は衛士が囲んでおり、一般の参拝客はいない。
早朝に宿を出た凜たちが静かな境内に踏み込むと、衛士たちを率いる蘇芳が出迎えた。
衛士の集団は、凜に否応もなく嫌な気持ちを思い起こさせる。
陽鞠より少し前に出て、凜は剣呑な気配を放つ。左手が自然と刀の鯉口を握っていた。
それに気付いた蘇芳が、身振りで衛士たちを散らし、凜にばつの悪そうな顔を向ける。
凜は鼻を鳴らしただけで黙って半歩下がり、左手を刀から離した。
「陽鞠様、昨夜はゆっくりお休みになれましたか」
「はい。お陰様で、よく眠れました」
船旅から見知らぬ地での宿泊で、陽鞠が疲れていないか心配した蘇芳の反応はけしておかしいものではなかった。
しかし、凜は何も言いこそしなかったが、陽鞠の横で胡乱な顔をしていた。
この見た目は淑やかな姫君は、野宿であろうと熟睡できてしまうのだ。
「それは重畳です。では、参りましょうか」
蘇芳の後ろに従い、凜たちは幣殿の脇を抜けて崖下の石段に向かう。
石段の前に立つ衛士たちが蘇芳に敬礼する。
その前を通り過ぎて、蘇芳は石段を上り始めた。
「この先は穢れに誰も近づかないよう、衛士も配置していません」
「それがよろしいでしょう。大公様もここまででけっこうですよ」
「途中までご一緒します。最後まで見届けたいところですが、あまり穢れに近づくと、部下たちがうるさいので」
崖の中腹にある本殿まで伸びる石段は、長く勾配が急だった。
まだ体力が戻り切ったとはいえない陽鞠の手を取って、凜はゆっくりと石段を上る。
背負った方が早いし、陽鞠の体力の温存にもなると思ったが、断られるであろう確信が凜にはあった。
陽鞠は一人で立とうとしている。
胸に生じた痛みを、凜は気づかないふりをした。
石段のちょうど真ん中に差し掛かると、休憩用のためか東屋が設けられていた。
そこで蘇芳が足を止める。
「少し、休んでいきましょう」
蘇芳の言葉に、陽鞠は首を傾げる。
急な石段とはいえ、ゆっくり上ればさして体力を使うものではない。
「それほど疲れてはおりませんが」
「陽鞠様。後から足にきますよ。休んでください」
「凜様がそう言うのでしたら…」
少し渋りながらも、陽鞠は頷いた。
凜は東屋の外で待とうとするが、手を離さない陽鞠と引き合いのようになってしまう。
思わず二人で顔を見合わせる。
何で、という顔を陽鞠はするが、それを言いたいのは凜の方だった。
蘇芳がわざわざ護衛を外してきたのは、余人に聞かれたくない話が陽鞠にあったからだろう。
そばを離れる気は凜にもないが、一緒になって聞く必要もない。
「凜様も一緒に休んでください」
凜が目線だけを蘇芳に向けると、肩をすくめられ、苦笑いを返された。
軽く息をついて、凜は陽鞠とともに東屋に入り、腰掛に隣り合って座る。
蘇芳は陽鞠の正面に腰を下ろす。崖に沿った石段の途中の東屋は狭く、向かい合えば膝を突き合わせるような距離になった。
「陽鞠様、お約束のものは本日中にはご用意できます」
「そうですか。ありがとうございます」
珍しく弾むような声を出す陽鞠を、凜は横目で見た。
陽鞠の端正な横顔の口の端に、微かな笑みが浮かんでいた。
「この件が終わりましたら、屋敷を用意させましたので、そちらにお届けします」
「かしこまりました」
「…こんな時に言うことではないかもしれませんが」
蘇芳は居住まいを正して、口を開く。
「陽鞠様。私の妻になっていただけないでしょうか」
「え…」
言われたことが理解出来なくて、陽鞠は首を傾げる。
凜はただ静かにそれを聞いていた。
「私はもう大公様の妻になれるような身分ではありません」
「そのようなことは何とでもなります。私に…」
蘇芳の目が、真っすぐに陽鞠を見る。
それは今の陽鞠から目を逸らさず、巫女ではない陽鞠を見ようとしているように凜には思えた。
「私に贖罪の機会をいただきたいのです。今度こそ貴女を守らせてください」
凜は蘇芳のことが嫌いだ。憎んでいると言ってもいい。
それでも、その蘇芳の気持ちは分かった。あの日の贖罪を求めているのは凜も同じだった。凜は力が足りず、蘇芳は立場が足りなかった。
「私は誰も恨んでいないと申し上げたと思いますが…」
「分かっています。しかし、例え陽鞠様がどう思われようと、己の罪の意識は消えません」
「私がどう思おうと…」
「甚だ勝手かと思われるかもしれませんが、そこからしか始められない想いもあるのです」
陽鞠は凜の方に目は向けなかったが、手を握る力が強くなった。
沈黙した陽鞠に、蘇芳は微かな笑みをみせて席を立った。
「すぐに答えを頂けるとは思っていません。その間、江津に逗留して頂けると幸いです。それでは、また後程お会いしましょう」
蘇芳は身を翻して、ゆっくりとした足取りで石段を下っていく。
その背を一瞥して、陽鞠は凜の方に向き直り、手を握ったまま立ち上がった。
「私たちも参りましょう」
陽鞠に促されて、立ち上がった凜は、手を引いて再び石段を上り始める。
長い石段を二人は、たっぷりと時間をかけて上り切った。その間、一言も言葉を交わすことはなかった。
上り切る頃には乱れてきた息を整えながら、陽鞠は崖下を見晴らす。
それに倣って凜も崖下に目を向けると、江津の湾が地平線まで一望できた。
海の神である綿津見神を祀る神社の本殿がこんな崖上に建てられたのも、この景観があったからだろう。
陽鞠は風に揺れる白い髪を押えながら、その目は遠く、遠く地平線の彼方を見つめていた。
その姿を見ていられず、凜は目を逸らした。
「凜様」
声をかけられ、陽鞠の目がいつの間にか自分を見ていることに凜は気付いた。
「先ほどの大公様のお話をどう思われますか」
「私が口を出すような話ではないかと」
言った途端に悲し気に揺れた陽鞠の目を見て、凜は後悔する。
後悔しても、それ以外の言葉を凜は持ちえなかった。
「無理にとは言いませんが、凜様のお考えを聞かせて頂けませんか」
「…悪い話ではないと思います。陽鞠様には後ろ盾があった方がいい事実は今でも変わっていません」
凜はそれをもう陽鞠に押し付けようとは思わないが、朝廷や王国からいつ狙われるとも分からない陽鞠に権力の庇護は身を守るために有力だろう。
「意外です。凜様はあの方を嫌っているのだと思っていましたが」
「個人的にはその通りです。ですが…だからこそ二度と裏切ることはないとも思えます。罪の意識は強い自戒となりえます」
「罪の意識、ですか」
呟いて、陽鞠は黙り込んだ。
凜と繋いだ陽鞠の手に、じわりと汗が滲み、一度唇を噛んでから震える唇を開く。
「凜様は、私の気持ち、というのを考えたことはありますか」
「気持ち、ですか」
「はい。好きでもない方に嫁げと言われる私の気持ちです」
「…私は利の話をしているだけです。それに結婚とは、女とはそういうものでしょう」
貴族に限らず、結婚とは家と家との結びつきだ。そこに本人の意思が介在することはほとんどない。女であれば尚更に。
あったとしても男が女を見初めるという形で、女は選ばれる側でしかない。
「凜様ですら、そうお考えなのですね」
「世の中がそうなっていると申し上げているだけです」
「それは、凜様のお考えとは…」
言いかけて、はっとしたように陽鞠は言葉を止める。
するりと繋いでいた陽鞠の手が離された。
「いえ、済みません。お話は明日、でしたね。さあ、もうお務めに参りましょう」
海に背を向けて、陽鞠は社殿の方に歩き始める。
その背中にかけられる言葉が、凜にはなかった。




