五十九
夕刻を前に東青州の州都江津に着いた凛たちは、港から綿津見神社に向かう途上の宿に逗留していた。
蘇芳は自身の屋敷への逗留を勧めたが、陽鞠が人目につくことを嫌がったからだった。
大公の私邸など、常に何者かの目が光っているものだ。
宿はそれほど格式高いものではなかったが、御用宿にしては設備が整っていて、風呂も備え付けられていた。
その風呂に入りにいった陽鞠を、凜は二階の座敷で待っていた。
本当は風呂の前で護衛したかったが、陽鞠に強硬に部屋で待つように言われてしまった。
一階には衛士が詰めているため、たしかにそこまで付きっきりになる必要はないかもしれないが、凜は衛士を信じていない。
二組の布団がすでに敷かれた座敷で、凜は刀の手入れをしていた。
目釘を抜いて柄から刀身を外して検める。
息がかからないように懐紙を咥え、小さな砥石で寝刃を合わせてから、刀身に油を引く。
磨上げてもいない生ぶ茎は、まだ鑢目も奇麗で、この刀が比較的に新しく打たれたものであることが分かる。
近年の刀の評価は切れ味と姿の良さで決められる。硬質な鋼は端麗で切れ味はいいが、欠けやすく折れやすい。
それと比べると、この刀は姿は地味だが、鋼に粘りがある。
銃弾を弾いた痕が擦過傷のように残っているが、この一年、研ぎにも出していないのに刃こぼれ一つない。
この平和な時代に、ここまで実戦一辺倒な刀を打ったのは、おそらく華陽がそのように注文したからだと凜は思っている。
この刀があればこそ、凜はここまで生き残れた。
同時に、これほど人を斬った刀は、戦乱の時代でもそうはないだろう。
手入れはしていたから茎に赤錆など浮いてはいないが、柄はそろそろ変えないと染みた血で腐食しているかもしれなかった。
それほどまでに、この刀は大量の人の血を吸っている。
無意味な殺しや、殺しそのものを楽しんだことなど凜は一度もない。
瀬戸際の死闘に高揚するような闘争心も持ち合わせてはいない。
人の肉を斬る感触も、骨を断つ感触も不快だった。咽せ返るような血や臓腑の臭いには慣れないし、吐き気がする。
つくづく剣士には向いていないと思うが、凜に出来ることは他になかった。
物思いに耽りながらも、階段を登るしとやかな足音を聞き分けた凜は、刀の手入れを終える。
手早く刀身を柄に戻して鞘に納めると同時に、襖が開いて陽鞠が戻ってきた。
「凜様。上がりました」
刀を置いて、凜は陽鞠に目を向ける。
陽鞠は布団に腰を下ろして、濡れた髪を布で丁寧に拭っていた。
風呂上がりで微かに上気した肌。
伏し目がちの憂いを帯びた琥珀の瞳。
微かに開いた水気を含んだ艶やかな唇。
少しだけ緩い、鎖骨の覗いた胸元。
手のひらに収まりそうな淡い胸の膨らみ。
視線に気がついた陽鞠が顔を上げ、微笑みを凜に向けて小首を傾げる。
その愛らしい仕草。
はにかむような微笑みは、貼り付けた巫女のものとは異なり、見ていたことを咎めるような上目遣いがいじらしい。
胸の奥がざわりとして、凜は陽鞠から目を逸らした。
「凜様はお風呂に入らないのですか」
「陽鞠様が入っている間に体を拭いたので大丈夫です」
「そうですか」
陽鞠の方を見ずに凜は答えた。
沈黙が二人の間に落ちる。
「…陽鞠様が決めたことなら私は何も言いませんが、本当によろしかったのですか」
しばらくの沈黙の後に、ぽつりと凜が言葉を落とす。
「何がですか」
「今回の穢れのことです」
「何か不安があるのですか」
「お分かりでしょう。今回の穢れには鬼が出ています」
蘇芳が言っていた穢れの中で蠢くものなど、鬼以外に凜は知らなかった。
陽鞠がそれに気が付いていないなどありえない。
「ですが、凜様が守って下さるのでしょう」
「問題はそこではありません。今回の穢れが鬼が出るほどのものだということです」
「私がまた、あの時と同じようになることを懸念されているのですね」
あの村で、陽鞠が倒れた理由を凜は知らない。
しかし、穢れが無関係とは思えなかった。
「同じことが起きるかもしれないのでしたら、私としては手を引いてほしいのですが…」
凜の言葉に、陽鞠はゆるゆると首を横に振る。
「手は引けません。どうしても欲しいものがあるのです。この機会を逃せば、次はないかもしれません」
「そう、ですか」
それが何なのか、陽鞠に聞くことが凜には出来なかった。
たんに守り手が聞くようなことではないと思っただけではない。それを知ることが、凜には恐ろしかった。
「大丈夫です。あの時のようなことにはなりません」
「なぜ、そう言えるのですか」
「あの時はまだ、私の器が未熟だったのです」
「器、ですか」
「はい。あれほどの穢れを祓うには、体内に全て取り込んで時間をかけて浄化するしかなかったのです」
「今は違うのですか」
「そうですね。取り込まなければいけないのは変わりありませんが、一刻もかからないでしょう」
陽鞠には強がっている様子はなく、言葉には確信が感じられた。
「陽鞠様がそうおっしゃるなら、私はそれを信じます」
「…」
けして陽鞠の方を見ずに、俯いたまま畳に落とした凜の言葉に、陽鞠は沈黙で答える。
微かな衣擦れの音がして、凜は背中から覆いかぶさるように陽鞠に抱きしめられた。
「凜様の態度に私は傷ついています」
「ひま…」
耳元で囁かれた言葉に、はっとして開こうとした凜の唇に陽鞠の指が触れる。
口を塞ぐというほどのこともない、指先で触れられただけの唇。しかし、凜は何も言えなくなった。
「私もきっと凜様を傷つけました」
「…」
凜を抱きしめる細い腕。
大した力が入っているわけでもないのに、蔓のように絡みついて離れない。
何を言えばいいのかも分からないまま、それでも何かを言おうとして戦慄く凜の唇を、陽鞠の指先がそっと撫でる。
「何も言わないでいいです。いま言葉を交わしても傷つけ合ってしまいます」
心を読んだような陽鞠の言葉が、凜の口を封じた。
「傷つけ合っても、お互いを想っていれば上手くいくなんて嘘です。そのまま壊れてしまわないなんて、誰が保証してくれるのですか」
陽鞠の声は泣き出してしまいそうなほどに揺れていた。
「そんなこと、壊れても仕方ないと思えるから出来るのです。泣いても、喚いても、次に進めるから出来るのです」
自分はそうではないと陽鞠は言っていた。
それを失ったら、もう一歩たりとも前には進めないと。
「それでも、このままでは壊れてしまうなら。私は…」
陽鞠が何のことを言っているのか、凜には分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「お願いがあります」
陽鞠は凜の耳元で大きく息を吸い、声の震えを抑えた。
その声は穏やかだが真剣で、どこか追い詰められているようですらあった。
「この件が終わったら、私とちゃんと話してください」
嫌だなあ、と凜は思った。
「答えなくてかまいませんので、承知していただけるなら頷いてください」
本当に嫌だと凜は思った。
陽鞠はどうして今のままでいてくれないのだろうか。
今のままの陽鞠でいてくれれば、ずっと陽鞠のものでいられるのに。
陽鞠が捕まったことを、凜は自分の責任にしておきたいのだ。そうすれば、償いきれない罪を償い続けるために、ずっと陽鞠のそばにいられるではないか。
その罪の気持ちがなければ、凜はとっくに折れていた。
当てもなく陽鞠を探し続けていられたのは、それが自分の罪業だと思っていたからだ。
思い込んで、そう心を固めて折れないようにしてきた。
今更、違うと言われて、違う関係を求められても、そんなに簡単に気持ちを変えることは出来なかった。
それでも、陽鞠が頷けと言うのなら、凜には頷くしかなかった。




