五十八
西白州と東青州を隔てる竜髭川は、実のところ狭隘な海峡だった。
新浜は西白州と東青州を繋ぐ玄関口ではあるが、港町とは異なる。対岸までの渡し船や艀は数多くあるが、外洋に出ることのできる船どころか、内洋を渡る廻船すら泊まってはいない。
新浜はあくまでも陸路の要衝であった。
新浜から東青州東端にある州都である江津に向かうなら、渡し船で東青州に渡り十日以上をかけて徒歩で横断するのが基本になる。
しかし、蘇芳が新浜との往来に使用した沿岸航行で内洋をゆく帆船は、わずか五日で江津にたどり着こうとしていた。
船縁に立ち、陽鞠は飽きもせずに海を眺めていた。
穢れの報告がなかった北玄州を除いて、山祇中を旅して回った陽鞠だが、海路を使ったのはこれが初めてだった。
海風に揺れる桜色の小袖は、玉美屋の女将が陽鞠に譲った着物の一着だ。お師匠が見窄らしい恰好をしていては面目が立たないと、女将は何着も着物を陽鞠に譲っていた。おそらくは若い頃に着ていたものなのだろう。
その着物を見ていると、凜は去り際の女将の言葉を思い出す。
玉美屋を去る際に、女将は不機嫌そうに急にいなくなると迷惑だとさんざん文句を言った後に、いつでも戻ってこいと言ってくれた。
しかし、おそらく戻ることはないと凜は予感していた。
少なくとも、陽鞠と揃って戻ることはないだろう。
「陽鞠様。あまり風に当たると、お風邪をひきますよ」
十月の海風は十分に肌寒い。
まだ肉付きの薄い陽鞠の体には堪えると思い、凜は声をかける。
「それなら凜様、隣に立ってください」
海を見たまま、振り向きもしない陽鞠の言葉に従って、凜は陽鞠の隣に立つ。
半歩離れて立った凜との距離を、躊躇いもなく陽鞠は詰めた。凜に身を寄せて、着物ごしに腕と腕が触れ合う。
「こうすれば温かいです」
「そうですね」
陽鞠が巫女であった時の距離感を作ってくれたのが心地よくて、無意識に凜は陽鞠の腰をそっと抱く。
腰に触れた時、微かに陽鞠の体が跳ねたことを凜は気づかないふりをした。
「凜様。海を見てどう思いますか」
「海ですか? 海、ですね。落ちたら危険です」
「ふふ。私は凜様と見る海は、光が瞬くようで、どこまでも行けそうに広くて奇麗だと思います」
「そう、ですか」
詠うような陽鞠の言葉が、凜には欠片も理解できなかった。
いや、もちろん言いたいことは理解できる。陽の光を反射する果てのない海が、自由な未来を予感させてくれたという意味なのだろう。
言葉は理解できても、そう感じた心に重なる気持ちがなかった。
凜が海を見て思うのは、波の高さ、天候、危険な生き物はいないか、そんなことばかりだった。
「こんな話を前にもしましたね」
「済みません…」
「どうして謝るのですか。凜様が私と同じ考えを持つ必要なんてないんですよ」
「ですが、私はもっと貴女と気持ちを分かち合えるようになりたかった」
「凜様がそう考えてくれただけで、私はとても嬉しいです」
陽鞠の頭が傾き、凜の肩に自分の頭を乗せる。
そっと目を閉じながら陽鞠は、凜は自分で気が付いているのだろうかと思う。自分が過去形で話したということに。
そのことに陽鞠の胸は痛むが、態度に出したりはしない。
凜の今の態度に不満がないわけではない。
陽鞠は確かに凜に間違った態度をとったかもしれないが、凜もあまりにも頑なで意固地だった。
それでも、今それをぶつければ凜との確執を大きくするだけだと分かっていた。
どちらが良いとか悪いとか、陽鞠にはそんなことはどうでもよかった。
自分の方が正しいと主張して、本当に正しかったとして、その正しさに凜を失うだけの価値があるとは陽鞠には思えなかった。
お互いに正直に気持ちを打ち明け合えば、それで何もかも上手くいくなどと思えるほど、陽鞠の人生は幸福に満ちてはいなかった。
取り返しのつかないものを失わないためには、周到に準備し、機を待ち、逃げ道をふさぎ、それでようやく賭けに出ることができる。
「相変わらず仲がよろしいですね」
背後からかけられた声に、陽鞠は目を開ける。
するりと腰から離れる手を名残惜しく思いながら、触れられていた部分の甘く痺れるような余韻に浸る。
陽鞠がゆっくりと振り向くと、気まずげな顔をした蘇芳が立っていた。
「ごきげんよう、大公様」
凜との時間を邪魔されて、ささくれだった心を隠しながら、陽鞠は微笑みを貼り付ける。
「夕刻には江津に着きそうですので、お知らせしておこうかと」
「そうですか。随分と早いのですね」
「ええ。王国から購入した帆船ですから」
蘇芳が近づいた分、凜が陽鞠から離れる。
途端に海風が凜のくれた温かさを奪っていき、陽鞠は羽織の前を引き寄せた。
「もう冬も近いですね。だいぶ風も冷たいです。体調を崩されてはいけませんから、中にお戻りください」
「お気遣いありがとうございます」
頭を下げた陽鞠は、蘇芳の脇を通り抜けようとして、思い出したように足を止めた。
すぐ近くで足を止めた陽鞠に、蘇芳は怪訝な顔を浮かべる。
「そういえば、まだ対価のお話をしていませんでしたね」
「え…ええ」
「そろそろ、お話しておいた方がいいと思いまして」
「分かりました。場所を変えますか」
わずかに緊張した声で応じる蘇芳に、陽鞠は首を横に振る。
「いえ、そんなに大仰な話ではありませんし、ここの方がむしろ人目につかないでしょう」
蘇芳は人気のない甲板を見回す。
たしかに見通しのいい甲板は、誰かが近づけばすぐに気が付くことができるだろう。
「凜様、人払いをお願いしてもよろしいですか」
「承知しました」
陽鞠に言われて、二人から離れた凜は船室への出入り口付近に立つ。
実際のところ、こんな海上で警戒するようなものはない。
陽鞠が本当に聞かせたくないのは、自分なのだということに凜は気が付いていた。
凜は船縁の二人に目を向ける。
陽鞠は背伸びをして、蘇芳に寄り添うようにして耳打ちをしていた。
その姿は、愛らしい姫君と美しい皇子が睦言を交わしているようにしか見えなかった。
それを見ていることに耐えられず、凜は思わず目を逸らしてしまった。
陽鞠が求めるものが何なのか、凜には分からない。
しかし、自分に隠したいということは、隠れて会っていた相手と何か関わりがあるのかもしれない。
それを詮索しようとは、凜は思わない。
先ほどの海に対する言葉で、陽鞠は未来に光明を持っていると凜には分かった。
あるいは、今回の対価こそがその未来をもたらすのかもしれない。
それはきっと、凜との約束とは別のものなのだろう。陽鞠はまだ約束を忘れるなと言っているが、それは一度手に入れたものに対する、手離すことへの恐れか、執着にすぎないと凜は思った。
いや、思おうとしていた。
凜は守り手でありたかった。守り手であることを成し遂げたかった。
そのためなら陽鞠の未来に影を落とす、あらゆる障害を排除する。
あの日の雪辱を覆すだけのことをやり遂げ、陽鞠を幸福に導き、それでようやく凜は先に進めるのだ。
その時こそ、陽鞠を過去に留め続けようとする手を離して、陽鞠の未来を本当に祝福することが出来るようになると凜は考えていた。
例え陽鞠の隣に自分がいられなくなったとしても。




