五十七
蘇芳を座敷に案内した凜は、座敷の中で座る陽鞠の後ろに控える。
蘇芳は廊下に安座して、指をついて頭を下げたままだった。
供はいない。蘇芳が全て外に待機させていた。
「巫女様、お目通りをお許しいただき感謝いたします」
「巫女とはどなたのことですか」
静かだが、容赦のない物言いに、蘇芳の額に汗が滲む。
凜はこの話し合いに、陽鞠に求められない限り、口を差しはさむつもりがなかった。
「は、は…」
「とうぞ、お顔をお上げください。大公ともあろう方が、名もなき女に頭を下げるものではありません」
陽鞠の言葉に従い、顔を上げた蘇芳の目が陽鞠の姿を捉えた。
老婆のごとき白髪。最後に見た時よりも小さいとさえいえる体。その姿から逃げてはいけないと、無理に目を逸らさないようにしていることが凜には分かった。
「見窄らしい姿でしょう。貴方の知る巫女はもう死にました。私を巫女と呼んでいいのは、この姿になっても守り手であり続けてくれた凜様だけです」
不意打ちのように言われた言葉に、凜は微かに動揺する。
あれほど巫女と呼ばれることを嫌がっていたのに、どういう心境の変化だろうか。
あるいは蘇芳への嫌みのためだけに言ったのだろうか。
「そのような所におらず、中にお入り下さい」
言葉もない蘇芳に、陽鞠は少し柔らかくした声をかける。
その言葉に従い、入室した蘇芳は陽鞠と向かい合う。
「東青州公になられたと伺いました。祝着でございます」
「ありがたきお言葉…」
凜は目だけを動かして陽鞠を見た。
陽鞠の斜め後ろに控える凜には、陽鞠の顔を見ることはできない。
今の言葉も取りようによっては、自分を犠牲にして大公の座についた、と言っているようにも聞こえる。
陽鞠にしては随分と含みのある物言いに思えた。そもそも、陽鞠の方からこんなに声をかけていくのが意外だった。
まるで、この場の主導権を握ろうとしているようにも感じられた。
「それで、私に何のご用でしょうか」
「は。まずは、謝罪させて頂くことをお許しください」
「謝罪とは何に対してのものでしょうか」
「陽鞠様が不条理に囚われたことに対してです」
陽鞠の目が考えをまとめるように宙を彷徨う。
「それは、朝廷が正式に間違いであったことを認めるという意味でしょうか」
「いえ、私個人の謝罪です」
「そうですか。それでしたら、謝罪はいりません。あの状況で貴方が出来ることは何もなかったでしょう」
にべもない言葉に、蘇芳は喉を詰まらせた。
陽鞠の言葉は、初めからお前に何も期待していなかったというのと同義だった。
そして、それが正しかったと自らで証明してしまったのだ。この言葉に否を言える人間は、この世に一人しか存在しない。
「責めているわけではありません。事情は凜様から聞いています。誰も恨んでなどおりません」
それは建前などではなく、陽鞠の本心だった。
陽鞠にとって、他人とはそういうものだ。
疎まれ、恐れられ、貶められるのは、当たり前のことであって、いちいち恨んだりなどしない。
「それで、ご用向きの方をうかがえますか」
「甚だ身勝手な話ではありますが、巫女としてのお力をお借りしたく存じます」
蘇芳としては、謝罪が何らかの形をなしてから申し出たい話だった。
陽鞠がこうまで巫女にも、あの出来事にも無頓着なのは予想の外だった。謝罪を宙に放り投げられたまま、本題に移ることになるとは思っていなかった。
「私はもう巫女ではないと先ほども申し上げました。…いえ、違いますね。貴方方が私は巫女ではないと言ったのです」
「おっしゃる通りです。筋違いであることは重々承知しております」
「勘違いなさらないでください。私の立場をはっきりしておきたかっただけです。巫女だから、という理由で何かをすることはありません」
陽鞠の言葉の意図が分からず、内心で凜は首を傾げる。
険しい顔の蘇芳を見ているうちに、何となく陽鞠の考えていることが見えた。
これは言わば、価格交渉。あるいは、それに先立つ市場価値の提示。ただ働きはしないという陽鞠の意思表示なのかもしれない。
何も求めずに巫女の務めを果たしていた陽鞠の変わりように、凜は驚きを隠せなかった。
「…承知しました。まずは話を聞いて頂けるでしょうか」
「はい。巫女の力が必要ということは、穢れに関わることですね」
「その通りです。事の始まりは、私が東青州公の座を継いだところにあります」
陽鞠の許しを得て、蘇芳が説明を始める。
「陽鞠様は鴇羽殿をご存知ですか」
「ええ。前の東青州公、緑青様のご子息ですね」
「はい。私がいなければ、次の東青州公になるはずの方でした」
「そういえば、私との婚約がなくなっても、東青州公になれたのですね」
蘇芳が次の東青州公として最有力だったのは、巫女の伴侶が大公となる慣習があったからだ。
「あの時点ですでに地盤固めは終わっておりましたので…」
「なるほど。それでは余計に私に肩入れはできませんでしたね」
他人事のように言う陽鞠の冷静さに、蘇芳は気圧されていた。
蘇芳の知る穏やかな少女はもういなかった。あるいは、蘇芳が陽鞠の本質を見誤っていただけかもしれない。
「しかし、私が東青州公を継ぐ最大の名目を失ったのは事実です。鴇羽殿は跡目争いに敗れた後、それをくさして朝廷に不平をもつ衛士を集め、反乱を起こしました」
「朝廷に不満を持つ衛士がそれほどいたのですか」
「もともと東青州の衛士は二つの派閥に分かれていました。鴇羽殿についたのは旧士族の流れを汲む守旧派です。東青州は歴史的に士族の力が強い地ですから、士族が廃されたことに不満を持つものは少なくなかったのです」
かつて武士と呼ばれて土地を治めた士族は、一部の地下貴族となった領主以外は、戦乱の時代の終わりと共に土地を奪われて職業軍人である衛士になった。
もちろん、その多くは士官階級となったが、近年では平民出身者が軍部でも台頭してきている。
「ですが、反乱は失敗に終わったのですね」
「ええ。彼らは軍部の勢力としてはそれなりですが、戦は士官だけで出来るものではありません。一般の衛士や軍以外との繋がりが薄い彼らが反乱を起こしたところで、補給もままなりません」
「それを理解していなかったのですか」
「理解していました。彼らも、そして私たちも。彼らが勝利するには、奇襲で私の首を取るしかありませんでした。それが分かっていれば、対策は難しくありません。敗走した彼らは州都郊外の綿津見神社に立て籠もりました」
「東青州では昔から綿津見神を信仰していましたね」
西白州つまりは朝廷では山祇神を信仰している。その信仰の違いも、東青州が朝廷と反目する理由の一つだった。
「綿津見神社に攻め入ることはできません。民心を失いますから。私たちは神社を包囲し、降伏を勧告しました」
凜にはもう、結末が想像できてげんなりしてしまった。
自尊心が高く、死ぬことを美しく考えすぎる古い考えの士族が、追い詰められてどうするかなど分かりきっている。
「七日が経ち、偵察に出たものが見たものは拝殿を埋めつくす穢れと、穢れの中で蠢く何かでした」
「…」
陽鞠は無言で瞑目した。
しばしの沈黙が座敷に落ちる。
「今はまだ、神社を封鎖していますが、いずれ民に知られるのも時間の問題です。そうなれば民心は乱れ、大きな騒ぎになるでしょう」
「それも穢れがある限り、長期間にわたってですね」
「はい。場合によっては州都を移さなければならないかもしれません」
「貴方のお立場も危うくなるかもしれません」
「それも否定しません。私が失脚すると朝凪家には直系の男子がもういませんから、分家から婿を入れることになるでしょう。大公家の力が弱まり、朝廷の介入が強まれば、東青州は更に乱れます」
「貴方は親王。朝廷側ではないのですか」
「この場合の朝廷とは、朝廷貴族の利権という意味です。山祇国の安寧という意味においては、朝廷は介入を控え東青州を緩やかに吸収していくべきです」
「それが政というわけですね」
蘇芳の物言いに、紫星と同じものを感じて凜は鼻白んだ。
その政の理論で不条理な目に合わせた人を前によく言うと思う。
「放置しておけない穢れなのはよく分かりました。それで、私にその穢れを祓うことを望まれるのですか」
「はい。お力の健在を知らしめることができれば、陽鞠様の巫女への復権も叶いましょう」
「いえ、それはいりません」
「は…は?」
さらりと断る陽鞠に、蘇芳が間の抜けた顔を晒す。
「巫女に戻るつもりはありません。それよりも欲しいものがあります」
「…それは何でしょうか」
「今は言えませんが、けして無理な要求はいたしません。それでよろしければ、お引き受けしてもかまいません」
蘇芳は微かに眉を寄せる。
内容の分からない対価を約束することは難しい。それは警戒というよりも、誠意ある対応が可能かどうかいう意味において。
それが分かっているからこそ、陽鞠も無理を言わないとわざわざ告げたのであろう。
初めて会った時から変わらない、陽鞠の穏やかな微笑みを浮かべた顔を、蘇芳は正面から見る。
今なら蘇芳にも分かった。陽鞠は一度も自分に笑いかけたことなどないと。その微笑みはただ貼り付けただけのもので、琥珀の瞳が見ているのは、かつては親王であり、今は東青州公でしかない。
それは、蘇芳が陽鞠と巫女を不可分のものとして見てこなかったからだ。
「…承知いたしました。その条件で穢れの祓いをお願いします」
その言葉に深まった陽鞠の笑みに、蘇芳は見たこともない《《女》》を感じた。
七章<了>




