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五十六

 廊下を歩きながら、凜は陽鞠が触れた手を、もう片方の手で撫でる。

 触れた手の温かさに絆されて、余計なことを言いそうになってしまった。

 以前のままの関係でいさせてほしいなんて。


 陽鞠が巫女から解放されて嬉しい。

 陽鞠が禿たちと楽しげに稽古をしていて嬉しい。

 そうやって変わっていく陽鞠を良いことだと思っているのは嘘ではない。


 しかし、そうやって陽鞠が変わっていくほどに距離が離れていくのを凜は感じていた。

 それはきっと、自分が進めていないからなのも分かっていた。分かっていても、距離が空くほどに頑なになっている自分も、また理解していた。


 凜はもうそれでいいと思っていた。

 もともと、陽鞠に求められたから分不相応な立ち位置にいたのだ。

 陽鞠が求めた自分を、陽鞠が必要としなくなるならそれまでのことだった。


 守り手になった時に華陽に言った通りだ。

 陽鞠のひと時の心の拠り所になれればそれでいい。

 その後のことなど知らない。


 なかなか上手く自然に振る舞えないことだけが、陽鞠に申し訳なかった。

 いつの間にか、凜の方が陽鞠に依存していた。

 一緒に寝るのをやめたのも、本当は陽鞠から離れることを少しでも当たり前にするためだった。


 孤独を深めていくたびに、言いようのない寂寥感が凜の心に積もっていった。

 積もるほどに心は冬になっていくが、それで良かった。凍てついてしまえば、痛むこともなくなるのだから。


 先ほどの別れ際の傷ついたような陽鞠の顔を頭から締め出しながら、凜は土間に面した板の間に出た。

 暖簾の前に妓女たちが鈴なりになって騒いでいる。


 暖簾の外から入ってきた女将が、妓女たちを散らし、板の間の凜に気がつく。


「ちょうどいい。お前さんに客だよ」

「私にですか」

「店の前に居座られたんじゃ邪魔で仕方ない。さっさとどいてもらっとくれ」


 不機嫌そうな女将に首を傾げながら、凜は土間に下りる。

 そのまま、暖簾をくぐって外に出た凜は眉をしかめた。


 入り口の真ん前に立派な駕籠がとまり、その周囲を人だかりを遮るように衛士が取り囲んでいる。

 そして駕籠の前には、一人の青年が立っていた。

 ひと目で貴人と分かる品のある端正な顔立ち。小袖に羽織だけの気軽な装いだが、金糸の精緻な意匠が施された黒染めの絹は、詳しくない凜が見ても逸品であると分かる。


 その顔を見た瞬間、衛士たちが一斉に振り向くほどの殺気を凜が放った。

 そして次の瞬間には、陽炎のように殺気が霧散する。


 脇に控える衛士が腰のサーベルの柄に手をかけるのを、手ぶりで制した青年は、今や東青州公となった蘇芳であった。


「久しいな、凜」

「…」


 凜は蘇芳の前に突っ立ったまま、無言で視線を逸らした。

 流石に正面から見たままでは、感情の制御が追いつかなかった。


「貴様っ、公の前で無礼であ…ぐっ」


 言いかけた衛士の口を、蘇芳の手加減のない裏拳が止めた。


「一人で来ると言った私に無理についてきたのはお主らだ。お主らの立場もあるから私も認めた。余計な口を差しはさむな、という条件でな」

「はっ、申し訳ございません」


 拳についた血を手巾で拭きながら、静かな声で言う蘇芳に、殴られた衛士は膝をつく。


「茶番は終わったか? なら、去れ」


 醒めた声と目で、凜は投げやりに言い放つ。

 踵を返そうとする凜の前で、蘇芳は両膝を地面について首を垂れた。

 

「何の真似だ」

「陽鞠様と話をさせて頂きたい」

「それなら初めからそう言え。陽鞠様に聞いてきてやる」

「いや、そうではない」


 首を垂れたまま、蘇芳は凜を止める。


「陽鞠様にはむろん聞いて頂きたい。しかし、その前に其方から陽鞠様に会う許しがほしい」

「知るか。陽鞠様がお前に会うと言うなら、私の意思など関係ない」

「やはり、其方は私を恨んでいるのか」


 そう言い終えるよりも早く、抜き打った凜の剣の切っ先が蘇芳の額に突きつけられていた。

 はらりと蘇芳の前髪が思い出したように地面に落ちる。

 誰も、傍で控えていた衛士たちですら、反応どころか、凜がいつ抜いたかすら認識できなかった。


 凍り付いたように動けない人々のなかで、凜と蘇芳だけが平静を保っていた。

 蘇芳は目の前に突きつけられた刃にも、首を垂れたまま表情一つ動かさない。


「勘違いするなよ。お前が今、生きているのは、陽鞠様が生きていたからに過ぎない。そして、陽鞠様が生きていることにお前は何か寄与しているのか」

「…何もできなかった。朝廷は陽鞠様の居所を、私には頑なに隠した。東青州の平定で余力もなかった」

「お前の事情など知るか」


 凜の剣が音もなく鞘に納められる。

 それすらも、いつ納刀したのか誰の目にも止まらなかった。

 速いというより、無駄がなく自然で、認識し辛い。それほどまでに、凜の剣の扱いは《《日常》》の一部と化していた。


 凜は吐き捨てるように言葉を続けた。


「お前が楽になりたいだけの許しなど与えるものか」 

「そうだな。其方の言うとおりだ。行いを以て其方の許しを請うことにしよう」


 蘇芳は立ち上がり、正面から凜と向かい合った。

 あらためて凜を見れば、美しく育ったと思う。しかし、それは刃金の美しさだった。

 誰も寄せ付けない、孤独な美。

 

「陽鞠様に取り次いでもらえるか」


 蘇芳の言葉に応もなく、今度こそ凜は踵を返した。


◇◇◇


 中に戻った凜は、女将に来客であることを告げ、廊下を戻る。

 驚くほど心の中は凪いでいた。

 蘇芳を見て、一瞬だけ怒りに我を忘れそうになったが、それもすぐに消えた。


 自分が蘇芳をどう思うかなど、もう凜にはどうでもよかった。

 蘇芳の目的は知らないが、陽鞠の益になるならそれでいい。そして、益になるかどうか決めるのは陽鞠であって、凜の主観は必要ない。

 一度、蘇芳を陽鞠に必要と勝手に判断して失敗した凜には、それを判断する資格はないと思った。


 凜が座敷の前まで戻ると、廊下に膝をついた陽鞠の傍で一人の妓女が困惑していた。


「陽鞠、どうかしましたか」


 凜が声をかけると、陽鞠が顔を上げる。

 その目から溢れる涙に、凜の頭が真っ白になった。

 前に陽鞠の涙を見た時は、理由が分からずとも抱きしめてあげることが出来たのに、今はそれが出来ない。


 そっと伸ばされた凜の震える指を、陽鞠の手が柔らかく押し留めた。


「大丈夫です。少し情緒が不安定になってしまっただけです」


 柔らかな笑みを見せると、陽鞠は自分の袖でさっと涙を拭ってしまう。

 拭った後には、もう涙は流れていなかった。


「《《凜様》》。何かあったのですか」


 陽鞠の口調に、凜は少しだけ戸惑った。

 まるで、巫女の頃に戻ったようだった。何か察するものがあったのかもしれないと凜は思う。

 この方が、凜も接し易かった。以前のように守り手であればいいのだから。

 そう思うのに、何故か凜の心は刺すように痛んだ。


「陽鞠様に来客です」


 言いながら、凜が傍の妓女に目を向けると、察した妓女は軽く頭を下げて去っていく。

 陽鞠を座敷の中に入れて襖を閉めながら、様付けしても指摘しなかったことに凜は安堵する。


「来客、ですか?」

「はい。東青州公が陽鞠様にお目通りしたいそうです」

「大公様…? ああ、蘇芳様ですか」


 とくに感慨もなく、陽鞠はその名を口にする。

 下手をすれば、いまのいままで忘れていたと言わんばかりの反応だった。

 何の恨みも感じられない。あるいは、あの場に蘇芳がいたことを、陽鞠は気づいていないのかもしれないと凜は思った。

 あの時の陽鞠は意識がほとんどなかったのだから、ありえることだ。

 それほどに関心の感じられない口ぶりであった。


「何のご用なのでしょうか」

「聞いておりません」

「そうですか。凜様はどう思いますか」

「どう、とは」

「会わない方がいいと思いますか」

「私には分かりかねます」

「私は凜様が会ってほしいか、ほしくないかを聞いたつもりでしたが…」


 陽鞠は自嘲気味な笑みを浮かべる。


「こういう問いが貴女を困らせているのですね」

「陽鞠様…」

「いいのです。もう」


 静かな陽鞠の声に、凜は背筋がひやりとする。

 呆れられたのだろうか。それも仕方のないことだと凜は思う。


「分かりました。お会いしましょう」


 静かな陽鞠の声は、しかし深い決意を秘めているように凜には聞こえた。

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