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五十五

 斑鳩帝二年十月。

 陽鞠が玉美屋でお箏の師匠を始めてから、ふた月が経っていた。

 人にものを教えるのは陽鞠にとって初めてのことだったが、なかなか趣深いものだった。今まで感覚的に行っていたことを言語化することには、新たな知見がある。


 最初は戸惑いもあったが、自分が社会の輪に入っている感覚は陽鞠にとって喜びだった。


「お師匠さま、ありがとうございました」


 広い座敷に五人ほど集めて行われる稽古を終えると、禿たちはお行儀よく礼をして出ていく。

 幼子たちの愛らしさに、陽鞠も自然と笑みが溢れる。


 陽鞠が教えているのは、禿の中でも器量のいい子たち。たんに顔かたちが整っているにとどまらず、頭のいい将来を期待された引込禿だ。

 それが、初めて接する子供として、ちょうど良かった。

 年齢の割に行儀良く大人びた子供たち。普通の十にもならない野放図な子供が相手では、陽鞠も戸惑ってしまっただろう。


 陽鞠にとって他人とは大人のことだ。

 同年代の子供ですら、まともに話したことがあるのは凜と由羅だけだった。そのどちらも年齢相応の子供らしさなど、初めから持ち合わせていなかった。


 だから、普通の子供らしい稚気も持ち合わせた禿たちが愛らしくて仕方なかった。

 叱れば落ち込むし、褒めれば喜ぶ。そんな当たり前の感情のやり取りがあることを、陽鞠は初めて知った。

 もちろん、知識としては知っていたが、それは陽鞠とは異なる世界で行われているものだと感じていた。

 凜ですら、そういう素直な感情を陽鞠にくれることはなかった。

 

 稽古が終わったことを女将に報告しようと、少し逡巡しながら陽鞠は座敷の襖を開ける。

 予想通り、廊下に凜が正座で控えていて、ため息をつく。


「お疲れ様です」


 声をかけてくる何を考えているのか分からない凜の顔をじっと見る。

 目を合わせようとしない凜の態度に、募っていた苛立ちが口を開けさせる。


「それ、やめて」

「それ、とは何でしょうか」

「私はもう凜の主人ではないと言ったよね」

「…」


 余人なら分からないであろう、微かに凜の顔に浮かんだ傷ついた表情に陽鞠は気が付いてしまった。

 何で、と陽鞠は思ってしまう。傷ついたのは私の方だと。


 最近の凜の態度に、陽鞠はもどかしいものを感じていた。

 まるで、守り手になる前の凜に戻ってしまったようで、心を閉ざされているような気すらする。

 それどころか、嵐の夜の後の凜に似ていて、諦めのようなものを感じさせた。


「何で何も言ってくれないの。黙っていたら分からないよ」


 何か言いかけ、しかし凜は口を噤んでしまう。

 責めるような言い方をしてしまったことに、陽鞠も俯く。


「…ごめんなさい。責めているわけではないの」


 膝をついた陽鞠が、凜の手を取る。

 冷やりとした手が引かれようとするのを、強く握って離さない。凜からすれば力を入れようとも大差ないはずだが、不思議と引きはがされなかった。


「凜。言いたくないなら言わなくてもいいから。でも、約束だけは忘れないでね」

「もちろんです」


 ぎこちなく陽鞠が微笑むと、凜も笑みを返してくれるが、それが作ったものだと気がついてしまう。

 凜がいつからそんな笑い方をするようになったのか分からなくて、陽鞠は寒気がする。

 何かが掛け違ってしまったような不安が消えてくれない。


「り…」

「何か騒がしいですね」


 言葉を重ねようとした陽鞠を、凜の言葉が遮る。

 凜が視線を向ける先、廊下の先の土間の方が確かにざわめいているようだった。

 しかし、陽鞠には会話を拒絶されたように感じて、言葉に詰まる。


「少し、様子を見てきます」


 するりと手を外されて、立ち上がった凜が歩き去る。

 それに声をかけることが出来なくて、陽鞠は凜の手を握っていた手を胸元に当て、もう片方の手を重ねた。


 玉美屋に移り住んでから、人の目があるからと凜は一緒に寝てもくれなくなった。

 久しぶりに凜の肌に触れて、心臓が高鳴っている。


 この気持ちを気付かれてしまったのだろうかと陽鞠は思う。

 気持ちだけならともかく、欲望に気付かれてしまったらと思うとぞっとする。

 同じ女に肉欲を持っているなんてことだけは、絶対に知られたくなかった。


「お師匠さん?」


 陽鞠が廊下で膝をついていると、凜と入れ替わりにやってきた娘が、怪訝そうに声をかけてきた。


「胡蝶さん」


 陽鞠がその娘の名を口にする。

 美しい娘だが、化粧をしていてもあどけなさが抜けきらない、陽鞠よりも一つ二つ下の少女だった。

 胡蝶は娼妓だ。

 成人してから買われてきたこの娘には、芸事を習う期間はなかった。最低限の作法を身につけた後は、すぐに見世に出されていた。

 それでも芸事を習いたいと、空いた時間で陽鞠に師事している。


 胡蝶のような娼妓を前にすると、陽鞠は胸が苦しくなる。

 哀れみも、同情もしない。しかし、彼女たちは望んで妓女になったわけではないのだ。

 自分であったら耐えられないと陽鞠は思う。それは、陽鞠が肌を許す相手を決めているからであって、彼女たちの生き方を否定するものではない。


「凜さんが強い顔しておりましたけど」


 慣れない都ことばで話す胡蝶の言葉が、陽鞠に突き刺さる。


「そう、ですか」

「喧嘩でもされたのですか」

「いいえ。喧嘩なんてしていません」


 喧嘩の方がいくらかましだ。

 お互いに思ったことを言い合えているということなのだから。

 凜は喧嘩すらしてくれない。そう思うと陽鞠は泣きそうな気分になる。


「でも、凜さん元気になって良うございましたな」

「え…?」


 どういう意味かと陽鞠が見つめると、胡蝶ははにかんだ。


「わてを悪漢から助けてくださった時の凜さんは、とても怖くて思い詰めていらしたので」

「それは、いつ頃の話ですか」

「わてが廓に来る道中のことです。かれこれ五か月も前になります」


 陽鞠が助け出される直前のことだった。

 離れている間にあったことは凜から聞いたといっても、それは概要や陽鞠に関わる話だけだ。

 凜はけして自身のことは語らなかった。


「あの時の凜さんは幽鬼のようでした」

「そんなにですか」

「へぇ。後から姐さんから探し人をしてると聞きました。お師匠さんがその探し人だったのですね」


 凜はどんな気持ちで自分を探していたのだろうかと陽鞠は思う。

 陽鞠はたしかにひどい目にあったのだろう。しかし、言ってしまえば、ただ諦めていただけだった。

 生きているかも、どこにいるかも分からない人間を探し続けた凜がどんな気持ちだったかなど、陽鞠は考えていなかった。

 やっとの思いで見つけた人間が正気を失っていて、凜は絶望しなかったのだろうか。


 凜がしてくれたことが嬉しくて、陽鞠はそのことばかりに気を取られていた。

 今更のように、凜がどんな思いだったのか考えていなかったことに気が付く。

 陽鞠が捕まったことを自分の責任だと思うくらいに、凜が生真面目だと知っていたのに。それをいくら陽鞠が否定したところで、凜がそう思いながら探してくれていた事実は何も変わらない。


 凜の献身が嬉しくて、夢見ていた凜との暮らしが手に入って、それが、あまりにも幸せで。

 きっと陽鞠は浮かれていた。

 陽鞠にとって、捕まったことも、正体を失っていた間のことも過去に過ぎない。

 手に入ったものの大きさに比べれば、忘れてしまえる程度のものだった。


 うなされる凜を見ても、過去のことに苦しんでいるとしか思っていなかった。

 しかし、凜にとっては今も続く現在なのだ。

 凜はきっと、約束があったから陽鞠を探し続けてくれた。

 凜にとって、守り手であることは約束そのものだ。

 凜も陽鞠も、巫女にはさして価値を感じていない。だからといって、守り手であることまで軽く見てはいけなかったのだ。

 凜は巫女の守り手になってくれたわけではない。陽鞠の守り手になってくれたのに。

 それが何より嬉しかったはずなのに、自分が巫女から解放されたことに浮かれて、凜が守り手であることまで否定してしまった。


「お師匠さん。大丈夫ですか」

「え…」

「泣いているんですか」


 言われて、頬を伝った涙が廊下に落ちていることに陽鞠は気が付いた。

 悲しかった。

 それがどんなに不器用でもひたすらに陽鞠のことを考えてくれる凜に対して、自分のことばかりを考えていることが、陽鞠はただ悲しかった。

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