五十四
客間を出た女将は、少しだけ廊下を歩いてから立ち止り、振り向いた。
その後ろをついて歩く凜も足を止める。
「どうかしましたか」
「謝礼の話もなにもせずに引き受けてもらったけど、詳しいことはあんたに話せばいいかね」
「そうですね。陽鞠にお金の話をしても分からないでしょう」
陽鞠は意外なほどに庶民的な価値感をもっているが、お金そのものを自分で持ったことはない。それは凜の仕事だった。
凜は女将が胡乱な目を向けてきたことに気付いて、首を傾げる。
「あの方のご身分を隠したければ、もう少し言葉に気をつけな」
「いいところのお嬢様だとは言っておいたでしょう」
「いいところの、では済まないと言っているんだよ」
ぴくりと凜の眉が動く。
「それはどういう…」
「分かる人間には分かるって話さ」
「…何が悪かったですか」
「そうだね。細かいことを言えばきりがないが、山祇琴に触れたのは良くなかったね。あれは弾く人間が限られる」
その言葉を口にしたのは陽鞠だが、話の流れを作ったのは凜だった。
陽鞠を閉じ込めておくよりも、自分の浅慮を何とかしろと、凜は内心でほぞを噛む。
「そこにお前さんの存在を加えれば、自ずと答えは出ちまうさ」
「私がいるから…」
「何にせよ、あの方を幸せにしたいなら、お前さんもよく考えることだね」
女将は外から見ているだけに、陽鞠の望みを正確に汲み取った。
男と女の駆け引きの世界で生きてきた女将には、陽鞠の態度はいっそあからさまなほどであった。
しかし、凜は女将の言葉をそのままの意味で捉えた。
自分がいない方が、陽鞠は自由になれるのだろうか。そんな考えが、凜の頭に浮かぶ。
陽鞠の幸せだけを考えた時に、自分の役割はすでに終わっているのではないのかと。
守り手に固執する自分がそばにいることが、むしろ陽鞠を縛りつけているではないか。
踵を返した女将の背中を追いながら、そんな思考の迷路に凜は迷い込んでいた。
だから注意力が散漫になっていたというのは、流石に凜に酷であろうか。
土間に面する板の間に女将と出た時、土間に立つ男が凜を見て微かに表情を動かしたことに気付かなかった。
背広に総髪撫付のいかにも役人といった風体の、怜悧だが冷徹というよりは理知的な雰囲気をもった三十歳ほどの男だった。
男は奥から現れた女将に会釈をする。
他人を威圧することのない、穏やかな物腰だった。
「東青州公の補佐官をしております藤波と申します。急な来訪、申し訳ありません」
東青州公という言葉に、凜の顔が強張った。
蘇芳が東青州の大公の座を継いだことは凜も噂で知っていた。
自然と凜の中で警戒心が高まる。朝廷と王国は、最も陽鞠の存在を隠匿したい相手だった。そして、神祇府と蘇芳は凜にとって朝廷そのものともいえる。
朝廷を抑えるという西白州公の言葉を信じていないわけではないが、暴走する輩はどこにでもいるものだ。
凜は女将の後ろに控えて、影のように気配を殺す。
「ご丁寧にどうも。玉美屋の女将です。お役人様が何の御用でしょうか」
「ああ、構えないで頂きたい。本日はお詫びに参ったのです」
「詫び、ですか」
「ええ。先日、当州の武官であったものがこちらにご迷惑をおかけしたことで」
やはり、その件かと女将は納得する。
「すでに揚屋の代金はお支払い頂いたと聞きましたが」
「それはそれです。お店の方には怖い思いをさせてしまったでしょう。些少ですが、こちらはそのお詫びです」
藤波が懐から取り出した包みを、女将は受け取って袖口に納めた。
「お役人様がこんなことをされてよろしいので」
「私が裁量をまかされている公の私財です。問題ありません」
「新しい大公様は随分と気前がよろしいのですな」
「公はご自分が大公を継承されたことで、世情を乱したことに心を痛めておられるのです」
その会話を、凜は心を殺して聞いていた。
世情に痛める心はあっても、陽鞠に痛める心はないのかと、沸き上がる怒りを切り捨てる。
蘇芳のことを平静な心で聞くことは難しかった。
かつては、その怒りと憎しみだけを糧として心を支えていたのだ。
しかし、陽鞠を取り戻した今となっては、大事なのは陽鞠がどう思うかであって、凜が蘇芳をどう思うかなど何の意味もない。
「ですが、怪我人がなくて良かった。お店の方で捕まえられたと聞きましたが」
「ええ、幸運にも」
女将は凜のことに言及しなかったが、藤波の視線は凜に向かっていた。
揚屋に男を引き渡す際に、状況は女将が伝えている。それは官憲にも伝わっているだろう。藤波がそれを聞いていれば、凜のことを知らないはずはなかった。
「あの者はそれなりに腕の立つ男だったのですが、大したものです」
しかし、追及はされずに凜に向けられた視線は外された。
面倒がなくていいと凜は思うが、言葉には違和感をおぼえる。
あの男の腕が立つとは思えなかったからだ。いや、と凜は自分の考えを改めた。
王国の部隊や、神祇府の刺客。そして先日の重里。あまりにも濃密な死闘が続いて、感覚がおかしくなっている。
普通の衛士として考えれば、あの男は十分な腕前であった。
自分の感覚が常識から乖離し、それが当たり前となりかけていることに凜はぞっとする。
人を斬ることに抵抗を失くしている自分の方が、陽鞠よりもよほど市井に適応できなくなっているのかもしれない。
「…おや?」
怪訝そうに、藤波が顔を上げる。
微かに、筝の音が廊下の奥から聞こえてきていた。
藤波は目を閉じて、しばらくの間、筝の音に耳を澄ませた。
凜はその様子に微かに緊張する。
先ほどの女将の言葉が思い出される。この演奏が陽鞠と結びつけられるものなのかどうか、凜には判断できなかった。
「…ああ、素晴らしい奏者ですね。これほどの音を聴くのは二年ぶりでしょうか」
筝の音が止まったところで、藤波は嘆息を漏らす。
「おや、お役人様は雅楽もお分かりになるので」
「ええ、公に仕える前は神職でしたので」
女将の問いに、藤波は笑みを浮かべて頷いた。
御神楽を担う神職にあるものが、雅楽に通じているのは当然であった。
陽鞠が楽器を嗜むのも同じ理由だ。
藤波の様子はたんに感心しただけのように見えたが、凜は引っかかるものを覚えた。
神職というのが、神祇府を想起させて嫌な感じがしたのだ。
「失礼しました。聞き惚れて、余計な時間を取らせてしまいました」
謝罪の言葉とともに、藤波は慇懃に頭を下げる。
「それでは、私はこれで」
藤波は短い言葉を残して、あっさりと踵を返すと、暖簾をくぐって出ていった。
何事もなく終わったことに凜は息を漏らすが、これが何かの切掛のように思えて胸が騒いだ。




