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五十三

 凜が御高祖頭巾の陽鞠を連れて、玉美屋の暖簾をくぐると、そこかしこからざわめきが上がった。

 昼時は妓女たちも自由にしており、気だるげな雰囲気の置屋を、陽鞠は物珍しげに見回す。

 集まった視線にも怯えた様子は見せないが、ぴたりと距離を詰めて凜に寄り添った。それを怯えととるか、威嚇ととるかは見るものに依るだろう。


「女将。連れてきました」


 凜が声をかけると、番台から顔を上げた女将は、凜の顔を見てから隣に立つ陽鞠に視線を移す。その見た目の幼さと、金の瞳に驚きながら番台を立った。

 土間に下りた女将は、陽鞠の前に立つ。

 近くで見れば、妓女たちが霞むような可憐な少女であることが分かる。

 木綿の地味な着物がまるで役に足りていない。淡い色彩の振袖が似合いそうなどと考えてしまうのは、仕事柄であろう。


「ご足労をおかけしました。玉美屋の女将でございます」

「ご丁寧にありがとうございます。陽鞠と申します」


 お辞儀をする陽鞠の、洗練された所作に女将は目を見張った。

 凜の無駄を徹底してなくした動きの美しさとはまた違う、人に見られることを当たり前とするものの品のある所作だ。

 自らも妓女として指先まで意識し、太夫として大公の座敷も務めたことのある女将には、陽鞠の生まれの尊さが見てとれた。

 あらためて、凜が何者なのかという疑問が女将の頭を掠める。


「奥でお話しましょう。お上がりください」


 女将に連れられて、凜たちは番台の奥へと通される。

 妓女たちは置屋の二階部分で生活しており、一階は人気も少なく静かだ。

 土間を上がることすらほとんどない凜にとっても、滅多に入ることのない場所であった。


 ほどなく女将が二人を通したのは、六畳の客間であった。

 上座にはお筝が置かれている。


 女将に身振りで上座を勧められた陽鞠は、自然とそれを受け入れて、遠慮なくお筝の前に座る。

 頭巾を解くと、束髪にした白い髪が露わになり、女将はわずかに目を細めた。


 陽鞠の少し後ろに控えるように座った凜が、お筝を見て首を傾げた。


「陽鞠が弾いていたものと違いますね」


 形は似ているが、陽鞠が巫女屋敷や四方拝で奏でていた琴よりも絃の数が多い。


「あれは山祗琴ですから。こちらのお筝の方が一般的ですね」

「そうなのですか。存じ上げず申し訳ありません。弾けますか?」

「ええ。問題ありません」


 人前のため、陽鞠は凜にも敬語で話す。

 それを聞きながら、女将は冷や汗を浮かべていた。


 太夫であった女将には、陽鞠の正体が朧げに見えてしまった。

 遊女の最高格である太夫の客は領主や朝廷貴族であり、それだけの芸と教養が求められる。その語源は官位の大夫からきており、古くは実際に太夫が持っていた五位の位は皇に謁見できることを意味していた。

 それほどの位を持つのは、太夫の源流が摂家にすら芸と知恵で仕えた白拍子にあるからだ。白拍子とはすなわち、巫の一種である。巫の頂点とは、巫女だ。

 つまり、太夫とは巫女を奉じるものの系譜にあるのだ。当然、山祇琴を奏でることが許されている女が、皇家のものか、巫女その人しかいないことを知っていた。


 もちろん皇家の姫である可能性もあるが、凜の存在がほとんど答えになっていた。

 なるほど女を引き立たせるわけだと、女将は得心がいく。この山祇で最も尊い女人のそばに侍る女。それは太夫の隣に立っても霞まず、引き立てるのも当然だろう。


 確信に近い憶測を、しかし女将は一切、表情には見せずに己が胸の内に沈めた。

 過去を詮索しないことは花街の暗黙の了解だ。過去を詮索されて気分のいい妓女など、存在しないといっても過言ではない。

 それは女将とて同じことだ。

 凜は一度として女将のことも、女だてらに女衒をしている妹のことも詮索してこなかった。


「試し、というわけではございませんが、一曲聞かせて頂いてもよろしいでしょうか」

「はい。それでは半可ながら」


 筝爪を付けた陽鞠が、を調整して音を合わせる。一絃から巾絃まで十三本の絃をほとんど一回で合わせてしまう。

 その気品のある手慣れた仕草と耳のよさに女将は内心で唸った。


 全ての柱を立てて、絃に指を添えるその姿がすでに美しい。

 一音を奏でれば、その音は美しく情感に溢れている。

 夏の夜。蚊遣火をたいて、恋人を待つやるせない心情の唄。手習い程度の簡単な曲だが、そうであるが故に奏者の優れた技量が映える。


 そして、曲に本物の感情がのっていた。

 誰かの帰りを待つ奏者の姿が、ありありと目に浮かぶようであった。

 澄んだ、寂寥を感じさせるお琴の音が、後ろに控える凜に絡みつくのを女将は幻視した。

 今、この瞬間、女将がいるはずの客間が、奏者と凜の二人だけの世界になっている。それほどまでに、ただ一人に向けられた音だった。


「久しぶりにお筝に触れました故、手習いではありますが」


 弾き終えた陽鞠が頭を下げると、引き込まれていた女将は、夢から醒めるように我に返った。

 先ほどまで、あれほど峻烈で情念に満ちた音を出した人物とは思えないほど、陽鞠は儚げな微笑みを浮かべていた。


「結構なお手前で」


 頭を下げ返しながら、名手といっていいだろうと女将は思う。

 技量だけでいえば、優れてはいるがいくらでも上はいるだろう。

 たんに技量が優れているに留まらない、音で人の心を揺さぶることのできる奏者だ。


「是非にお願いしたいのですが、廓もののお師匠などよろしいのでしょうか」

「まあ。お稽古に貴賤はございません」


 普段であれば聞かなかったことを聞いてしまったのは、女将も平静ではなかったからだろう。

 妓女は表向きは世間的に軽蔑されるものではない。

 親の借金を肩代わりして働く女たちは、孝行ものとして認識されている。

 体を売らない芸妓ともなれば、誇り高い、むしろ誇りだけを煮詰めたような女たちだ。

 それでも咄嗟に卑下してしまうほどに、陽鞠は畏れ多い存在だった。


「それでは、禿の手解きをお願いします」

「謹んでお受けいたします」


 座敷に上がるような妓女の大半は、外に師匠を持っている。

 置屋で教えるのは、師匠につく前の基礎の技術になる。だから大半は禿であり、希に娼妓が芸を覚えるために加わるくらいだ。


 具体的な話を女将が進めようとした時、客間の外から「女将さん」と呼ぶ声が聞こえた。

 陽鞠に目礼し、女将が襖を開けると、困惑した顔を浮かべた禿が立っていた。


「何だい。来客中だよ」

「すみません。東青州のお役人という人が来てまして」

「お役人が?」


 新浜の役人ならともかく、東青州の役人がわざわざ訪ねてくる理由が分からない。

 とはいえ、役人を蔑ろには出来なかった。


 女将が陽鞠に顔を向けると、穏やかな笑みで頷かれる。


「どうぞ、私にはお構いなく」

「お気遣いいたみいります」


 女将の目が一瞬だけ、凜の方を見た。

 東青州といえば先日の衛士のことが思い出される。役人が因縁をつけてくるとは思わないが、状況の説明のためにも立ち会ってくれれば助かった。

 しかし、視線に気づいたはずの凜は、何の反応も見せなかった。


 内心でため息をついた女将は、何の気も無しに陽鞠を見て背筋が凍りついた。

 凜に目配らせしたのは、ほんの一瞬。

 陽鞠の目が、冷たく昏い光を湛えていた。まるで自分の断りなく凜を使おうとするなと言わんばかりの目。それは瞬きの間に消えうせたが、女将の背筋に残る悪寒が幻ではないことを確信させた。


「凜もお供して上げてください。お仕事でしょう」

「承知しました」


 まるで先ほどの目が嘘であったかのように穏やかな声で陽鞠が言うと、迷いもなく凜は立ち上がる。

 自分の目配せには何の反応もしなかったのに、と女将は呆れるしかなかった。


「お待ちしている間、お筝を弾かせていただいてもよろしいでしょうか」

「ええ。もちろんです」


 陽鞠の言葉に応じてから、女将は客間を出る。

 横を通り過ぎる瞬間、陽鞠が凜の指に一瞬だけ指を絡めたのを、女将は目の端で確かに捉えていた。

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