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五十二

 置屋の壁に背中を預けて、凜はため息を漏らす。

 昼間に感じた心のざわめきが、しこりのように残っていた。

 陽鞠は凜に隠し事をすることはあっても、嘘をついたことはなかった。

 自分には言えないようなことなのだろうかと凜は勘ぐってしまう。


「辛気臭い顔でため息漏らすんじゃないよ」


 もう一度ため息をついた凜に、女将が苦言を呈す。

 いつもよりも憂いを含んだ凜の美しい横顔に見惚れる妓女たちに、女将は苦々しい目を向ける。


「すみません」


 言いながら、無意識に凜はため息を漏らしていた。

 これは一度吐き出させないと駄目だと、女将は方向性を変える。


「何かあったのかい」

「いえ、その…」


 口ごもった凜は、女将の顔を見る。

 自分一人で答えの出ないことに悩んでいるより、女のことに長じた人物に相談するのもいいかもしれないと思う。


「女が女に肌を見られたくないのは、どんな時でしょうか」

「相手にもよるだろうが、体に痕でもあったんじゃないか」

「痕…怪我とかはありませんでした」


 背中が少し赤かったようだが、どこかを痛めている様子はなかった。

 陽鞠が怪我を負ったとなれば、流石に凜も無理矢理にでも聞き出していた。


「男と寝た痕じゃないのかい」


 その言葉に鋭く抉られて、凜の胸は痛みをおぼえる。

 絶対にありえないと分かっていて、それでも頭の片隅に浮かんでしまい、その可能性を否定してもらいたかったのだと、今更のように凜は気が付く。


「それは、ない、と思いますが…」


 男とそういう関係になることを嫌悪し、否定し続けたのが陽鞠だった。

 しかし、そんな意思とは関係なく落ちるのが恋というものなのだろう。その感情を知らないがために、凜にはないと言い切ることが出来なかった。

 一緒にいるという約束にあれだけこだわっていた陽鞠がありえないとは思うが、日中一人きりにしてしまっているという後ろめたさもあった。

 陽鞠が人一倍、寂しがりやなことを凜は知っていた。その寂しさを埋めようとすることを凜に責めることはできない。


「…女と住んでることは隠していたんじゃなかったのかい」

「いえ、言わなかっただけで、隠していたわけではありません」


 陽鞠を誰かに会わせることは出来るだけ避けたかったが、誰かと住んでいることまで無理に隠そうとは思っていなかった。

 住み込みを拒否している時点で、その疑いを持たれるのは凜とて理解していた。


「どういう関係なんだい」

「まあ、主家筋に当たる方で、今は私が保護者のような立場なのです。ですから、私には責任があるのです」


 言ってから、自分の言葉の言い訳がましさに凜は苦々しくなった。

 本当は陽鞠が隠し事をしていることや、自分以上に大切な人が出来たかもしれないことが面白くないだけだ。


「いいところのお嬢様なら身持ちは固いだろうから、男はないかもね」

「そう、ですよね」


 安堵の声を漏らす凜の顔を、女将が観察していた。

 それはとてもではないが、知り合いの女をただ責任感から心配している顔ではなかった。

 垣間見える一緒に暮らす女の凜に対する執着からも、男である可能性は低いと女将も思っていた。

 敢えて口にしたのは、凜の反応を見るためだった。

 そこから推察できる凜の疑問の答えは、同じ女の凜に裸を見られることが恥ずかしいくらいに意識している、だった。


「あんた、その娘とちゃんと話しているのかい」

「…そのつもりですが」

「つもりって言っている時点で怪しいね」


 にべもない女将の指摘に、凜は言葉に詰まる。

 陽鞠と会話をしていないわけではない。しかし、どこかで遠慮をしてしまっている自覚は凜にもあった。


「ところで、いいところのお嬢様なら楽器を弾けるのかい」


 唐突な女将の話題の転換に、凜は首を傾げる。


「ええ、琴を弾いているところなら見たことがありますが」

「ほう、箏」

「何です?」

「腕前はどれほどのものだい」

「私に雅楽の素養はありませんよ。上手いとは思いますが」


 巫女屋敷にいた時に聞いた陽鞠の琴の音色は、素人の凜でも聞き惚れるほどのものだった。


「お前さん耳はいいからね。それなら腕は良さそうだ」

「それが何か」

「禿のお箏の師匠がね、急な病で伏せってしまったんだよ。他に伝手がないわけじゃないが、すぐにというわけにもいかなくてね」

「女将や太夫は名取でしょう。十分、教えられるのでは」

「そうなんだが、他の仕事もあるからね」


 確かに女将や太夫は忙しいのだから、出来れば避けたいところなのだろう。

 そう理解しながらも、話の流れに嫌なものを凜は感じていた。


「取り敢えず、禿たちに基礎を教えられれば十分なんだが、頼めないかね」


 やはり、そういうことかと凜は眉を顰める。

 凜としては即座に断ってしまいたかった。

 いくら禿に教えるだけとはいえ、どこから陽鞠のことが漏れるか知れたものではない。

 しかし、これは陽鞠への依頼だ。凜の一存で断ってしまうのは抵抗があった。

 働きたいと言っていた、陽鞠の顔も脳裏を掠める。


「あんまり猫可愛がりしすぎると、嫌われちまうよ」


 葛藤を見透かすような女将の言葉に、凜は唇をかむ。

 陽鞠のことを心配しているのは嘘ではないが、心の奥底に潜む、陽鞠が一人で生きる術を身につけることを嫌だと思う自分が首をもたげる。

 陽鞠を守るという建前で、本当は手の中に留めておきたいだけの自分。


「分かりました。話してみましょう。引き受けてくれるかは分かりませんが」


 そう答えながらも、陽鞠が断ることはないだろうと凜は思った。


「ただ、通いはさせられません。住み込みでもかまいませんか」

「むしろありがたいね。あんたも一緒でいいんだろ」

「はい。それでは明日にでも連れてきます」


 自分が冷静な判断を下せていないと思った凜は、決断を陽鞠に委ねることにした。


◇◇◇


「というわけなのですが、どうでしょうか」


 長屋に戻った凜が事情を話すと、陽鞠は表情を輝かせ、それから上目遣いに凜の顔色を窺った。

 そんなふうに気を遣わせてしまったことを、凜は申し訳なく思う。


「凜は嫌ではないの」

「嫌、というか危険が皆無とは言えません。ですが、それは陽鞠をここで一人にしているのも同じことです」

「そう…」


 俯いてしまった陽鞠は、膝の上で指をいじり、考え込む。

 それから、意を決したように顔を上げた。


「凜はずっと私を外に出したがらなかったでしょ。どうして急に」


 踏み込まれた、と思い、強いな、と凜は思った。

 陽鞠にはいつも覚悟がある。


「…私のことどうでもよくなった?」

「ち、違いますっ。そうではありませんっ」


 思わず大きな声を出してしまったことに、凜の方が焦る。


「うん、分かっている。意地悪なことを言ってごめんなさい」


 膝を突き合わせて座る陽鞠の手が伸びて、凜の手を包み込むように握った。


「私は凜に嫌われることはしたくないよ」

「…嫌いになんてなりません。むしろ、私が怖いのです」

「凜が? どうして」

「陽鞠はたつきの道が得られたら、私のことがいらなくなりませんか」


 ぽかんとした表情を浮かべた陽鞠の眉が徐々に顰められて、首を傾げる。


「そもそも凜をいるとかいらないとか考えたことがないのだけれど。何度でも言うけれど、そばにいたいし、そばにいてほしいだけ」

「今はそれも出来ているとは言い難いです。陽鞠は寂しくありませんか」

「寂しいよ。でも、それが凜のせいだなんて思わない」

「貴女を寂しくさせない、もっと相応しい人がいるのではないかと思うと怖いんです」

「誰かじゃない。凜と一緒にいられないことが寂しいの。代わりなんていないし、いらない」


 膝立ちになった陽鞠が、凜の頭を抱きしめる。

 そっと陽鞠の細い腰を抱き返しながら、それならどうして、と凜は思う。

 誰かと会っていたことを隠すのだろうか。


「分かりました。陽鞠を信じます」


 戻らなければいけない、と凜は考える。

 何の見返りも求めていなかった頃に。

 陽鞠の幸せだけを考える、守り手の自分に。

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