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五十一

「それでは、少し買い出しに行ってきます」

「…」


 俯いて袖を掴む陽鞠の指をやんわりと外しながら、凜は長屋を出て行く。


 凜が長屋を出てしまうと、陽鞠は一人で長屋に取り残される。

 一人きりになると狭い長屋が広く感じられて、心に穴が空いたような寂しさを感じるが、あまり我儘を言って凜に迷惑をかけたくないし、嫌われたくもなかった。


 内職もしていない陽鞠は家事以外にすることもないが、何もしないと気持ちがふさぐ。

 洗濯でもしようと、出掛けに着替えさせた凜の着物を手に取る。


 まだ少し、凜の温もりが残っている気がして、陽鞠は着物に頬を寄せる。

 微かに着物から漂う凜の残り香が感じられた。

 少しでも匂いを強く感じたくて、目を閉じる。


「凜…」


 陶然とその名を口に出す。

 それだけで陽鞠の胸の中は甘やかな痛みに満たされる。


「なに、その雌の顔」


 唐突にかけられた若い女の声に、陽鞠は現実に引き戻された。

 顔を上げると、戸口に立つ娘が陽鞠に冷たい目を向けていた。

 薄い茶色の髪と緑の瞳を持つ娘を陽鞠は知っていた。


「由羅様…」


 緊張した声で、陽鞠はその名を漏らす。

 好意を持たれているとは思えないし、好意を持ってもいない相手だった。


 最後に会った時よりも女らしく成長していた。

 女というより美しさだけが研ぎ澄まされていく凜とは異なり、肉感的な女の体になっている。


 劣等感と嫉妬がないまぜとなった嫌悪感で、陽鞠はあからさまに眉を顰めた。

 失礼な態度だとは思うが、お互い様でもあった。

 由羅もその目から溢れる嫌悪と侮蔑を隠そうともしていない。


「何か御用ですか。凜ならいませんよ」

「知っている。出て行くの見てたから」


 監視していたということだろうかと、陽鞠は警戒を強める。

 由羅が夕月大公と繋がりがあることは、凜から聞いていた。

 凜に気付かれずに監視していたというなら、相当に周到な監視体制が敷かれていることになる。


「…監視していたのですか」

「まさか。たまたま見かけただけよ」


 その言葉を安易に信じることは、陽鞠には出来なかった。

 しかし、おそらくは真実なのだろうとも思う。由羅が凜に対して不利益になることに加担するとは思えなかったからだ。


「凜のこと、呼び捨てなんだ」


 後ろ手に戸口を閉めながら、由羅が抑揚のない声で言う。


「それが何ですか」

「本当に図々しい女」


 ゆっくりと近づいてきた由羅が、陽鞠の胸ぐらを掴む。

 いくら細く見えようとも、剣で鍛えられた由羅の力は強い。陽鞠の力で外せるようなものではなかった。

 襟で首が絞められて苦しいが、陽鞠は臆さずにに正面から睨み返した。


「というか、何で病の一つも罹っていないの。虫みたいにしぶとい女ね」


 陽鞠の置かれていた環境を考えれば、今の健康状態はむしろ良すぎるくらいだろう。

 あの座敷牢の環境では、頑強な男でも重い病を患っていてもおかしくない。

 それでも、髪が真っ白になるほどの心の傷と、立つことも困難なほどに痩せ細った境遇を揶揄されて何も思わないほど、陽鞠は大人しい娘ではなかった。


「頑丈なのが取り柄なんです。それに凜につきっきりで介抱してもらいましたから」


 煽るように陽鞠が凜の名前を出した瞬間、締め上げる力が強くなる。


「なんてあつかましい。いい加減、凜を解放してあげようとは思わないの」

「…」


 咄嗟に陽鞠が反論しなかったのは、絞める力が強くなって苦しいからばかりではなかった。

 それはずっと陽鞠の中に澱のように積もっていた。自分から解放してあげた方が凜は幸せなのではないかと。

 思ってもそんなこと出来るはずがないと、見ないことにしてきた。


「ねぇ。あなた、わたしと来なさいよ」

「何を、言って、いるんですか」

「あなたを必要としている人がいるの。今のままより、よほどいい暮らしが出来るよ」


 そんなものに陽鞠は欠片も興味がなかった。

 凜と二人でいられることより幸せな時なんて、陽鞠の人生に一度としてなかった。

 

「凜の迷惑になるのいやでしょ。それに…」


 少し間をおいて、由羅はその言葉を言った。


「凜を男の代わりにして、申し訳なくないの?」


 陽鞠の全身から血の気が引く。


「女が女に惚れるわけないんだから、あなたは凜を男の代わりにしようとしているんだよ」


 違う、と言い返すことが陽鞠には出来なかった。

 それを理由として陽鞠は頑なに自分の想いを認めてこなかったのだから。

 ただ純粋に想っているだけなら否定できた。しかし、陽鞠の凜に対する想いには、触れたい、触れて欲しいという肉体的欲求が多分に含まれている。それは女が女に抱くはずのない欲求だと陽鞠も思っていた。


 そんな欲求を持っていると知られたら、流石に凜も気持ち悪いと思うのではないだろうか。


「…たに、」

「なに?」

「貴女に言われたくありません。貴女だって同じ癖にっ」


 言葉もなく、由羅は陽鞠の胸ぐらを掴む腕を振った。

 軽い陽鞠の体が振り回されて、上がり框に背中をぶつける。

 息が詰まり、痛みを堪える陽鞠を他所に、由羅は水がめから桶で掬った水を打ち水のように陽鞠にかけた。


「図星を指されたからって逆上しないでくれない」


 滴る水に呆然とする陽鞠に、水よりも冷たい声を浴びせて、由羅は桶を放り捨てる。


「少しは頭、冷えた?」


 能面のような由羅の顔を、乱れた着物の襟を押えて陽鞠が見上げる。


「まあ、いいや。今日のところは帰るけど、考えておいて。次に会った時に答えを聞くから」


 あっさりと身を翻して、由羅は戸口から出ていく。

 それを見送るように目で追いながらも、陽鞠の目は何も見てはいなかった。

 思考は硬直して、座り込んだまま身じろぎも出来ずにいた。


 髪を伝う水滴が土間についた手の甲に当たり、ようやく陽鞠が我に返ったのは、由羅が去ってから半刻は経ってからだった。


「…着替えないと」


 水をよく吸う木綿の着物は、まだ乾いていなかった。

 こんな乱れた格好では凜に心配をかけてしまうと気が付いて、陽鞠はのろのろと立ち上がる。


 座敷に上がり、帯を解いて着物を脱ぐ。

 裸になって手拭いを手に取った陽鞠が体を拭こうとしたところで、再び戸口が開いた。


「ただいま戻りました。陽鞠…?」


 戸口に立つ凜を見て、鈍くなっていた陽鞠の思考は完全に停止した。


「どうかしたのですか」


 首を傾げながらも、裸に動じることなく凜は陽鞠に近づく。

 自失から立ち直った陽鞠の顔が一瞬で真っ赤に染まり、その場で蹲った。


「見ないでっ」


 叫ぶともいえない、か細い陽鞠の悲鳴に、凜の方が固まってしまう。

 陽鞠の反応があまりにも凜の想定の外だった。

 お風呂に一緒に入ったこともあれば、陽鞠が正体をなくしている時はそれこそ体の手入れは全て凜がしていたのだ。

 もともと陽鞠は裸を見られることを恥ずかしがってはいたが、こんな過剰な反応をされるとは思わなかった。


 驚いたのは、陽鞠自身にとっても同じだった。

 凜に裸を見られた瞬間、羞恥心が燃え上がった。凜に見られて恥ずかしい気持ちはもちろんあったが、自分の体そのものが恥ずかしかった。

 同じ人に好意を寄せる由羅の女らしい体と、肉付きの薄い貧相な自分の体を無意識に比較してしまった。


 凜は女の体になんて何の興味もないことは分かっている。

 それでも陽鞠は、どうしようもないくらいに恥ずかしくて、悔しかった。


「凜…おねがい…」


 消え入りそうな陽鞠の声に、我に返った凜は慌てて背中を向ける。


「その…陽鞠、すみません」


 訳も分からず謝る凜に、微かな衣擦れの音だけが答える。

 黙り込んだ凜の耳をくすぐる、その衣擦れの音が心をざわつかせた。


「もう、いいよ」


 落ち着きを取り戻した陽鞠の声に凜は振り返る。

 着物の襟を整える陽鞠の耳がまだ赤くて、その愛らしさに凜は目を奪われた。

 それが余計に心のざわつきを強くする。


「何かあったのですか」

「別に何も。水をこぼしてしまっただけ」

「そうですか…」


 凜の視線が土間に落ちる。

 裏長屋の固められていない土間の土に、やや乱れた足跡が残っていた。


「誰か来ていましたか」

「…誰も」


 短く答える陽鞠の視線は、わずかに凜から逸らされていた。

 由羅のことを凜には言いたくなかった。話したことを詮索されたくなかったこともあるし、凜と由羅の接点を作りたくもなかった。

 女としての劣等感が、凜と深いつながりがある由羅を会わせたくないという思考に結びついてしまった。


「そう、ですか」


 例え嘘だと分かっていても、凜にそれを指摘することはできなかった。

 凜の胸の内のざわめきは、消えてくれなかった。

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