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五十

 食事の片づけを終えた陽鞠は、座敷の布団を用意する。

 手伝わせないことにまだ落ち着かない凜の様子に、陽鞠は微笑ましい気分になる。


 昼夜の逆転した妓楼で働く凜は朝方に戻り、昼頃まで眠る。

 暗闇はまだ恐ろしく、夜一人で眠ることは不安だったし、寂しかったが、凜が眠るのを見守るこの時間が、陽鞠は嫌いではなかった。


「凜、準備ができたよ」


 陽鞠が敷き終えた布団を見て、凜は少し困った顔をする。


「やはり布団はもう一組買いませんか」

「贅沢。必要ないでしょう」


 長屋の中に布団は一組しかなかった。

 これも陽鞠が強硬に主張したことの一つだ。

 贅沢というのは三つある理由の中で一番優先順位が低い理由だった。建前と言い換えてもいい。一番の理由はもちろん陽鞠が凜と一緒に寝たいという欲求であり、二番目は先ほどの会話がそのまま理由だった。


 凜が未だに自分を巫女として接することを、陽鞠はやめさせたかった。

 巫女としての力を失ったわけではないが、巫女としての立場を取り戻すことはないだろう。もともと好きで巫女をしていたわけではないから、そのこと自体に未練はなかった。

 陽鞠の今の立場を凜が理解していないと思っているわけではない。

 それでも、凜は陽鞠に対して仕えるという姿勢を崩していない。

 いや、むしろ以前よりも遠慮のようなものを陽鞠は感じていた。

 以前の凜は表面的には陽鞠を巫女として扱いながら、もっと自然に接してくれていた。


 それは、陽鞠が立場を失うことになったことそのものを、自分の責任だと思ってしまっているからだ。

 生真面目な凜らしいといえばそれまでだが、陽鞠としては逆に不満だった。


「私にちゃんとした身分があれば、陽鞠にこんな生活をさせることもなかったのですが…」


 人別帳に存在しない凜は、どこかの町の正式な住民になることはできない。

 裏長屋くらいしか借りられる家もなかった。

 凜は申し訳なさそうに言うが、陽鞠は今の生活に不満があるわけではない。むしろ、もっと凜の役に立ちたかった。


「やはり私も働いた方がいいと思うのだけれど」

「そこまで余裕がないわけではありません。しばらくは身を隠された方がいいと思います」


 基本的に陽鞠の言うことには従う凜だが、絶対に認めないこともあった。

 その一つが、陽鞠が外を出歩くことだ。

 一人で出歩くことは論外だし、連れ歩くこともどうしようもない理由がない限りはしない。

 だから、食材の買い出しなども凜が、日中に一人で行っていた。


「私がこんな見た目だから?」


 陽鞠は真っ白になってしまった髪に触れた。

 白髪金瞳の娘はあまりにも目立ちすぎる。


「それもありますが、陽鞠を狙うものがもういないとは限りません」

「だけれど…」


 その理屈は陽鞠にも理解は出来た。しかし、陽鞠の身が安全になったかどうかなど、この先も分かりようがないのだ。

 

「凜とお外を歩きたい…」


 言ってしまってから、凜を困り顔にさせてしまったことに陽鞠は気が付く。

 凜に養われているだけの身が嫌だからといって、凜を困らせてしまっては本末転倒だった。


「我儘言ってごめんなさい。もう言わないから」

「陽鞠…その、私は…」


 陽鞠がぎこちない笑みを浮かべて言うと、凜は申し訳ないような、少し傷ついた表情になってしまう。

 その凜の傷ついた顔を見て、溜飲が下がってしまった自分に、陽鞠は嫌悪感を覚えた。


「いいから、もう寝て」


 誤魔化すように陽鞠が掌で布団を軽く叩くと、凜は渋々と布団に入る。

 凜が確りと布団に入ったのを確認してから、陽鞠はするりと布団に潜り込む。


 慣れた仕草で差し出される凜の腕を枕にして、首筋に鼻を擦りつけると、緩やかに背中を抱いてくれる。

 花街で着いた匂いを上書きするように、陽鞠は体を密着させた。


 高鳴る心臓の音がうるさすぎて、凜に伝わってしまわないか、陽鞠は少し心配になる。

 以前はこんなふうになってしまっていただろうかと、疑問に思う。


 陽鞠が添い寝を始めたのは、凜が眠る時にうなされていたからだ。

 それを聞くのが辛くて、少しでも慰めになったらと思い始めたことだが、本当は凜に触れたい欲求を叶えているだけだと思うこともある。

 それでも、陽鞠が添い寝をすればうなされなくなるのだから、罪悪感を誤魔化すことができた。

 頼るばかりの凜の役に立てている気になれるのも嬉しかった。


 どこでも眠れる凜は、眠りに入るまでの時間も短い。すぐに穏やかな寝息を立てはじめた。


 その寝顔を、陽鞠はじっと見つめる。

 眠っている時の凜の顔は子供のようにあどけなくて、陽鞠は飽きもせずに見ていられた。


 陽鞠が囚われ、正体を無くしていた間に、凜はまた奇麗になった。

 顔立ちも体つきも大人びて、もう少女とはいえなくなってきている。どこか憂いを帯びた表情に目を奪われてしまうのは、きっと自分だけではないと陽鞠は思う。


 心の奥の凜への想いを、陽鞠は胸の中で形にする。

 それは言葉にすれば、恋いしいという形になる。

 恋を知らない陽鞠には、それが男女のそれと同じものかは分からない。


 気が付いてしまったのは、あの白詰草の花畑で目覚めた時。

 凜と抱きしめ合った時に、陽鞠の想いは形をなしてしまった。

 それは陽鞠の中にずっとあって、けして認めようとはしなかった想いだった。

 もっと純粋な想いだと信じたかった。

 凜が陽鞠を想ってくれるような。


 離れている間にあったことは、大凡、凜から聞いた。

 夕月大公が凜に情報を提供したのは意外だったが、朝廷の事情を聞けば理解は出来た。

 巫女の呪いの下りでは思わず笑ってしまったが、陽鞠はふと気が付いてしまった。凛はきっと気が付いていない。

 神祇府の恐れる巫女の呪いとは、何も超常的なものだけではない。何よりも恐れているのは凜だ。陽鞠が死んだ時、守り手が復讐の刃となることこそ、神祇府が恐れる真の呪いなのだろう。

 そう考えれば、神祇府の恐れもあながち笑うことはできなかった。一年もの間、諦めもせずに巫女を探し続け、討手を悉く返り討ちにする守り手など、陽鞠から見ても恐ろしすぎる。


 正体を失っている間のことを、陽鞠ははっきりとは覚えていない。夢の中の出来事のように、断片的で朧げな記憶が残るのみだった。

 凜の言葉少なな説明と微かに残る記憶を繋ぎ合わせただけでも、凜の苦労が大変なものだったのは想像に難くない。


 一年も探し続けてくれて、助け出してくれて、抜け殻となっても見捨てないでくれた。

 何でそこまでしてくれるのだろうと陽鞠は思う。

 約束は陽鞠が一方的に押し付けたもので、凜に何ら利のある話ではない。

 だから期待してしまう。凜にも自分と同じ気持ちがあるのではないかと。そして、そんな身勝手な願望を持ってしまう自分に呆れる。


 凜の好意は親愛や友愛であって、自分が凜を想う気持ちとは別ものだと陽鞠は分かっていた。

 それは自分が嫁ぐことに凜が何も思わないことで思い知らされている。

 凜が領主の妾になろうとした話を聞かされた時には、吐き気がするほどの嫌悪感を覚えたし、凜に対して怒りすら感じた。陽鞠の凜に対する想いはそういうものだ。凜にはそういった感情は感じられなかった。


 それは仕方のないことだと、陽鞠は思っている。

 だから、凜に想いを伝えるつもりは、陽鞠にはなかった。

 凜は女から想いを寄せられることに辟易としているところがある。言葉にして困らせたくはなかったし、言葉にすれば生真面目な凜は答えを出そうとしてしまう。

 その答えはきっと、陽鞠にとって望ましいものにはならないだろう。


 そばにいられるなら、一生想いが通じなくてもかまわない。

 それがどれだけ辛くても、苦しくても、凜を失うことより恐ろしいものは陽鞠にはなかった。

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