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四十九

 妓女の送り迎えを主とする凜の仕事の終わりは朝方になる。

 人通りの絶えた花街の通りを足早に抜け、花街を出ると、ほど近い裏長屋に向かう。

 花街で働くものが多く住む一角の端に建つひと棟が凜の住まいだった。


 凜が音を立てないように戸口を開けて中に入ると、狭い土間の台所に立つ陽鞠が振り向いた。


「お帰りなさい、凜」

「ただいま戻りました。ひま、り」


 言い淀んで、おかしな発音になった凜に、陽鞠はくすりと笑った。


「まだ慣れないの?」

「済みません。どうにも…やはり陽鞠様と呼ばせてもらえませんか」

「駄目。様付けなんて怪しまれるから、お互いに呼び捨てにするって決めたでしょ」

「しかし」

「本当は敬語もやめて欲しいのだけれど?」

「分かりました。陽鞠」


 不満げになった陽鞠に、藪蛇と思い速やかに凜は抵抗をやめる。

 呼び方については、この町に着いてすぐに陽鞠が言い出したことで、その理屈は凜も納得している。しかし、どうにも凜には、その理屈が建前のように感じられた。


「よろしい」


 頷きながら、陽鞠は軽く手を差し出してくる。

 わずかに逡巡するが、どうせ逆らっても無駄と、凜は腰の刀を鞘ごと抜いて陽鞠に渡す。

 陽鞠は直接は手を触れず、袖でくるむように受け取った。


「…そんな作法、もう誰もやっていませんよ」


 女は穢れで、武士の魂である刀に直接触るのは不浄と言われていた頃の武士の内儀が刀を受け取る作法だ。

 穢れの対極である巫女が女なのに何をか言わんや、である。ましてや、陽鞠は巫女その人だというのに。


「刀は凜にとって私との誓いの証なのでしょう。それなら、私にとってこれほど尊いものはありません」


 陽鞠はうっとりと大事そうに刀を胸元に抱える。

 凜は少しもやっとしたものを感じながら、自分の刀をじっと見た。


「…陽鞠、あの」


 おずおずと凜が一歩前に出ると、艶のある笑みを浮かべた陽鞠が片手を刀から離して誘うように広げる。

 凜はもう一歩距離を詰めて、陽鞠の体をそっと抱き締めた。

 その確かに生きている温かさに、凜はささくれだった心が落ち着くのが分かる。


 置屋で働き始めてから凜は、自分が長時間陽鞠と離れることに強い精神的負荷を感じることに気が付いた。

 陽鞠が囚われていた頃の焦燥や不安が蘇り、心の均衡が崩れてしまう。

 情けない、と凜は思うが、そうなると陽鞠に触れて実存を確認するまでは治らなかった。


 抱きしめられた陽鞠は、自分もそっと凜の背中に手を回し。

 背中の肉を抓った。


「…あの、痛いです」

「女くさい」


 不機嫌な声でぼそりと陽鞠は漏らす。


「置屋で働いているのですから仕方ないでしょう」

「他の女の匂いをさせて私に触るのね」

「う…朝風呂を借りてきたほうが良かったでしょうか」


 置屋には仕事あがりの遊女のための風呂が用意されている。

 当然、一人で入るものではなく、集団の浴場だった。


「絶対にやめて」


 冷たい言葉とともに、凜の背中を抓る力が強くなる。


「どうしろと…あ、離せってことですね」


 凜は慌てて抱擁を解くが、陽鞠は離れようとはしない。


「そんなこと言ってない。寂しかったから、やきもちやいただけ」


 抓るのをやめた陽鞠の指が、凜の背中を優しく撫でた。

 その羽毛でくすぐるような撫で方に、凜の背筋がぞわりとする。


 正気に戻ってからの陽鞠は、以前と少し変わったように凜には思えた。

 巫女という役割から解放されたからか、どこか張り詰めた雰囲気が緩んで表情が良く変わるようになった。

 もともと凜に対しては普通の少女のように振舞う陽鞠だったが、好意に甘やかなものが混ざるのを隠さなくなった。


 それをどう受け止めたらいいのか分からなくて、凜は戸惑っていた。

 前からそれに気付いていなかったわけではないが、陽鞠はそれを隠そうとしていたから、凜は意識しないようにしてきた。

 陽鞠は答えを求めているわけではないようだが、凜はそれに甘えてはぐらかしたままでいいのか悩んでいる。


 懊悩する凜を他所に、一歩離れた陽鞠が見上げてきた。

 陽鞠は首を傾げてもう一歩下がり、愕然とした顔をする。


「…凜、大きくなりすぎ」


 今更のように、頭一つ分近く身長差が開いてしまったことに陽鞠は気が付いた。

 たんに驚きのあまりの言葉だったが、それは思ったよりも凜の心を抉った。


「申し訳ありません…陽鞠が囚われている間に暢気にものを食べていて」


 身長差が開いたのは、凜が成長したこともあるが、陽鞠がこの一年まったく成長していないためだった。

 唇を噛んで俯く凜に、陽鞠の方が慌てる。


「ち、ちがうよ。私もいっぱい食べて追いつくから。ほら、ご飯作ったから食べましょう」


 陽鞠に手を引かれた凜は四畳半間に上がって、ちゃぶ台の前に座る。

 刀を奥に置いてから土間に戻った陽鞠が、食事を配膳するのを待つ。陽鞠はいっぱいと言ったが、ご飯は一汁一菜で巫女屋敷の馳走に比べるべくもない貧しいものだ。

 それでも陽鞠は不満どころか、とても嬉しそうだった。料理も凜に教わって始め、日々上達している。


 配膳を終えた陽鞠が、凜の前に座った。


『いただきます』


 自然と二人の声が揃う。

 二人とも食事中は行儀よく、会話をしたりはしない。

 それでも、楽しそうに食べる陽鞠を見ると、凜も嬉しくなった。


 静かな食事が終わり、陽鞠は凜の分もまとめて器を持つと、台所へと運んでいく。

 洗い物をする陽鞠の背中を、凜はぼんやりと眺める。


「…陽鞠、やはり手伝いましょうか」

「凜は外で働いているのだから、家のことは私にやらせて」

「ですが」


 遠慮の感じられる凜に、陽鞠はため息をついて振り返る。

 そのまま戻ってきて、凜の近くに座った。


「あのね。私はもう巫女ではないし、凜も守り手じゃない」

「陽鞠、それは違います」


 反駁しようとする凜に、陽鞠は静かに首を横に振った。


「約束の話をしているのではないの。立場の話。貴女に何も報いられない私は、もう主人ではないということ」

「私は、貴女の守り手です」

「守り手でなければ、約束はなしになるの?」

「違いますっ」


 強く否定する凜の手を、陽鞠はそっと握る。


「私は凜に償いなんてしてほしいと思っていない」

「…っ」

「やはり。私を守れなかったとか考えているのでしょう」

「事実です。私が不甲斐ないばかりに…」

「私はそうは思わないし、どうでもいい。私はちゃんと凜と一緒に暮らしたいだけ」

「陽鞠、私は…」


 俯いてしまった凜の手を握る陽鞠の力が強くなる。


「凜、私を見て」


 陽鞠の言葉に凜が顔を上げると、真っすぐに自分を見る陽鞠と目が合った。

 真っ白になってしまった髪。まだ肉付きが戻らない細く、薄い体。痛々しさに罪悪感を刺激されて目を逸らしたくなる。

 しかし、琥珀の瞳の力強さが、凜に目を逸らすことを許さない。


「私はここにいるよ。凜になにもしてあげられない私だけど、どこにも行かないから」

「…本当ですか」


 握られた手を、凜の方からも強く握り返す。


「凜がくれたものを返せないことが苦しくても私はそばにいたいし、そばにいてほしいのはもうずっと変わっていない」

「陽鞠は…」


 言いかけて、凜は逡巡する。

 巫女ではなくなった陽鞠は、必ずしも守り手を必要としない。しかし、市井で生きる術を持たない陽鞠が頼れる相手は凜しかいない。

 もし陽鞠が生きる術を身に着けた時、凜以外を選ぶ選択肢が生まれる。

 もちろん、陽鞠がそんなことを考えているなどと思っているわけではない。

 しかし、それを凜は言葉で確認しようとしてしまった。


 そして、その根底にあるものに気が付いて、凜は言葉を止めた。

 これだけ尽くしてきたのだから、陽鞠は自分のものだなんて、そんな醜い独占欲に。


「いえ、ありがとうございます」


 そう言って凜が浮かべた微笑みは、今まで陽鞠に見せたことのない作ったものだった。

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