四十八
斑鳩帝二年八月。
新浜の町は、西白州と東青州を繋ぐ玄関口だ。
交通や商業の要衝であり、そういった場所には遊興の場所が必ず出来る。
新浜の花街は西白州と東青州を併せた性質を持つ。
妓女を抱える置屋から揚屋に派遣する送り込み制は西白州のものだが、芸妓と娼妓の区別が曖昧なのは東青州の性質だ。
玉美屋は新浜の性質をそのまま現したような置屋だ。
妓女を抱える置屋としては中堅どころで、芸妓と娼妓の割合は半々。最上級の妓女である太夫も擁するが、大店ほどではない。
送り込み制の新浜で、置屋に客が直接訪れることはない。
だから、暖簾をくぐってその男が玉美屋に入ってきたとき、その場の空気に緊張が走った。
男が着崩した軍服の腰にサーベルを吊るしていたことが、余計に緊張を煽る。
玉美屋の女将は四十になるかという女だった。若い頃は皇都で太夫も務めた妓女であった女将は、艶やかさを残した顔を番台から上げる。
手振りでその場の遊女たちを下がらせて男の前に立つ。
土間を血走った目で見回していた男の目が、女将に留まった。
「女将っ、行幸太夫はどこだっ」
掴みかからんばかりの勢いで男が怒鳴る。
かかってもいない唾を袖で遮る仕草をした女将は、男の剣幕にも怯えたところを見せない。
「お座敷だよ。ここにはいないさ」
「どういうことだ、先に逢状をかけたのは俺だろうっ」
「お前さん、不払いを出しているだろう。皇都ほど厳しくはないといっても、どの店も出入り禁止だよ」
「俺は東青州軍将だぞっ」
「元、だろう。なんだい、軍将っていっても大公の跡目争いに負けた鴇羽ってのがばら撒いただけって話じゃないか」
男の顔が青くなり、次の瞬間には真っ赤に変わった。
腰のサーベルの柄に手がかかる。
刃傷沙汰の気配に、隠れて見ている遊女たちからざわめきが上がった。
そのざわめきに男がわずかに怯む。
怯む男の後ろで、暖簾が揺らめいて音もなく入ってきた者がいた。
羽織袴に刀を腰に差し、艶やかな黒髪を頭の上で結って垂らした若武者のような娘。
男は半歩前に横に並ぶように立たれるまで、娘に気が付かなかった。
「女将。太夫の道中は終わりました」
娘は男に構うことなく、女将に声をかける。
「ああ。ご苦労様。凜」
女将に頷いてから娘、凜はようやく隣の男に目線を向ける。
「客人でしたか」
「そう見えるかい。ただの不逞浪人さ」
女将の言葉にようやく怒りを思い出したのか、男は勢いで剣を抜こうとする。
「忘八の分際でっ」
しかし、男が剣を抜くことはできなかった。
いつの間にか、凜の掌に柄頭を押さえられていることに、男はまるで気付かなかった。
「花街で刃傷は風情がありませんよ」
穏やかな声で、凜は男を諌めた。
幼子をあやす様な態度が、余計に男の怒りに火をつけ、男は無理矢理に剣を抜こうとする。
しかし、男より腕力があるとは思えない細腕は、ぴくりとも動かなかった。
もちろん腕力ではない。体軸を押さえられて力が入れられないだけだ。
「およしなさい。今なら女将も見逃してくれるでしょう」
「うちは見逃しても、揚屋の取り立ては見逃さないだろうけどね」
呵呵と笑う女将に、凜はため息をついた。
「女将、混ぜっ返さないでください」
柄頭を押さえる凜の手にかかる力が消え、男が一歩下がった。
男の顔は能面の様に白く、表情が抜け落ちていた。
「女どもが、ここまで虚仮にするのか」
男は腰のサーベルを抜いた。
サーベルとはいっても拵えだけそのように見せているだけで、本身は刀だ。
真剣の鈍い輝きに、ざわめきが消え、置屋の中が静まり返る。
それを己が威に打たれたものと男は受け取るが、実際は違った。
妓女たちは息すらも潜めて、見逃すまいと見入っていた。熱すら込められたその目は、全て凜に向けられていた。
「剣を抜いた以上、遊びでは済みません」
ゆっくりと凜は男と正対する。
腰の刀には手もかけていない。しかし、ただ立っている凜の姿と正対した男は、全身の毛が逆立つのを感じていた。
まだ十代の、少女ともいえる凜が血霧をまとう化生に見えた。
「凜。花街で血の雨を降らせるんじゃないよ」
「承知」
短く応じた凜は、男にはもはや普通の娘にしか見えなくなっていた。
男は娘に気圧されたなどと認め難く、見間違いだったと思い込む。
「女。這いつくばって謝罪しろ」
「剣は脅しの道具ではありません。切るか切られるかの覚悟で抜きなさい」
「女ぁっ」
叫び、男は凜を袈裟に切り下げた。
少なくとも、男はそのつもりだった。
確かに、その一太刀は女一人切り捨てるのに十分な腕前があった。
しかし、切り下ろした、と思った瞬間には男の見る景色がぐるりと縦に回って、激しい衝撃とともに意識が刈り取られた。
起きた出来事は極めて単純だった。
切り下ろしを躱しながら懐に入った凜が、振り下ろす勢いを利用して投げ飛ばしただけ。
しかし、その動きにあまりにも無駄がなかった。投げられたとすら認識出来なかった男は受け身も出来ず、後頭部と背中を土間に強打して失神していた。
離れて見ている妓女たちからすら、旋が巻いて男が宙に舞ったようにすら見えなかった。
完全に伸びた男を、凜は少し焦り気味につま先で突いた。息があることに安堵して、息を漏らす。
まさか何の受け身も取れないとは思わなかったのだ。頭から投げ落とさずに、途中で離して投げ飛ばしたのだから、受け身くらいは取ってほしかった。
男の手からサーベルを奪い取った凜を、物陰から出てきた妓女たちが取り囲んで黄色い声で囃し立てる。
際どいところに触れてこようとする手を適当にあしらいながら、凜は困惑の目を女将に向けた。
「ほら、お前たち。いつまでも騒いでいるんじゃないよ」
女将が一喝すると、妓女たちは蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「助かりました、女将」
「お前さんが男じゃなくて本当に良かったよ」
呆れたような女将の物言いに、凜は首を傾げる。
その何も分かっていない態度に、女将はため息をついた。
妹の紹介で用心棒として雇った凜だが、男であったら絶対に雇わなかっただろう。
女ですらかなり危うい。妓女の中には本気になっていそうな娘が何人か見受けられた。
自らも妓女であった女将の嗅覚は、凜に危険なものを嗅ぎ取っていた。天然の色男と似た臭いだ。凜自身が女であるにも関わらず、これに惚れた女は苦労する、と自然と思わせてくるのだ。
「この男は官憲に突き出すのですか」
「いや、踏み倒した揚屋に引き渡すさ。後はそっちで片付けてくれるよ」
「では、縛っておきましょう」
「それはうちの子にやらせるさ」
「下手な縛り方をされると危ないのですが」
「得意な子にやらせるのさ。そういうのが好きな客もいるからね」
凜の目が微かに泳いで、顔に朱が差す。
女将に散らされ、遠巻きに見ていた妓女たちがきゃあきゃあと声を上げる。
狙ってやっているのかと凜を胡乱な目で見るが、そうではないことは女将も分かっていた。
「ほら、次の子の準備ができたから、あんたはもう行きな」
鹿恋と禿を連れた天神が、暖簾の前で凜に視線を向けていた。
凜は息を一つつくと、妓女について外に出ていく。
その背中を見送り、禿に指示を出しながら、おかしな娘だと女将は思う。
役には立つのだ。
腕が立つ上に女であるから、妓女たちにどこにでも付いていける。東青州の情勢が不穏な今、看板となる妓女の身辺警護を任せられるのは、とても助かっていた。
見栄えがよく、しかも妓女たちのもつ魅力を霞ませるものではなく、むしろ隣に立つ女をより引き立てる種類の美形。道中に同道させれば他の置屋や客の男たちの嫉妬を煽るのにも一役かっていた。
しかし、育った背景がまるで見えない娘だった。
貴族、衛士、商家、農家。どんな家に生まれたらこんな娘が出来上がるのか皆目見当がつかない。
ひと月ほど前にふらりと現れ、妹の紹介だと、仕事は何かないかと言ってきた。
最初は怪しんだ。
確かに妹からそのような話は聞いていたが、大分様子が違っていた。悪漢とはいえ、人を切り殺すような娘には見えなかった。
とはいえ、人相風体は聞いていた通りだったので雇ってはみたが、未だに分からない娘だった。
分かっているのは、恐ろしく強いこと、教養があり礼儀作法が身についていること、そして女の影があること。
女に対して女の影というのもおかしな話だが、そうとしか言いようがない。
住み込みで構わないという女将に対して、頑なに通いを続けているのは一緒に住む人がいるからだろう。
それだけなら男とも考えられるが、一緒に住む相手の凜に対する細やかさが女を感じさせた。
凜は妓女たちの身なりには気遣いを見せるが、自分には無頓着だ。帰る時には大抵どこかよれている。それが、店に来る時には髪は毛先まで整い、糊のきいた着物で現れるのだから。
白粉や香の花街の匂いは消されて、凜とは違う女の匂いがしていれば、同居する女の凜に対する執着が分かるというものだった。
面倒ごとにならなければいいと、女将は息をついて仕事に戻った。




