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四十七

 桜舞う参道の散策。


 初めて繋いだ手の感触。 


 星降る丘の約束。


 地を走る刃金の流れ星。


 朽ち果てた花かんむり。


 微かに触れた唇。


 包み込むような温かい背中。


 なにひとつ忘れてなんていない。



◇◇◇



 領主のもとを去った凜は、村を出て歩き続けた。


 陽鞠の歩く早さがもどかしくて、途中で背負う。

 気が変わった領主が追いかけてくるような、そんな強迫観念に追い立てられていた。

 日が傾くまで歩き続け、宿場町を避け、街道を逸れて森に入る。

 人の気配が消えたことに、凜は少しだけ安堵した。


 宿場町の灯りから隠れるように、凜は森に分け入る。

 重里に打たれた脇腹が、ずっと鈍い痛みを訴えていた。もしかすると、肋骨に罅が入っているかもしれないと凜は思う。

 木立を抜けると、開けた場所に出た。


 いつの間にか高く昇った月明かりに、白詰草の花畑が照らしだされる。

 白詰草は舶来の植物だ。種子が飛んだか、根が自生したのか。


 懐かしさに惹かれるように、凜は花畑に踏み入る。

 ゆっくりと陽鞠を下ろす。

 正体なく座り込む陽鞠に、復調の兆しは見えなかった。

 陽鞠は白詰草を摘んで編み始めたが、そこに意思は感じられない。


 今更のように、立ち合いの直前に袖を掴まれたのは何だったのかと凜は思う。

 まるで凜を留めようとしているかのように思えて、あんな立ち合いをしてしまったが、今となっては分からなくなっていた。

 ただの体の反射だったのではないかとすら考えてしまう。

 それを、凜が自分の都合のいいように勝手に解釈したのではないかと。


 陽鞠が少しでも療養できる環境が欲しかった。

 それなのに、結果としてはただ村を出るしかなくなった自分の判断の愚かさが凜には耐えがたかった。


 そもそもが、自分が陽鞠を守り切れなかったことに端を発していると凜は思っていた。

 ここまで巫女を危険に晒した守り手など、史上いないのではないかと。

 本物の守り手なら、こんなことにはならなかった。


 たった五人の刺客にあんな手傷を負うことはなかった。

 あんな衛士の包囲くらいは切り抜けられた。

 例え奪われてももっと早く助け出せていた。

 こんな苦しい暮らしをさせることもなかった。


 自分は本物の巫女の守り手ではない。少なくとも凜の認識の中ではそうだった。

 例え偽物でも、陽鞠が選んだのは凜だ。凜は巫女の守り手になったわけではない。陽鞠の守り手になると誓ったのだ。

 しかし、その誓いが陽鞠を苦しめているのかもしれない。


 凜は腰から鞘ごと抜いた刀を両手で握りしめる。


「こんなもの…」


 剣の一振りで守れるものなど、何もなかった。

 なまじこんなものに頼るから、事態を悪くしているのではないかと凜は唇を噛む。


 刀を投げ捨てようとして、しかし出来なかった。

 これは、一度投げ捨て、陽鞠から渡されたあの小太刀ではない。

 しかし、刀をもって陽鞠を守ると凜は誓ったのだ。刀は誓いの証だった。

 刀を捨てることは、誓いを捨てることに等しかった。


 どんなに守り手として偽物だったとしても、誓いだけは本物だったはずだ。

 それを捨てることだけは、凜にはできなかった。

 投げ捨てられなかった刀を抱えて、凜は蹲る。


「うぅ…うううううっぅぅぅぅぅっ、うぅ、うううぅぅぅっ、うーーーーーーぅぅぅっ」


 花畑に額を擦りつけて、凜は喉の奥から搾りだすような呻き声を上げる。

 あまりにも惨めな自分を殺してしまいたかった。


 だからといって、陽鞠を一人で残すことなどできるはずもない。

 それならいっそと、凜は考える。


 いつかの夜、夢現で聞いたかもしれない陽鞠の言葉を思い出す。

 その時が来たのだろうか。このまま陽鞠を苦しめ続けるなら、いっそ解放してあげた方が望みに叶うのだろうか。そんな考えが凜の頭に浮かぶ。


 陽鞠を自分の手に掛ける。

 想像するだけで、凜は吐き気がして、手が震えてきた。

 出来るはずがない。出来るはずがないが、それは凜の感情でしかなかった。

 例え自分の心を殺してでも、それが陽鞠の望みなのだとしたら、叶える必要がある。


 それでも、その決断を下すことは凜には難しかった。

 覚悟など定まるはずもなく、剣の柄を掴んで呻き声を上げ続ける。


「うううぅ…」


 あの嵐の夜から何ら成長していない、自分の覚悟のなさに凜は絶望する。

 堪えようもなく零れ落ちた涙が、自分を憐れんでいるようで、どうしようもない自己嫌悪に苛まれる。


 どれだけの時間そうして蹲っていたのか、凜の頭にそっと触れるものがあった。


 凜は俯いたまま、自分の頭に手を回し、触れたものを掴む。

 掴んだものを目の前に下ろすと、それは白詰草の花かんむりだった。


 息もできずに花かんむりを凝視する凜。

 凜の頬を小さな掌が包み込む。


「泣か、ないで」


 頬に触れるその指を、懐かしいその声を、凜は幻覚かと疑った。

 ついに自分も正気を失ったのかと。

 しかし、指の温かさも、掠れた声も、とても幻とは思えなかった。それでも、それが幻だと思うと恐ろしくて、凜は顔を上げられない。


「忘れたり、しないから」


 頬を包んだ掌が、ゆっくりと凜の顔を上げさせる。

 膝をつき、向き合う華奢な陽鞠の体が見え。

 微笑む口元が見え。


 そして、凜を見つめる、月明かりを照らし出す琥珀の瞳が見えた。


「凜」


 どれだけその声で名を呼ばれることを夢見ただろう。

 凜は声を出すことも出来なくて、小さな陽鞠の体を掻き抱くことしかできなかった。

 そんな凜の体を陽鞠も優しく抱き返す。


 声もなく抱き合う二人を、ただ月だけが見ていた。


六章<了>

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