二十三
「本当に行かれるのですか」
城郭の門で旅装を整えた凜に、寂しさを隠そうともせずに陽鞠が言う。
「ええ。年の暮れまでには皇都に戻ります」
行かせまいとするように袖を握る陽鞠の手を、凜は優しく握る。
「必ず戻りますから、待っていてもらえますか」
「いやです。と言いたいですが、健気に待っていますので、必ず戻ってきてください」
袖を離し、自分の手を握る凜の手に、陽鞠は掌を重ねる。
「由羅。私のいない間、陽鞠様をお願いします」
少し離れて能面のような顔で立つ由羅に、凜が声をかける。
「陽鞠様って何」
「何とはなんですか」
「いつから、名前で呼ぶようになったの」
「昨日からですが」
「名前では呼ばないって言ってなかった」
「そうでしたか? まあ大したことではないでしょう」
妙に開き直った態度の凜に、由羅は眉を顰める。
由羅の知る昨日までの凜と、何かが違った。
昨夜、陽鞠を一人で凜のところに行かせるべきではなかったのではないかという後悔が僅かに首をもたげる。
寄り添うように立つ陽鞠に目を向ける。
由羅から見えた横顔が、勝ち誇った冷笑を浮かべているように見えた。それは一瞬のことで、陽鞠はただ寂しげに凜を見つめていた。
「いいけどさ。何、今さら武者修行なんてするの」
「それもありますが、守り手になった時のために見聞を広めておこうかと」
「わたしに勝てるつもりなの?」
「いえ、勝てるかどうかなんて考えるのは、もうやめました」
由羅の中の違和感が更に強くなる。
由羅の知る凜はこんな大雑把で、根拠のない考えをする人ではなかった。
それが吐き気がするほど気持ち悪かった。
凜を汚されたような気分だった。
「半年くらいで、わたしに追いつけるなんて思わないことね」
「どうしたんですか。なんだか余裕がありませんね」
煽るでもなく不思議そうに首を傾げる凜は、由羅のよく知る凜で、思わず由羅は口を噤んでしまう。
純粋で、生真面目で、頭が固くて、少し鈍感。
それが由羅の知る、由羅の凜だった。
「はぁ、もういいや。凜がいない間に陽鞠様と仲良くしてよー」
「…節度は守るのですよ」
微妙に嫌そうな口調の凜に、陽鞠との関係を攻めた方が揺さぶれるという事実を突きつけられて由羅は余計に嫌な気持ちになった。
凜を揺さぶるために、自分まで揺さぶられていては意味がないと、由羅はため息をつく。
「こんな所で何をしている。登城の邪魔であろう」
唐突にかけられた険のある声の方を、凜と由羅が見る。
陽鞠は凜に寄り添い、その肩に頭を乗せたまま動きもしない。
取り巻く数人の衛士と同じ羅紗の軍服を纏った紫鷹が、不機嫌そうに立っていた。
陽鞠に監視がついているのは凜も由羅も気づいているから、動向が知られているのは不思議には思わない。
「申し訳ありません。巫女様は私を見送って下さっただけです」
早朝の登城口は人もまばらで、少女が三人固まっていたところで誰の邪魔になるものでもない。
陽鞠を庇うように一歩前に出た凜が言う。
由羅の目には、凜が一足一刀の間合いに紫鷹を収めたようにしか見えなかった。
突っ立ったままの紫鷹も、間に入ろうともしない衛士たちにも由羅は呆れるしかなかった。
この間合いでの凜の抜き打ちの初発刀は、由羅ですら油断はできない。
由羅には、紫鷹が首を垂れて差し出したようにすら見える。
「見送り?」
旅装の凜を見て、紫鷹はせせら笑いを陽鞠に向けた。
「何だ、もう捨てられたのか」
言い終えるよりも早く、凜の小太刀が鞘走っていた。
由羅ですら寒気がするほどの、おそろしく滑らかで、挙動の読めない抜き打ちだった。
紫鷹も衛士たちも、何の反応もできていない。
音もなく凜が小太刀の鎺を鞘に押し込んだ。
思い出したように、紫鷹の頬から血が溢れる。
凜の一刀は、紫鷹の頬を深き切り裂き、耳朶を両断していた。
今更のように痛みがきたのか、うめき声を上げながら傷口を抑えて紫鷹は膝をつく。
「次に巫女様に悪意を向けたら、その首が落ちると思え」
凍りつくような凜の声。
誰も何も言えなかった。
由羅ですら、まさか本当に凜が抜くとは思っていなかった。
いや、一人だけ動じていないものがいた。
「まあ、凜様。いけませんよ、そんなことをしては」
場違いな程に穏やかな口調で、陽鞠が凜を嗜める。
陽鞠の目は一度たりとも紫鷹に向けられていない。ただ凜だけを見て話していた。
例え凜の剣が紫鷹の首を落としていたとしても、同じ口調で、同じ言葉を発したのではないかと思わせるものがあった。
「…貴様、夕月家に剣を向けるとは」
呻くような紫鷹の言葉に、今更のように衛士たちが剣に手をかける。
「知るか。貴様こそどの立場で巫女様に無礼を働いたのか言ってみろ」
どこまでも冷たい凜の言葉に、衛士たちが怯む。
自分たちが剣を向けようとした相手が誰か、ようやく理解する。
守り手に敵対することは、巫女と敵対するに等しい。
巫女に剣を向けたとなれば、大公家ですら処罰は免れない。
自分の態度が、陽鞠の寛容のうえに成り立っていたと理解させられ、紫鷹は唇を噛んだ。
「よせ、下がれ」
紫鷹は身振りで衛士を下がらせる。
夕月家の長子としての立場で巫女に剣を向けさせたとなれば、西白州自体が謀反を企てたととられかねない。
自分がいかに危険な火遊びをしていたか思い知らされる。
いままでも、いつでも陽鞠は夕月家を追い込むことができたのだ。
情けをかけられていたのかと、紫鷹は憎悪の目で陽鞠を見る。
その瞬間、守り手よりも恐ろしいものを紫鷹は見た。
陽鞠は紫鷹のことなど、目も向けていなかった。
うっすらと笑みを浮かべて、ただ愛し気に自らの守り手だけを見ていた。
あの女と同じ目だ、と紫鷹は思った。
幼い頃に見た、世界に己と守り手しかいないとでも思っているようなあの女、凜音の目と。
紫鷹は自分の言葉の正しさを突きつけられた。自分がそれをまるで理解できていなかったことを。
関わるべきなどではなかったのだ。こんな化生どもとは。
幼い頃、離れから自発的に出ることが一度としてなかった陽鞠が、離れを出ていると報告を受け、気にしてしまったことが間違いだった。
「若、早くお手当てを」
衛士の言葉に頷き、立ち上がった紫鷹は陽鞠たちに背を向ける。
その去っていく背にすら、陽鞠が目を向けることはなかった。
「何だあれは。こんなことなら最初の時に大公もろとも切り捨てておけばよかったですか」
「もう。本当にいけませんよ」
呆れたように、冗談ともいえない口調で漏らす凜を、陽鞠が柔らかく嗜める。
しかし、その声はどこか嬉しげですらあった。
「由羅。あれだけ脅しておけば大人しくしていると思いますが、陽鞠様の身辺には気をつけてください」
「…ええ」
頷きながら、由羅には消せない不安があった。
陽鞠が凜を変えることなどできないと思い込んでいた。だから、昨日も一人で行かせてしまった。
それが、取り返しのつかない失敗だったのではないかという不安が消えてくれない。
二人の間に何があろうと、凜との立ち合いに負けなければ何の問題もない。
そのはずなのに、今の凜からは得体の知れないものを感じていた。
剣を抜くということに関して、由羅よりよほど慎重だったのが凜だ。
あんな雑草でも払うかのように無造作に人に切りつける性質ではなかった。
心のあり様は、剣のあり様に大きな影響を与える。
今の凜の剣は、由羅が知るものとはまるで別ものなのではないかという疑念が湧く。
「それでは、陽鞠様。いってまいります」
「はい、お気をつけて」
おずおずと凜の背に手を回して抱きしめる陽鞠を、凜も抱きしめ返す。
二人はしばらく無言で抱き合ってから、ゆっくりと離れた。
踵を返し、去っていく凜。
その背中が見えなくなるまで、陽鞠は身動ぎもせずに見送っていた。




