結
船縁で広げた手紙を読み終え、もう一度頭からゆっくりと読む。
書き上げることを急いだことが分かる少し短い手紙。それでも、丁寧に認めたと分かる端正な手。
凜の顔から知らず、優しい笑みが溢れた。
その手紙に向けて、横合いから白い手が伸びる。
咄嗟に、というには余裕をもって凜は手紙を頭上に上げて躱した。
更に背伸びまでして陽鞠は手紙を奪おうとするが、背の高さの違いで届かない。
縁から落ちそうな陽鞠の動きが危なっかしくて、凜はさりげなく陽鞠の腰を支える。
北玄州から西白州に向かう船の上。まだ北玄州に近い海の風は冷たく、甲板に出ているものはほとんどいない。
「陽鞠。屋倉で休んでいたのでは」
「他の女の人からの手紙で嬉しそうにして、この浮気もの」
恨めしそうに手紙を睨む陽鞠に、凜は苦笑いを浮かべる。
「そんな色気のある手紙ではありませんよ」
「では、見せてくれてもいいでしょう」
「いやです。捨てる気でしょう」
いい加減、凜も陽鞠の嫉妬深さには気がついている。
だからといって、手紙を渡して本当に捨てるとは思っていない。そう言ったのは戯れのようなものだ。
もちろん、内容が恋文であればどうなるかは分からないが。
「…私がお願いしているのに駄目なの?」
「もうそれは通用しませんよ」
陽鞠のお願いが命令であったのは、主従の関係があったからだ。
「本当に、駄目?」
愛らしい仕草で上目遣いに見上げてくる陽鞠に、凛は苦笑いを浮かべる。
あざとい演技だと分かってはいるが、同時に陽鞠がこんなことをするのは自分にだけだということも分かってしまう。そう思えば、何でもいうことをききたくなってしまうのは、最早習い性のようなものだろう。
「仕方のない人ですね」
凜から手紙を受け取った陽鞠は、恨めしそうにしていた目とは裏腹に、丁寧な手つきで広げる。
さして長くもない文を陽鞠の目が追い、読み終えると小さな笑みを浮かべた。
「よかったね」
「ええ。そうですね。よかった、と思えます」
そう素直に思えるのは、蟠りを陽鞠が受け止めて、ほぐしてくれたからだろう。
そうでなければ、渚に感謝されるためにやったわけではないと斜に構えていたかもしれないと凜は思う。
「…凜が望むなら、北玄州にいてもいいのよ」
少し顔色を窺うような目をした陽鞠に、凜は微笑みかける。
「大公に言った通りです。信のおけぬもののもとにいる気はありません」
「うん…」
陽鞠の顔色は晴れない。
その理由も、凜には分かっていた。それなら、誰なら信じられるというのか。
誰しも何かを秤にかけて生きている。親を、妻を、子を秤にかけても信義を取るものは秤の壊れた狂人だろう。
人の世で生きるということは、隣人に裏切られる可能性を無視して生きることだ。それを妥協できないなら、まつろわぬ民として生きるしかない。
「それに…寒いのはこりごりです」
冗談めかして肩をすくめた凜に、少し苦い微笑みを陽鞠は浮かべた。
陽鞠はきっと言葉の裏を読み取っただろうと凜は思う。
北玄州は、人も土地も凜の心をざわつかせる。凜にはまだ、それを受け止めきることはできなかった。
だから凜は北玄州で、自分の見えないところで陽鞠が何を思い、何をしていたのか問わない。
問いただせば陽鞠は答えてくれるだろう。しかし、その答えを聞くことを凜は怖れていた。
「ですが、どうしてそんなことを聞くのですか」
「望まれるというのは大切なことよ。どこに行っても望まれない私と、凜は違う」
朝廷に目をつけられている限り、山祇に陽鞠の居場所はない。
蘇芳は陽鞠を望んだが、もし東青州に残っていたらおそらく火種になっていただろう。朝廷との対立を怖れるものすべてを、蘇芳が抑えられるはずもない。
そんなことすら、陽鞠から離れようとした時の凜は気がついていなかった。
凛とて神祇府と対立してはいるが、それは陽鞠の付属物としてだ。陽鞠から離れてしまえば、神祇府はさほど凜を気にしないだろう。
神祇府が怖れているのは、あくまでも守り手としての凜なのだから。
「どこにも居場所がない私と、凜は違う」
俯いて重ねるように言う陽鞠を、凜は見つめる。
揺るがぬ意思や確信のようなものを持っているように見える陽鞠も、迷いや悩みがあるのだと今の凜には素直に思えた。
凜が仕えた、寂しさとそれに反する強い心を持った巫女はもういない。それは、陽鞠のほんの一面でしかなかった。
目の前にいるのは、泣き、笑い、悩み、失敗もする、甘えたがりで、やきもち焼きなただの少女だ。
それが、愛しいと思える。
「どこにも居場所がないなんて、悲しいことを言わないでください」
凜は支えていた陽鞠の腰を、そっと抱き寄せる。
小さな体は一人にしてしまえば、荒波に揉まれてすぐに消えてしまいそうだ。
「私の隣が陽鞠の戻るところなのでしょう。そう言ってくれたではないですか。私では陽鞠の居場所になれませんか」
肯定なのか否定なのか、陽鞠は凜に抱きしめられたまま、静かに首を横に振る。
「凜がまたいなくなってしまうのが怖いの。怖い…」
「もう、いなくなったりしません」
「本当?」
「はい。それをこれから何年も、何十年もかけて証していきます」
鼻を啜った陽鞠が、微かに頷くのを凜は感じた。
「陽鞠。次は暖かいところに向かいましょうか」
言いながら、凜は視線を上げる。
船が向かう先には、まだ一面の海原しか見えない。
「凜が行くところなら、どこにでもついていくから」
「ええ。それで、どこか住み良いところを見つけたら家を手に入れましょう」
「…うん」
凜は腕の中の陽鞠を見ずに、海の先に視線を向けた。
肩口の温かさは、陽鞠の涙なのかもしれないと思った。
「そうしたら、私と家族になってくれますか」
凜の言葉に、陽鞠の肩が震えた。
親の愛情も、家族の温もりも知らないのは、凜も陽鞠も同じだ。
知らないから、自分たちで作るものをそうだと思うしかない。けして埋まることのない胸の穴を、お互いの形で埋めることを凜は家族と呼ぶことに決めた。
陽鞠の返事はない。
凜も返事を求めなかった。
陽鞠の答えなど今更であったし、きっと今、陽鞠は言葉を出せる状態ではないだろうとも思う。
長く待たせすぎてしまったな、と凜は少し申し訳なくなる。
視線の先で、陽の光を反射して海が煌めいていた。
それを凜は美しいと思った。
初めてそう思えたことが嬉しかった。
(完)




