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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
113/115

三十三

 薄岸に戻った凜と陽鞠は、その足で大公の屋敷に向かった。

 城郭に着くと、すぐに屋敷まで案内される。

 凜たちを警戒する様子はなく、むしろ可能な限り人を近づけない配慮すら感じられた。


 案内をした役人らしきものは、屋敷の中には入らず内庭に凜たちを連れてくると、そのまま帰っていく。

 自然の景観を模した庭園の中心にある池に架けられた太鼓橋。そこに夜風雪那は一人、佇んでいた。

 近くどころか、庭園にはまるで人の気配は感じられない。


 凜たちが近づいても、雪那は池に目を向けたまま振り返らなかった。

 散らつく雪と対比を成すような黒の紬は、どこか喪服を思わせる。


 橋の袂で足を止める凜。

 ようやく、ゆっくりと振り向いた雪那が、凜に向かって頭を下げた。


「此度は当州のことで其方に迷惑をかけた。申し訳ない」


 機先を制されるかたちで出鼻をくじかれ、凜は鼻白む。


「領主代行を斬ったことを罪に問わないのですか」

「法に照らせばそうするべきであるが、姪の恩人に仇で返すわけにもいくまい」

「恩人?」


 せせら笑うような凜の態度にも、雪那の表情は揺るがない。


「そも、天羽槐の殺害は最上という衛士が下手人となっている。今更、其方に問う罪はない」

「それが政ですか」


 汚物に唾を吐きかけるように、凜が言い捨てる。

 巫女を一市民として扱うという話はどこにいったのか。今回は凜たちに都合のいい話だったが、それは都合の悪い方に裏返る可能性もあるということだった。


「誤解があるようだが、けして其方を刺客に仕立てる意図があったわけではない」

「意図はなくとも、描いた筋書きのうちではあったのではないですか」


 凜の疑いに、雪那も今度は自嘲を含んだ苦笑いを浮かべた。


「私をあまり買い被るな。神算の鬼謀の持ち主だとでも思っているのか。槐があれほどの暴挙に出るなど思ってもいなかった」


 凜の目から疑いが消えていないのを見てとり、雪那はため息をつく。


「何故、そのように疑う。其方が為政者を信じていないのは分かるが、何か理由があるのか」

「疑わしいことばかりしたのはそちらでしょう。黙って監視をつけたこと。雪宗と天羽家の繋がりを隠したこと」


 一旦、言葉を切った凜の目が怜悧な光を帯びる。


「何より、渚様の婿を明確に定めなかったこと。その隙がなければ、槐とて暴発しなかったかもしれません」


 凜の言葉に、雪那は力のない笑みを浮かべた。


「なるほど。これが驕りか…良かれと思ったことが全て裏返ったな」


 雪那が橋の中央の高いところから下りてきて、凜の前に立った。

 それは、凜がその気になれば一瞬で首を落とせる距離だった。


「あの案内人は確かに私の諜者だが、其方らに私との伝手をつけておきたかっただけだ。望内の内偵を行っていたものたちとの連絡役でもあるが、他に意図はない。それを伝えなかったのは、手落ちであったな。言い訳をさせてもらえば、監視をつけていると思われて其方らの心象を悪くしたくなかった」


 静かに語る雪那の言葉を、凜は黙って聞く。


「雪宗…いや、雪火のことか。それについては言う必要がなかったというのが一つ。夜風家を出奔した弟だと其方らに言う必要があるか? 何度も言うが、この事態を私は想定していなかったのだ」

「一つ、というのは?」

「他の理由もあるが、それは私の口からは言えぬ。それを明らかにすることは、大公という立場ではできないのだ」


 雪那の目が、凜から陽鞠へと移った。

 陽鞠は黙して語らない。大公家直系の男子に姫がいるなどと、陽鞠はけして口にはしない。

 それは夜風家の、ひいては夜風家と朝廷の火種になりかねなかった。


「言えぬならそれで構いません。それで?」

「渚のことか…」


 雪那の口が、途端に重くなる。

 しばらくその目が、何かを思い出そうとするように遠くを見て、それからおもむろに口を開いた。


「私の妹が天羽家に嫁いだのは知っているな」

「ええ。雪子様ですね」

「会ったか?」

「お会いしました」

「どう思った?」


 雪那の質問の意図が分からず、凜は首を傾げる。


「心を病んでおられたので何とも。ただ、長と間違われました」

「さもあろうな。あれは華陽に強く憧れておった。女だてらに剣で身を立てるなどと言っておったよ。まあ、才も気概もなかったがな」


 あの線の細い、幼げですらある女性とどうしても凜は印象が結びつかなかった。


「嫌がるあの子を天羽家に嫁がせたのは私だ。当時の望内は今よりも荒れていて、天羽家と夜風家の紐帯をしめすことは重要だった。あの時は、それが大義のために正しいと信じていた」

「いまは違うと?」

「国のため、家のためというなら正しかったのだろう。あの子は二度と私と口をきいてくれなくなったがな」


 ふと凜は、槐と雪子の間に起きたことを雪那が知っているのだろうかと疑問に思った。

 もし、知らないのであれば、それを伝えることで雪那の心に止めをさせるかもしれない。一瞬だけ浮かんだその考えを、凜はすぐに放棄する。

 それは、そんな目的で口にしていいことではなかった。


「だから、せめて渚には夫くらい好きに選ばせてやりたかった。愚かしい代償行為だと笑うか」


 凜は笑いなどしなかった。

 ただ、微かに湧いた怒りを言葉にしないではいられなかった。


「渚様は、望内のために見も知らぬ権力者を婿にとる覚悟をしていました。あなたは渚様と雪子様のどちらを見ていたのですか」


 凜の言葉に、雪那は空を仰いだ。

 雪那の顔に雪が当たり、涙のように伝った。


 雪那の言葉を全て信じるわけではないが、それでも凜はこれ以上追求する気にはなれなかった。

 凜は別に真実を詳らかにしたいわけではない。言うべきことを言えれば、それで十分だった。


「本当に愚かしいな…凜よ、私は渚にどう詫びればいいと思う」

「渚様を傷つけることしかできなかった私に分かるはずがありません」


 立ち尽くす雪那に、凜にかけるべき言葉はなかった。

 だから、凜が続けたのは、言うべき言葉ではなく、ただの凜としての無責任な言葉だった。


「…しかし、緒方という男はなかなか肝の据わった人物でした。きっと渚様をよく支えるでしょう」

「そうか…そうか」


 その言葉が雪那にどんな影響を与え、何を変えるのか、あるいは変えないのか、凜は考えようとは思わなかった。

 雪那の返事を求めず、陽鞠の方を向く。


「…私はもう言うべきことは終えました。陽鞠は何かありますか」


 陽鞠は静かに首を横に振る。


「私は金子さえ頂ければそれで」

「では、行きましょう。…大公、私たちは港に向かいます。陽鞠への報酬はそちらに届けてください」


 陽鞠を促し、凛は立ち去ろうとする。


「待て」


 踵を返しかけた凜を、雪那が呼び止めた。

 懐から二通の封書を取り出す。その片方を、陽鞠に差し出した。


「陽鞠殿への報酬は用意してある。受け取るがよい」

「頂戴します」


 陽鞠は中を検めたりなどはせず、そのまま懐に収める。

 そのことに、雪那も何かを言うこともなく、視線が凜へと移った。


「凜。渚から其方へだ」

「…渚様から?」


 凛たちが望内から薄岸に戻るのには、陽鞠の足に合わせて五日かけている。

 雪道に慣れた健脚なものなら、その半分もかからないのだから、追い抜かれたことはおかしくはなかった。


「何でしょうか」

「中を検めたりなどはしておらぬよ」


 差し出された封書に伸ばしかけた手を、凛は躊躇うように止める。

 しかし、それは一瞬のことで、凜は封書を受け取った。


「凜よ。ここに止まらぬか」


 凜の静かな目が、雪那に向けられる。


「仕えよとは言わぬ。其方の信を取り戻す機会が欲しい」

「渚様が雪子様ではないように、私は長ではありません」

「厳しい言葉だ。やはり私が信じられぬか」


 自嘲を含んだ雪那の言葉に、凜は生真面目な口調で答える。


「あなた個人に思うところはありません。ですが、最初に言ったでしょう。大公が嫌いだと」


 淡々と、しかし憚ることなく凜は言葉を紡ぐ。


「あなたは善き人といってもいい人間なのでしょう。ですが、多くを秤にかければ、少なきを切り捨てられる人だ。大公とはそういう生き物でしょう」


 切り捨てられた側にも痛みはあるのだ。

 常に切り捨てられる側だった陽鞠の隣に立つ凜が、多くの側に立つことはない。


「だから、私はあなたを信じないし、あなたのもとに止まることもありません」

「…そうか。残念だ」


 雪那の声は、心底から残念に思っているように凜には見えた。

 大公という立場は、あるいは雪那からこそ最も多くを奪っているのかもしれない。そうは思っても、凜の考えは変わらなかった。


 凜が踵を返すと、寄り添うように陽鞠が隣に立つ。


「だが、凜よ。忘れないでくれ」


 背中からかけられた声に、凜は振り向いたりはしなかった。しかし、その言葉は、確かに凜の耳に届いていた。


「いまの誘いを私は取り下げたりはしない。其方たちが山祇に居場所が見つからなかったとき、いつでも私のところに戻ってきておくれ」

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