三十二
雪宗の用意した朝餉を済ませた二人は、旅装を整えて家を出た。
昨日の雪が嘘だったかのように空は晴れ渡っている。冬の北玄州で雪が溶けたりはしないが、歩けないというほどではなかった。
見送りに出た雪宗に、凜は丁寧に頭を下げる。
「それでは、世話になりました」
「…」
無言で眉を顰めた雪宗に、凜は首を傾げた。
「何か?」
「いや、世話になったのは俺の方だろう」
「そうですか?」
「まあ、いいがな」
首を傾げる凜にため息をついた雪宗は、持っていた刀を差し出す。
それを受け取ることに、凜の中にわずかな躊躇いがあった。
「いらぬなら置いていけ。こんなもの持たぬにこしたことはない」
真摯な声で言いながらも、雪宗は刀を下げたりはしなかった。
逸らすことなく凜を見る目が、自分で決めろと言っていた。
「いえ。私にはまだ必要なものです」
凜は躊躇いを振り切って刀を受け取る。
争いごとに嫌気がさしているのは事実だ。しかし、陽鞠の身に危険が起きた時に、無力なのはご免だった。
「…いずれ、刀を抜くことなく生きることができた時には、手放すことができるでしょう」
「そうか」
凜には、なぜそんなことをわざわざ雪宗に言ったのか、自分でも分からなかった。
しかし、言ったことに不思議と悔いはなかった。
「もし、そう思える前に刀が折れたらまた来い。新しいものを用意しておいてやる」
「刀を打つのはやめたのでは?」
「ふん。観賞用の刀など打つ気はないが、本物の剣客になら打つさ」
ぶっきらぼうだが、嘘のない言葉。
凛はわずかに口の端を上げた。見た目は地味だが、よく粘り、よく斬れる、打つ刀そのもののような男だ。
「では、いらなくなった刀を返す時か、新しい刀を貰う時か、いずれかにまた訪れます」
「いらなくなったのなら、わざわざ返さなくていい。お前のものなのだからな」
「ええ。だから、私のしたいようにします」
「…好きにしろ」
その時、雪宗が見せた僅かに口の端を上げる笑い方は、凜と瓜二つであった。
しかし、鏡すらほとんど見たことのない凜が、そんなことを知る由もなかった。
凜から外された雪宗の視線が、陽鞠に向けられる。
「俺が言うことではないが、一人で背負いすぎる娘だ。よく見ていてやることだな」
「言われずとも、片時も目を離す気はありません」
けして親しげではない言葉を交わす二人。
しかし、やはり何か通じ合うものがあるように凛には思えた。
そのことにもう煩悶したりはしないが、不思議には感じる。
「どうするか、悩んだのだがな…」
言葉通りに逡巡を残した様子で、雪宗は懐から房紐で留られた五寸ほどの丈の錦の袋を取り出す。
それを、陽鞠に向けて差し出した。
「笛…いえ、懐剣ですか?」
受け取った陽鞠は、思ったよりも重かったのか、しっかりと握り直す。
それを凜は苦々しい顔で見た。
懐剣はかつて士族の女なら誰でも帯びていたものだ。護身用ではあるが、それ以上に誇りを汚されそうになった時の自害用の意味が強い。
今となっては廃れた風習だった。花嫁衣装の小物として嫁入り道具に持たせることはあるが、常に帯びているものはいない。
「陽鞠になんてものを…」
「お守り程度に思ってくれ。深い意味はない」
咎める凜の言葉に、雪宗は気まずそうに視線を逸らす。
「渚お嬢様とどちらに渡すか悩んだが…まあ、お前たちとは二度と会わぬかもしれんしな」
「今の渚様に渡すのは危ういのは分かりますが…」
渚の状態を考えれば、衝動的に自害に用いかねないと凜は思う。
「そもそも刀を打っていないという話はどこにいったのです」
「打ったわけではない。磨り上げただけだ」
「磨り上げ…まさか」
磨り上げれば脇差くらいになるとは、凜が言ったことだ。
「それは、どうなんですか」
凜が斬った華陽の刀が、姿を変えて陽鞠の手にある。
護り刀というには因果すぎる品に凜には思えた。
「いいではない、凜」
言葉にできない蟠りを感じる凜の袖を、陽鞠が引く。
その胸元には、すでに帯に差した懐剣が収まっていた。
「私は嬉しいわ。凜の刀とお揃いのようなものでしょう」
「まあ、陽鞠がそう言うのでしたら」
釈然としない気持ちを残しつつも、凜は無理矢理飲み込む。
「雪宗様。ありがたく頂戴します」
「ああ。手入れの仕方はその娘に聞け」
その雪宗の言葉で、会話が途切れるのを凜は感じた。
いや、このまま話すことが、わずかな名残惜しさを大きくするような気がした。
「それでは、世話になりました」
だから、凜はそこで会話を打ち切った。
「…ああ、達者でな」
雪宗が低い声でぼそりと漏らすのを聞きながら、凜は陽鞠の手を握る。
「行きましょう、陽鞠」
「うん」
頭を下げた陽鞠がついてくるのを確認しながら、雪宗に背を向けて凜は歩き出す。
振り向くことなく十歩ほど進んだ時だった。
「凜っ」
今までに聞いたことのない、雪宗の大きな声に凜は足を止める。
初めて名を呼ばれたことに驚くが、違和感は覚えなかった。
しかし、凜は振り向きはしない。
少しだけ、手を握る陽鞠の力が強くなった気がした。
「行き場所がなくなったら、ここに戻って来い。面倒くらいはみてやる」
凜は微かに頷きを返して、何も言うことなく再び歩き始めた。
それが雪宗に見えたのかは、凜には分からなかった。
◇◇◇
郊外にあった雪宗の家から離れれば、そこはすぐに町の外になる。
雪道を無言で歩く凜の隣に、陽鞠が寄り添う。
握っていただけの手は、いつの間にか腕が絡められていた。
いつになく密着して歩く陽鞠を、慰めてくれているようだと凜は思った。
その気遣いと温かさが心地よかった。
だから、陽鞠がするりと腕を離した時、その原因となったものを凜は不愉快に感じた。
雪道の先には、望内まで案内してくれた男が立っていた。
偶然ではないことは、こちらを見ても驚かないことからも明らかだった。
「まだ、望内にいたのですか」
近づいてくる案内人に、凜が声をかける。
陽鞠が一歩、凜の後ろに下がった。
「ええ。薄岸にお戻りなら、帰りも案内します」
凜の間合いに踏み込んだ瞬間、男の人好きのする人相が凍りついた。
いつの間にか、抜き打った凜の刃が男の首筋に突きつけられていた。
男には凜が刀に手をかけたことさえ認識できていなかった。
「凜殿…」
「貴様はただの案内人ではないな。大公の斥候か諜者だろう。案内とはどこへだ。あの世か」
不意を打たれ、凜の冷たい剣気に晒された男は咄嗟に声が出なかった。
「槐が死んだのは目論見通りか? あとは私たちが消えれば都合がいいか」
「ま、待たれよ。確かに私は閣下の手のものだが、けしてそのような目論見はない」
男の声には本物の焦りがあった。
しかし、諜者であればそのように見せることも出来るかもしれないと凜は考える。
「そう言われて、信じることができると思うか。案内された先で討手でも待ち構えているのか」
「私はそれとなく、お二人の安否を見守るように言われている。そんなことをするはずがない」
そう返した男も、凜の冷たい拒絶の目を前に、言葉の無意味さを悟ったようだった。
「何を言ったところで信じてもらえぬか…」
「信を問うなら貴様の言葉ではな。大公に伝えておけ。もし、私たちを体良く利用したというなら、それなりの対価を払って貰うとな」
男は陽鞠にとりなしてもらおうと思ったのか、陽鞠に目を向けて開きかけた口を、しかし閉ざした。
凜が剣を抜いたことに驚く素振りすら見せないその顔には、微笑みすら浮かんでいた。
その炯々とした金の瞳が、あるいは突きつけられた切先よりも恐ろしいものに思えた。
「行け。貴様の足なら私たちよりも早く戻れるだろう」
凜の言葉に、男はじりじりと後ずさる。
男は凜から十分に離れたところで息を吐きかけ、そして心底から肝を冷やした。
まるで、初めから抜いてなどいなかったかのように、いつの間にか凜は剣を納めていた。
警戒などしてもしていなくても変わらない。意識の隙をついていつでも斬れるのだと言われているようだった。
男は踵を返して、凜たちが向かう先へと駆け出した。
その背中が見えなくなるまで待ってから、凜は息を吐き出す。
隣に戻った陽鞠が、また腕を絡めてきた。
「凜は、槐様を斬ったこと、雪那様が仕組んだことだと思っているの?」
「そんな可能性もある、くらいでしょうか」
仕組んだというには偶然性が強すぎるので、せいぜいがそうなる可能性を誘導した程度だろうと凜は考えていた。
案内人を強く脅したのは、どんなに低い可能性でも陽鞠を危険に晒さないためでもあるが、大公に対する不快感の表明でもあった。
「私が仕事を引き受けたりしなければ…」
項垂れる陽鞠の頭を、空いた手で凜は優しく撫でる。
「陽鞠に判断を投げたのは私です。それに望内に訪れたことは変わらないのですから、どちらにせよこうなっていたかもしれません」
「…うん」
まだしょげた様子の陽鞠の頬に、凜は手を添える。
下を向いた顔を上向かせて、その額に唇を落とした。
「凜…」
「私にとっては、陽鞠と結ばれただけで十分に価値のある旅だったのですが、陽鞠は違うのですか」
陽鞠の顔が、耳まで赤く染まる。
それから複雑そうな表情を浮かべ、段々と膨れっ面に変わる。
「私がどれだけ望んでいたか知らないくせにっ。今までそんな気なさそうにしてたのに、ずるい」
腕を離した陽鞠が、凜よりも数歩前に出て歩き出す。
本人は早足のつもりなのかもしれないが、雪に足を取られて凜から見れば危なっかしかった。
「気をつけないと、転びますよ」
苦笑いを浮かべて、凜は陽鞠を追いかけ始めた。
振り向いた陽鞠が無邪気に舌を出してくるのを見て、凜は顔を綻ばせた。




