三十一
ぼんやりと陽鞠が目を覚ますと、すでに日が昇っているのか、座敷は明るかった。
自分がいつ眠ったのか記憶がないせいで、状況の認識が遅れる。
疲労感は残っているのに、活力に溢れた体。心が満たされた余韻。
心地よく触れ合う肌。枕になってくれている、柔らかでしなやかな腕。目の前で穏やかな息を繰り返す端麗な凜の顔。
昨夜の自分の痴態が思い出されて恥ずかしくなるが、それ以上に幸福感に満たされていた。
自分の心が穏やかなことを、陽鞠は意外に思った。
妄執じみた気持ちが消えたわけではないが、自然と凜に愛されていることを受け入れられる。
凛に受け入れてもらえたことで、自分がいかに気持ちを肥大させ、拗らせていたか理解できた。
賢しげに振る舞っていたことが、愚かしく思えてくる。
だからといって、初めから欲求をぶつけていれば良かったとは思わない。
どれだけ可能性が低くても、凜に拒絶されたら生きていけない自信が陽鞠にはある。
「凜…」
囁くように名前を呼んで、陽鞠は唇を寄せる。
触れるだけの口づけ。
もう勇気を振り絞る必要はなかった。心臓が早鐘を打つことは変わらなくても、自然とすることができた。
残火のような不満や不安も感じることはなく、愛情だけが心に溜まる。
ゆっくりと陽鞠が唇を離すと、凜はうっすらと目を開いていた。
「おはようございます。陽鞠」
寝ぼけたところのまるでない声と目。凜がいま、目覚めたわけではないことが分かる。
「もうっ。起きてたなら言って」
陽鞠が頬を膨らませると、優しく腰を抱き締められた。
「済みません。くっついているのが気持ちよくて」
情事の跡を残した、一糸纏わぬ肌と肌がしっとりと密着して吸い付く。
情欲の名残が、陽鞠の体を甘く疼かせる。
その顔を見られるのが恥ずかしくなり、凜の胸元に顔を埋めた。
受け止めてくれた双丘の柔らかさに意識を奪われる。
布団の外は凍える寒さだが、中は二人の体温で汗ばむほどに温かい。
凜の肌にわずかに浮いた汗を吸い取るように、陽鞠は柔らかな膨らみに唇をつける。
それがくすぐったいのか、微かに身動ぎしながら、凜は陽鞠の頭を撫で始めた。
「陽鞠は意外と甘えん坊ですね」
慈しむような優しい凜の声と手つきに、陽鞠は少しだけへこむ。
本当は陽鞠の方こそ、凜にこうしたかったのだ。
陽鞠は凜に母性を求めているわけではないが、こうしていることに情欲と同じくらいの安らぎを感じているのも事実だった。
眠気を感じ始めた陽鞠は、これは人を堕落させる悪いものだと思う。自分以外の誰にも触らせてはいけない。
二度寝など生まれてこの方、一度としてしたことのない陽鞠がうとうとしていると、頭を撫でていた凜の手が止まる。
「陽鞠。生え際が少し黒くなってきましたね」
凜の言葉に、陽鞠は胸元から顔を上げる。
旅暮らしでは鏡を見る機会もほとんどない。陽鞠や凜の身だしなみが整っているのは、お互いに整えあっているからだ。
「本当?」
「ええ。そのうち、元に戻りますよ」
「…凜は今と前、どっちがいい」
陽鞠は老婆のような白髪に少なからず羞恥があるが、凜が今の方がいいというなら戻らなくてよかった。
「どちらでも愛らしいですが、どちらかといえば黒髪に戻って欲しいです」
「黒髪の方が好き?」
「いえ。今の陽鞠の髪は私の無力の証明です。見ていると少し心が痛みます」
「それなら、早くもとに戻さないと」
「ええ。ですから、もっと食べてください。陽鞠は食が細くて心配です」
「だって、太って凜に嫌われたくないし…」
「そんな心配は、もう少し肉をつけてからしてください。何ですかこの細さは」
凜に腰を掴まれて、陽鞠は思わず「ひぅ」と声を漏らす。
凜が漏らすくすくすとした笑い声が、わざとであることを物語っていた。
「凛こそ何ですか。こんな細い体でよく剣を振れますね」
わざとらしく昔の口調で言いながら、陽鞠は凜の体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
その体が冗談ではなく細いことに、陽鞠の心臓は跳ねた。
裸を見ている陽鞠ですら、立ち姿の美しさやしなやかさに目がいって、直接肌で触れ合うまで分からなかった。
この細い体のどこに、並み居る強者たちを退けるだけの力があったのか。それを思うと陽鞠は涙ぐみそうになる。
「剣を振るのに腕力はたいしていりませんよ。最低限扱える力があればあとはむしろ余分です。力で戦うのも一つのあり方ですが、それでは男に勝てませんから」
真面目くさった答えを返してくる凜に、少し腹を立てた陽鞠は目の前の柔らかい肉に軽く歯を立てる。
「こら、陽鞠」
叱るというには笑いを含んだ声を出した凜が、陽鞠の脇腹を指で掴む。
「やだっ、もうっ」
くすぐったさから逃れようと身動ぎする陽鞠を、凜が片手で抱きしめて身動き取れなくする。
逃れられない陽鞠が暴れて、その拍子に掛け布団を蹴飛ばしてしまう。
冷たい空気が二人の頭を覚まさせ、我にかえる。
陽鞠は裸で抱き合っていることを急に意識してしまった。
凜が掛け布団を戻すために、少し身を離したことで、その裸体が陽鞠の目に飛び込んでくる。
昨晩、自分を抱いた、女の体。
熾火のような凜に対する陽鞠の情欲は、睦ごとを経て些細なきっかけで簡単に燃え上がる状態にあった。
布団を掛け直す凜の首に腕を回して、自分の方に引き倒す。
覆い被さってくる凜と目が合う。
凜の美しく澄んだ黒い瞳の奥底に、自分と同じ火を陽鞠は見つけた。
陽鞠の指が、誘うように凜の唇をなぞる。
その指を押し除けて、凜の唇が陽鞠の唇に重ねられた。
お互いに何の抵抗もなく、貪るように舌を絡め合う。陽鞠の口の端から溢れた液を凜の舌が掬い、元あるところに戻す。
凜の手が背中や脇を愛撫されると、陽鞠の体は自然に受け入れる準備を始める。
たっぷりとお互いの唇を貪ってから、息を継ぐように唇が離れた。
「凜…こんな明るいと恥ずかしい」
言葉とは裏腹に、白蛇のように陽鞠の足が凜の足に巻きつく。
「では、やめますか」
「…意地悪」
凜の指が背筋を伝い下に向かうと、陽鞠は熱い息を漏らした。
昨夜のことが陽鞠の脳裏を掠める。
想いは体に悦楽を与え、悦楽は心の器を満たす。そんな睦ごとの記憶。
長い間、心に空虚を抱えていた陽鞠にとって、それは抗い難い魅力的な行為だった。
沼に嵌ったといっても過言ではない。
へたな大人などよりもよほど理性的な陽鞠が、年ごろの娘らしい軽挙をしてしまうほどに。
だから、動きを止めた凜が身を離した時、咄嗟に浮かんだのは疑問よりも不満だった。
「…おい。もう起きているか」
襖の向こうから聞こえた低い声に、思わず陽鞠は悲鳴を上げそうになった。
この家に自分たち以外がいることを、完全に失念していた。
「いま、陽鞠の着替え中です。少し待っていてください」
「分かった。土間にいるぞ」
落ち着いた凜の声に答えて、雪宗の気配が離れていく。
その間、陽鞠は心臓の動悸が止まずに、声も出なかった。もし、雪宗に見られていたらと思うと、あまりにも気まずかった。
雪宗がいきなり襖を開けるような無作法な男ではなかったことに感謝する。
仰向けに寝転がったままの陽鞠と、上半身だけ起こした凜の目が合う。
お互いに一糸纏わぬ裸で、乱れた髪。髪と同じくらいに乱れた、情事の跡を残した布団。
凜が少し困ったような苦笑いを浮かべる。
それを見て、硬直の解けた陽鞠は、今度は次第におかしくなってきた。
気分が盛り上がりすぎて、あまりにも馬鹿な自分たちに笑いが込み上げてくる。
先に笑い出したのはどちらだっただろうか。
狭い座敷に、少女たちの忍びやかな、しかし屈託のない笑い声が響いた。




