二十九
一筋の涙が頬を伝うと同時に、凜がゆっくりと目を開いた。
陽鞠はこの瞬間が好きだった。
余分な思考が走る前の、子どものようにあどけない凜の素の瞳。
人の気配があればすぐに目覚めてしまう凜の、この瞳が見られるのは陽鞠だけだろう。
行燈の薄明かりでは、その透き通った美しい黒曜石の瞳がはっきりと見えないのが残念だった。
焦点の合わない凜の目が、真上から覗き込む陽鞠の目と合う。
「…陽鞠?」
体勢を不自然に感じたのか、少しだけ首を傾げた凜が、陽鞠に膝枕をされていることに気づいて慌てて頭を上げようとする。
それを、陽鞠の手のひらが頬に触れることで柔らかく押さえた。
「どうしたのですか」
「少し寝苦しそうだったから。こうすれば落ち着くかと思って」
言いながら、陽鞠は凜の頬に残った涙の跡を手のひらで拭いとる。
「そう、ですか。済みません」
謝罪よりは「ありがとう」が聞きたいと思う。しかし、陽鞠がやりたくて勝手にやったことで感謝をねだるのも違うと思い、口をつぐむ。
その代わりというわけでもないが、陽鞠は艶やかな髪越しに凜の頭を撫でた。
心地よさげにしてくれることが、陽鞠の胸に甘い疼きをもたらす。
「…陽鞠、もしかして声をかけてくれましたか」
「いえ。膝枕をしていただけよ」
そう答えると、凜の唇が微かに動いた。「嘘つきめ」と言ったように陽鞠には聞こえた。
それが他の人間の気配を感じさせて、陽鞠の心を冷たく刺す。
同時にあまりにも強い嫉妬心に、ため息をつきたくなる。陽鞠は自分が嫉妬深い人間だと理解しているが、けしてそういう自分を快く受け入れているわけではない。
むしろ強すぎる嫉妬心が、いつか凜との関係を壊してしまわないか恐れてすらいた。
「何かあったの?」
心配から出た言葉が、探りを入れているように取られないか少し不安になる。
「…いえ。少し夢を見ていただけです」
「そう…」
その内容を知りたいと思ったが、陽鞠は聞くことはしなかった。
凜が口に出さないのは、口に出したくないからなのだろう。陽鞠もたまに夢を見る。その多くは過去の出来事につながっている。
陽鞠も凜も、過去に出会ってきた人々の多くともう会うことはできない。
無遠慮に踏み込めるようなものではなかった。
「寝苦しそうだったのは夢のせい?」
代わりのように、今のことを聞く。
今、凜が安らかならそれでいいし、何か抱えているなら助けになりたかった。
「いえ、そういうわけでは…」
「それなら、何か気掛かりがある?」
「どうして、そう思うのですか」
「帰ってきた時から、少し様子が変だったから」
けして問い詰めるような口調にならないように、努めてゆっくりと穏やかに話す。
「そうですか、いえ…」
この短い会話の中で三回目だ、と陽鞠は思う。
陽鞠は凜の、「いえ」が好きではない。何かあるが、伝えるほどではないという意図を感じる。それをやめてほしいと伝えはしたが、おそらく凜には正しく伝わっていない。
陽鞠は凜から報告を受けたいわけではない。凜と気持ちを分かち合いたいのだ。
今日はここまでかと陽鞠は会話の終わりを予感する。
望内に来てからの凜は、少しずつ胸の内を明かしてくれるようになったのだ。あまり急ぎすぎて気持ちを押し付けるようなことをしたくはなかった。
しかし、このまま口を閉ざすと思った凜は、逡巡をみせながらも頭を上げて陽鞠の前に居住まいを正して座った。
「陽鞠。少し話を聞いてもらってもいいですか」
「え…」
思わず間の抜けた声を漏らしてしまったことで、凜の逡巡を強くしてしまう。
「済みません、こんな夜更けに。やはり、明日にしましょう」
「ううん。いま、話して…聞きたい」
慌てて凜の手を握りながら、話を促す。
驚きから我にかえると、今度は嬉しさで笑みが漏れそうになってしまうのを、陽鞠は懸命に堪えた。
凜はきっと真面目な話をしようとしているのに、笑顔はおかしいだろう。
「情けない話なので、陽鞠を失望させるかもしれませんが…」
「そんなことないから」
まだそんな遠慮をしていることに、少しの呆れを陽鞠は感じる。
陽鞠は凜に夢や幻想を抱いていない。むしろその弱さや不器用さをこそ愛しているのだ。
それは凜とて分かっているはずだ。しかし、自己評価が低いせいで、陽鞠から見捨てられる可能性を捨てきれないでいた。
「そうですね。私は今日、もう昨日ですか、槐という男を斬りました」
「うん」
考えをまとめながら話す様子の凜を邪魔しないように、陽鞠は相槌だけを打つ。
「そのことに後悔はありません。私にできることはそれしかありませんでした。しかし、斬ったところに渚様もいたのです」
「それは当然だと思うけれど」
決定的なことがなければ、凜は剣を抜いたりはしないだろう。
そうであれば、槐がことに及ぼうとした場面であった可能性が高い。
「ええ。しかし、渚様をひどく怯えさせてしまいまして」
「ああ…」
陽鞠とて渚の気持ちは分かる。
凄惨な現場というものは、生理的な恐怖をもたらす。陽鞠もけしてそれがないわけではない。
まして、箱入り娘の渚は耐性などなかっただろう。
「感謝や称賛を求めていたわけではありません。恐れられることも分かっていました。それでも、何か寂しさのようなものを感じてしまいました」
「凜…」
ため息のように、凜は小さく息を一つ吐いた。
「報われることに慣れすぎていたのかもしれません」
「…?」
凜の言葉が、陽鞠には理解できなかった。
「人を斬った報いを受けた」ならば、凜の言いそうなこととして陽鞠も理解できた。
しかし、陽鞠の知る凜の人生に、報われた瞬間などどれほどあっただろうか。他人から重荷を背負わされるばかりの人生だったではないか。
「凜。分からない。どういう意味?」
「陽鞠は一度として私を怖がらなかったではないですか。そうやって報われることに慣れすぎたのかと思いまして」
そんなふうに思ってくれていたことが嬉しい。
そんな小さなことを報いていると思われるなんて悔しい。
相反する形にならない感情が涙となって溢れ出す前に、陽鞠はうずくまった。
漏れかける嗚咽を唇を噛み締めて堪えていると、次第に悔しさの方が大きくなる。あまりにも報われることの少ない人生が、こんな凜を作り上げてしまった。
「陽鞠。大丈夫ですか」
背中を撫でる温かい手。優しい声。
今、優しくされるべきは凜のはずなのに、いつだってこんなふうになってしまう。それを、陽鞠は変えたかった。
陽鞠は大きく息を吸い、嗚咽を飲み込む。溢れかけた涙を拭い、腹に力を入れて止める。それから、なんでもないように顔を上げた。
「大丈夫だから、続けて」
陽鞠の様子を気にしながらも、凜は言葉を続ける。
「それで、もし陽鞠にも怖がられたらと思ったら、少し不安になってしまいました」
「どうして。今まで怖がったことなんてないでしょう」
「根拠のない不安なのは分かっています。ですが、今までは陽鞠を守るために剣を振るっていました。今回は違います。本当は陽鞠も怖しいのを隠していただけではないかと」
息をついた凜を、陽鞠は無言で見る。
陽鞠自身にとっては簡単に否定してしまえる話だった。
しかし、言葉で否定したところで、凜の不安は拭えないだろう。凜自身、それを求めて話したわけではないのだろう。
それでも、陽鞠は凜の不安を取り除きたかった。
せっかく弱さを曝け出してくれた凜に、陽鞠も何か応えたかった。
陽鞠は拳一つ分だけ空いていた凜との距離を詰める。膝が触れ合う。
「話を聞いてくださり、ありがとうございます。つまらないことなので、お忘れください」
言うだけで満足したのか、凜が少し気の抜けた笑みを浮かべた。
陽鞠は足指を立てて跪坐になる。
「さあ、もう寝ましょ…」
言いかけた凜の唇を、陽鞠の唇が塞いだ。




