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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
108/115

二十八

 どことも知れぬ真っ白な世界に凜はいた。

 夢だということはすぐに分かった。

 世界に彩がないのは、自分の心に彩がないからだろうと思う。


 凜は夢をみた記憶がほとんどない。

 夢をみないのか、みても忘れてしまうのかは分からない。

 この夢の記憶もすぐに失われるのだろうか。

 いつの間にか、目の前にいる娘を見ながら、それは少し残念だと凜は思った。


「やあ。凜」

「ええ。由羅」


 無邪気な笑みを見せる由羅に、凜は応える。

 由羅だと認識できるのに、顔かたちは判然としなかった。

 判然としないのに、どんな表情をしているのかは見分けることができた。

 何となく、十五歳くらいの姿な気がするのは、それ以降の由羅とまともに向き合った記憶が凜にないからかもしれない。


 かつて友だと思えた人。

 手にかけてしまった人。


 それを都合よく夢に出す自分の勝手さに、凜は呆れる。


「元気だった、て聞くのもおかしいかな」

「まあ、それなりには」

「少し痩せた?」

「体の管理は怠っていません。変わりはないでしょう」

「相変わらず真面目だなぁ」


 ころころと嬉しそうに由羅が笑う。

 彼女が凜にこんな笑みを見せてくれることはもうない。


「また、人を斬ったんだね」


 笑みを絶やさないまま、由羅が言う。

 これは、自分の中の罪悪感が言わせているのだろうかと凜は考える。


「ええ」

「後悔している?」

「斬ったことそのものを後悔などしません。いつだって私にはそれしかなかった」


 凜には、それしかなかったのだ。

 それが正しくはないと分かっていても、それ以外の選択肢を持ち合わせていなかった。


「私も?」

「そう、ですね…」


 あの時、由羅を斬る以外の選択肢はあっただろうか。

 由羅が避けもせずに凜の剣を受けたのは、あそこを死地と定めていたからだ。

 それを覆す方法が、凜の手にあったのか。取っ組み合いの喧嘩でもして気が晴れたら、和解してくれたとでも言うのか。

 そんな不確実な手段で、陽鞠を危険に晒すことはできなかった。


「後悔はありません。ただ、なぜ私に斬らせたのだという想いはあります」


 それは由羅に限った話ではない。


 陽鞠を危険に晒したりしなければ。

 陽鞠を救ける邪魔にならなければ。

 自分の命を狙ってこなければ。

 渚を、娘を弄ぼうとしなければ。


 殺す必要などなかった。

 斬っておいて、そんな理不尽な怒りが確かに凜の中にもあったのだ。


「本当は斬る理由を探しているんじゃないの」

「まさか。人など斬っても何も面白くありません」

「本当に? 好き勝手する奴らを黙らせるのは愉しくなかった。自分が強いと勘違いしている奴に腕の差を見せつけるのは」


 斬ることそのものに悦はなくとも、それによって得られる結果にも悦は生じうる。

 むしろ、人斬りであっても純粋に斬ることに悦を感じるものの方が少ないだろう。


「あなたがそれを言うのですか。私の剣が凡人の域を出ないことを刻み込んだあなたが」


 自分を強いと思えない戦いは、いつでも緊張を強いられる。

 天才の持つ確信が凜にはなかった。

 どんなに腕の差があっても真剣の立ち合いに絶対はない。勝つことで得られるものは安堵と後味の悪さだけだ。


「うーん。実戦を重ねた凜にはもう勝てなかったと思うけどなぁ」


 この言葉も自分の認識から出た言葉なのだろうかと凜は考える。あるいは、由羅が言いそうな言葉なだけなのか。

 前者なのだとしたら、冷徹に彼我の実力を計る凜の中の剣士の部分がそう認識しているのか。


「私が勝てなかった長にも勝ったわけだし」

「あれは別に私の腕が勝ったわけではありません」


 完璧に二人の技と気が噛み合った結果、偶然に華陽の剣が折れただけだ。

 お互いに自らの死を希求しての立ち合いに、技の優劣などありようもない。

 華陽が抜き打ちを使わなければ、凜に勝ちの目などなかった。


「ふぅん。ま、それを後から言ってもね。生き残ったのは凜なわけだし」

「…」

「なに。それが納得いかないの」


 どこかで負けるはずの勝負に勝ち続けていることが、納得いかないのだろうか。

 それは、守り手を決める立ち合いで由羅に勝った時からずっとそうだった。

 由羅。新式銃。神祇府の刺客。重里。華陽。そして最上。凜の腕で、その全てに勝ち続けられる道理などない。

 不条理が凜を勝たせ続けた。


 きっと、天が与える罰など、この世にはないのだろうと最近の凛は思っている。

 人を斬った因果が巡って凶刃に倒れることはあるかもしれない。しかし、それは人の世の営みでしかなく、天や神の采配ではない。


 悪事をなして豊かに老いる者もいれば、無垢な子供が無惨な最後を遂げることもある。

 そもそも、陽鞠からしてこんな不条理な目に合わなければいけない理由がどこにあるというのか。

 これが天の采配だというなら、それは平等でも公平でもない存在なのだろう。もし剣の届く相手なら、真っ先に凜は斬っていたかもしれない。


「凜はさ。幸せになるのが怖いの?」


 そうなのかもしれない、と凜は思う。

 世の不条理に怒りを感じるのに、その不条理こそが凜を生かしている。

 不条理に怒るなら、自分が生きていることも許してはならないのではないか。


 陽鞠に幸せになってほしい。しかし、いつの間にか、陽鞠といることで凜が幸せを感じるようになっていた。

 不条理に積み上げた屍の上に、穏やかな幸福を築こうとしている。それが凜には受け入れ難いのかもしれない。

 誰かに断罪してほしいというほど罪の意識は強くないが、開き直るには気持ちが悪い。そんな中途半端さが、凜の中には蟠っていた。


「由羅。あなたは幸せでしたか」


 好き勝手に自由に生きているように見えた由羅は、その実、凜よりも行き詰まっていた。

 由羅はあの結末を本当に受け入れていたのだろうか。今となっては分かるはずもなかった。


「幸せだったよ。望んだものが全て手に入ったわけじゃないけど、私の選んだ結末には辿り着けたから」


 それは果たして幸せと言えるのだろうか。

 しかし、由羅を選ばなかった凜に、否定することはできなかった。

 夢だからといって、安易に否定してはならないことだと凜は思った。


「凜は? あの子と一緒にいて幸せ?」

「…そうですね。多分そうなのだと思います」


 最初は、自分を求めてくれたことが嬉しかったから、陽鞠に尽くそうと思っていた。

 見返りは、守り手という彼女のくれた、本来凜のものではなかった務めを成し遂げられることで十分だった。

 それがいつの間にか、陽鞠が自分の隣で微笑んでくれることを求めるようになっていた。


「幸せになってよ。そうじゃないなら、選んでもらえなかった私が馬鹿みたいじゃない」

「あなたのために幸せであれと」

「そうだよ。私のために幸せでいてよ」


 そういう背負い方でもいいのか、と凜は思う。

 まるで言い訳だが、由羅のためと考えるなら少しだけ肩が軽くなる気がした。

 こうやって人は気持ちを分かち合っていくのか。本物の由羅とももっと分かち合えるものがあったのだろうか。

 相手に押し付けるのではなく、一緒に抱えて歩いていくために。


「…そろそろかな」


 ふと、由羅が耳を澄ますように顔を上げた。


「あの子が凜を呼んでいるみたい」

「…行くのですか」


 由羅の去る気配を感じて、思わず凜は問いただす。


「うん。じゃあ、元気でね」


 あっさりとした言葉とともに、由羅の気配が薄らいでいく。

 凜は声をかけるか迷い、一度言葉を飲み込む。ここで何かを言ってしまうことは、本物の由羅に言えなかったことの代替行為でしかないのではないか。

 しかし、それでも凜は意を決して口を開いた。


「由羅。あなたは私が作り出した幻なのでしょう。それでも、もう一度話せて嬉しかった」


 由羅が泣きそうな顔でくしゃりと笑みを作る。

 何故か、それだけは凜にもはっきりと見えた。


「ひどい奴だ。凜は」

「ええ、本当にひどい奴です」


 薄れゆく世界が、目覚めの近いことを凜に教える。

 由羅が小さく手を振った気がした。

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