二十七
凜が唇を離すと、上気した顔で呆っと見つめてくる陽鞠の顔が目の前にあった。
薄く開いた唇が、濡れて艶めいている。
陽鞠は触れていた唇の感触を確かめるように指先で唇を撫で、どこか物足りなそうに舌先で下唇を舐めた。
一瞬だけ見えた小さな薄桃色の塊が、凜には見てはならないものに思えてしまった。
湧き上がる腹の奥が熱くなるようなおかしな衝動を誤魔化すように、凜は立ち上がった。
「…済みません。陽鞠は先に部屋に戻っていてください」
陽鞠から目を逸らして言った、その言葉に返事はなかった。
立ち上がった陽鞠は、体をぶつけるように凜を押してくる。
もちろん陽鞠の小さな体でいくら押されようが、凜は微動だにしないでいることはできた。しかし、凜に陽鞠に逆らうという選択肢はなかった。
凜を押し込むように風呂場に入れた後、陽鞠は自分も中に入ってから戸を閉める。
「陽鞠?」
意図が分からず首を傾げる凜を、まだ少し上気した顔のままで陽鞠は上目遣いに睨みつけるように見る。
長く、熱のこもった息を吐き出した陽鞠は、俯きがちに凜の目の前で腰帯を解き始めた。
するすると帯が解ける衣擦れの音が、いやに凜の耳についた。
綺麗に畳んだ帯を籠に入れた陽鞠は、そのまま着物に手をかけたところで凜を横目に見る。
「凜も早く脱いで。風邪をひいてしまうわ」
「…はい」
陽鞠の意図は分からないが、何もおかしなことではないと変に意識している自分を凜は叱咤する。
なるべく陽鞠の方を見ないように自分も着物を脱ぐ。戦いの邪魔にならないように、至る所を締めた凜の装束は脱ぐのに一苦労で、陽鞠のことは気にならなくなった。
すべて脱ぎ終えたところで、いつの間にか陽鞠がじっと自分を見ていることに凜は気がついた。
先に裸になった陽鞠は、寒さを堪えるように、あるいは裸を隠すように自分の体を抱きながら、目だけが熱をもって凜を見ている。
「あの、陽鞠。流石にそんなに見られると恥ずかしいのですが」
言ってから、凜は自分の言葉に疑問をもった。
果たして、他人に裸を見られて恥ずかしいなどと思ったことがあっただろうかと。
それほど多くはないが、巫女の頃の陽鞠と同じ風呂に入ったことも何度かある。その頃は気にもならなかったはずだった。
少しだけ、あれほど裸になるのを恥ずかしがった陽鞠の気持ちが凛にも理解できた気がした。
「凜、綺麗…」
思わず、といった様子で陽鞠が漏らす。
凜は苦笑いを浮かべた。
「こんな傷だらけの体、醜いだけでしょう」
凜の体にはこの二年で負った傷痕が、数多く残っている。
刀傷。銃痕。火傷。女としてはとても見られたものではないだろうと凜は思った。凜自身にそのつもりはないが、閨で男が見たら裸で逃げ出すのではないかと考える。
首を横に振った陽鞠が、傷痕の一つを指で触れる。
王国の工作員に撃たれた脇腹の銃痕だった。貫通創というより、引き裂かれた撕裂傷に近い。陽鞠の指先が、触れるか触れないかの微妙さで傷痕をなぞる。
くすぐったさと、それ以外の得体の知れない感覚で、凜は微かに息を漏らした。
「私のせいで負った傷を醜いなんて思うはずがないでしょう」
「私の未熟で負った傷です。陽鞠のせいではありません」
その言葉に陽鞠は何か言いかけるが、少しだけ悲しげな笑みを浮かべて口を閉ざした。
「陽鞠?」
「ううん。何でもない。早く洗って温まりましょう」
漠然とした不安を感じた凜の疑問には応えず、陽鞠は凜の腕を引いて脱衣所を下り、板張りの床に座らせる。
凜が何かを言う暇も与えず、陽鞠は凜の髪紐を解いて、髪を梳りはじめた。
手入れが雑なわりに、癖がなく艶やかな黒髪を丁寧に梳かし、お湯で濡らした手巾で血と汚れを拭いとる。
凜が黙ってされるがままにしていると、陽鞠はそのまま凜の体も洗い始める。
凜は心を無にして、考えることをやめた。陽鞠の手の感触を意識することも、何かを問うことも、薄氷を踏み砕くような行為に思えた。
丁寧に、しかし手早く体を拭くさして長くもない間に、陽鞠は不必要に自分の体を凜に触れさせていた。
そのうちの何度かは、首筋や肩に唇をつけていたのを凜は感じていたが、目を細めて見ないふりをした。
実際にかかった時間はそれほど長くもなかっただろう。しかし、奇妙な緊張感から、陽鞠が手を止めたとき、凜は思わず息をついた。
だから、心の隙をつくように微かに唇が触れるくらいに耳元で囁かれて、凜は体を跳ねさせる。
「先に入っていて」
なんてことない言葉は、しかし甘く頭の内側から響くようで背筋が粟立つ。
それから逃れるように腰を上げた凜は、陽鞠から手渡された髪紐で髪をまとめてから湯船に向かい、体を沈めた。
少し熱すぎるくらいのお湯が、冷え切った体を芯から温め、強張りを解す。
息をついて少しだけ緊張の解けた凜は、横目で陽鞠の方を見た。
陽鞠は湯船に対して横を向いて自分の体を拭いている。
どこか気のせいているのを抑えるように手早く、しかし指先まで丁寧に洗う。
見ていることに罪悪感に近いものを感じながら、凛は目が離せなかった。
細い首から鎖骨への美しい線。淡い胸の膨らみ。背中から腰への嫋やかな曲線。それらに目が吸い寄せられてしまう。
見慣れているはずの陽鞠の生まれたままの姿が、まったく別の意味をもって凜の目の前にあった。
自分が唾を飲み込んだ音で、凜は我に返った。
陽鞠は何か納得がいかないかのように、体を洗い続けている。
「陽鞠。冷えてしまうから、もう入ってください」
凜の言葉に、まだ少し未練がある素振りを見せながらも手を止めた陽鞠は、体を洗い流して湯船に近づく。
近づきながら髪を布でまとめる仕草に、脇やうなじが目の中に飛び込んできて、凜は反射的に目を逸らした。
陽鞠の白く細い足が、ゆっくりと湯船に入ってくる。熱いから慣れさせているだけだと分かっているのに、見せつけられているように感じてしまった自分を凜は恥いる。
浴槽は深さはあるが、幅は足を伸ばせるほどはない。以前のように足の間に入るのだろうと腰を浮かしかけた凜の体を、陽鞠の足は跨いだ。
そのまま腰を下ろすと、正面から凜が抱き抱える形で陽鞠の体が収まった。
裸で密着する陽鞠の肌の滑らかさや、心地よさに凜が意識を奪われていると、上に乗っている分、少し高いところにある陽鞠の顔が近づいてきた。
疑問に思う間もなく、唇が重ねられる。
触れるだけの口づけは、すぐに離れていく。
「これで三回づつだから…」
「何の話ですか」
理解できずに首を傾げる凜に、陽鞠は不満を表すように頬を膨らませた。
「凜。今日だけで、三回も私にしたのよ」
「? …あ、ああ。なるほど」
「私はとても勇気を出して二回しかできなかったのに…」
愛らしい陽鞠の物言いに、思わず凜は吹き出してしまう。
よく分からない緊張感が解けるが、それが余計に腕の中の陽鞠の感触を生々しくさせた。
「笑うなんて…」
「陽鞠を馬鹿にして笑ったわけではありませんよ」
「凜は簡単にこういうことができてしまう人なの」
「まさか」
陽鞠が顔を凜の首筋に埋めて、体を預けてくる。
完全に密着する体。自分の胸を陽鞠の胸が押しつぶす感触に、凜は同じ女なのだということを意識させられる。
同じ女の体に邪な感情を抱きかけている自分は異常なのだろうかと凜は考える。
しかし、それなら同じように自分を求めているように見える陽鞠も異常だということになってしまう。
他者からどう思われようともかまわないが、陽鞠が異常者だと考えるのは愉快ではなかった。
「それなら、どうしてしてくれたの」
「こう言うと、勝手と思われるかもしれんが…」
「なに?」
「陽鞠があまりにも愛らしくて、気づいたらしていたとしか」
「私のせいってこと?」
「いえ…いえ、そうかもしれません。陽鞠のせいです」
急速に変わる自分についていけないことを陽鞠のせいにしてみる。
自分の行いを他人の責任にすることが凜には理解できない。そんなことをしても自分が行ったことは無くならないし、逃げることもできない。
しかし、こうして陽鞠に責任をなすりつけてみると、それは思ったよりもしっくりときた。
そうだ。陽鞠が可愛すぎるのが悪い。
何も言わない陽鞠が、首筋に顔を埋めたまま微かに鼻を啜った。
「済みません。傷つけましたか」
「…違う。嬉しいの」
震える涙声は、確かに悲しげではなかった。
しかし、陽鞠の感情は複雑すぎて、凜には理解が追いつかなかった。
「凜は誰かのためとか、人のせいとか絶対に言わない。それはとても素敵なことだと思うけれど、私は少し寂しい」
「寂しい、ですか」
その言葉は思ったよりも凜には突き刺さった。
凜は陽鞠を寂しくさせないためだけに、足りぬ身で守り手になることを選んだのだ。それなのに、凜が寂しくさせてしまったのなら、誓いをまるで果たせていないことになる。
「誰のためでもないのなら、誰でもいいのかなって思ってしまうから。凜は優しいけれど、寂しい子なら誰にでも優しいだけなんじゃないかって」
「陽鞠。それは違います。私は陽鞠だから、何かをしてあげたいと思うのです」
言葉にして、凜は気がつく。
陽鞠という少女が寂しそうだったから、寄り添おうと思ったわけではない。寄り添いたいと思った陽鞠が寂しげだったから、それを埋めてあげたかった。
「でも、渚様も助けてあげたでしょう」
「それは、見捨てられなかっただけです。それが陽鞠を不安にさせたのでしたら、もう二度としません」
「ううん。そういうことを言っているのではないの」
陽鞠はゆっくりと首を横に振る。
「私は凜の特別でありたいけれど、それを押し付けたいわけではないの。ただ、私のことくらいは、凜が全部を背負わなくていいんだよって言いたいだけ」
分かったと言えば、陽鞠は安心してくれるのだろうかと凜は考える。
そして、それでは駄目なのだろうとすぐに気がつく。陽鞠は言葉を求めているわけではない。凜を変えたいわけでもない。
ただ先ほどのように、凜が自然と陽鞠のせいだと思えたことが嬉しいと言っているだけなのだ。
陽鞠はそれを、凜にとって随分と昔に感じられる、初めて人を斬ったあの嵐の夜から言っていた。
守り手として凜が人を斬るのは巫女が斬ったのと同じだという言葉を、陽鞠の覚悟だと凜は捉えていた。
しかし、そうではなく罪を分かち合いたいという意味だったのだろうか。
陽鞠の言葉が理解できそうで、掴みきれないもどかしさで凜は黙り込む。
「…ごめんなさい。疲れているのに、こんな話。湯冷めしないうちに今日は早く寝ましょう」
凜が沈黙したことを困らせたと思ったのか、話を打ち切ると陽鞠は腰を上げて湯船から出ていく。
それを残念だと思う気持ちが凜にはあった。
もう少し考えれば、答えに手が届きそうな気がしたのに話を打ち切られてしまったわずかな苛立ち。
そして、それよりも陽鞠の素肌にもっと触れていたい気持ちの方が大きかった。




