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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
106/115

二十六

 剣を扱うことを己が身となし、どれほど自然に振るえるようになったとしても、人を斬り殺すことには多大な気力を消耗する。

 重い足取りで雪の中を帰路につきながら、凜はむしろそのことに安堵していた。

 それすらも感じなくなった時、最上と同じただの人斬りになるのだと思った。


 他人から見ればどちらも変わらないとしても、凜の中でそれは明確に引くべき一線だった。

 それが失われた時、陽鞠とともにいることはできないと考えるから。


 陽鞠を奪われていた時の凜は、半ばその境界を踏み越えていた。

 あの時の凜は、自分の命も他人の命も、ひどく軽いものに見えていた。

 人を斬れてしまう人間というのは、誰しも人斬りの化生を心に飼っているのだと凜は思う。

 もし江津で陽鞠と別れていれば、自分がそちらに寄っていただろうと今の凜なら分かった。陽鞠と陽の下を歩きたいから、暗いところに向かう自分の心をとどめておけるのだ。


 早く陽鞠のもとに帰りたい一心で歩き続けた凜は、やがて雪宗の家までたどり着いた。

 温石も捨ててしまったため、寒さに凍える指が戸に触れて、その動きが止まった。


 着物や体に浴びた返り血はこびりつき、体に積もる雪もその全てを覆い隠してはくれなかった。

 渚の怯え切った顔が凜の脳裏をよぎる。その顔が陽鞠と重なった。


 陽鞠に血塗れの姿を見られるなど今更だった。それで陽鞠が自分に怯えるなどと凜は思わない。

 それでも尚、欠片ほどの可能性でも陽鞠に嫌われることが怖かった。

 その怖れが戸を開けることを躊躇わせた。


 その時間が長かったのか短かったのか、凜には分からない。

 動かない凜の足が雪に沈みかけた頃、戸が内側から静かに開いた。


 戸を開けた陽鞠が、雪の中に立ち尽くす凜を見て驚いた顔をする。

 その表情に、凜の心は冷やりとする。


 しかし、陽鞠の顔はすぐに嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべて、何の躊躇もなく凜に抱きついてきた。

 陽鞠の温かく柔らかな体に凍えた心を溶かされるようで、不覚にも凜は涙が込み上げた。

 

「お帰りなさい。怪我はない?」

「ええ。ありません」


 抱きしめ返そうとした凜は、上げかけた手にこびり付いた血が目に入り躊躇する。


「陽鞠、汚れますよ」

「そんなのどうでもいい。でも、早く入って。凍えてしまうわ」


 抱擁を解いた陽鞠が、凜の腕を引いて戸の中に引き入れる。

 陽鞠の着物を少し血で汚してしまっているのが目に入った。

 どうせ汚してしまうなら抱きしめればよかったと少し残念に思いながら、鍛冶場の中に入った凜は炉の前に腰を下ろした雪宗と目が合う。

 しかし、二人の目が合ったのは一瞬のことで、凜の様子を見た雪宗は苦しげに目を逸らした。


「終わったのか」

「ええ。渚様は…無事です」


 少しだけ凜が言い淀んだのは、渚の様子が無事といっていいものか躊躇したからだった。


「そうか…」


 雪宗の視線が床に落ちる。


「済まなかったな」

「私が勝手にやったことです」


 気まずい雰囲気の二人に構うことなく、陽鞠は凜の体に積もった雪を払い落としていた。


「陽鞠。よく私が戻ったと気づきましたね」


 まるで凜が入ることを躊躇っていることが分かっているかのように戸は開いた。


「何となく凜が戻ってきた気がして」


 はにかむ陽鞠が愛らしくて、やはり抱きしめておけばよかったと凜は思う。

 見つめる凜の目に気づいたのか、手を止めた陽鞠が顔を寄せてくる。


「嘘をつけ。今か今かと何度も確かめていただけだろう」


 冷や水のような雪宗の言葉に、陽鞠は凜から体を離して振り向いた。


「もうっ。何で言ってしまうのですか」


 気安い陽鞠の言いように、凜は微かに胸に靄を感じた。

 自分以外に陽鞠が明け透けな感情を見せるところを、今までほとんど見たことがなかった。

 陽鞠は他人に無関心だが、無関心であることすら他人に見せたりはしない。


 陽鞠の目を無理矢理にでも自分に向けさせたい衝動に駆られる。

 その衝動は、凜に渚を押し倒す槐を思い起こさせた。嫌悪感しかない記憶を自分と陽鞠に置き換えた時、確かにその欲望が自分にもあるのだと凜は気がついた。

 それは凜を自己嫌悪で死にたい気持ちにさせた。


「顔色が良くないぞ。さっさと休んでしまったらどうだ」


 ぶっきらぼうだが、凜を心配していることが分かる雪宗の言葉に、陽鞠が振り向いて顔に触れてくる。


「本当。お風呂を用意してあるから、あったまって今日は寝ましょう」

「そう、ですね」


 後ろ暗さから歯切れの悪くなった凜の言葉に、陽鞠は首を傾げる。


「追っ手が心配?」

「いえ、館には渚様と緒方くらいしか残っていません。ことが発覚するのは明日以降でしょう。それも、緒方が始末してくれると思います」

「そうなの」

「ですが、明日にはこの町を立ちましょう。雪次第ではありますが」

「そうね。そうしましょう」


 名残を惜しむかと思われた陽鞠は、あっさりと同意してくる。

 結局は、陽鞠がこの家の逗留にこだわっていた理由は凜には分からなかった。陽鞠なりの目的は果たしたのだろうと、深くは考えない。


「明日立つなら、刀を貸せ。朝までにあらためておいてやる」

「ありがたいですが、あなたは寝ないのですか」


 鞘ごと腰から抜いた刀を凛から受け取りながら、雪宗は鼻を鳴らす。


「何もないのだろうが、寝ずの番くらいはするさ。そのついでに見るだけだ」

「そうですか」


 頷いた凜の腕を、陽鞠が少し強引に引っ張る。

 抵抗せずに連れられる凜を見ずに、雪宗はすでに作業を始めていた。


 鍛冶場から土間に抜け、土間と繋がった風呂場に二人で向かう。

 望内は近年発展した町のため、風呂も浴槽式の新しいものだ。雪深い町では移動の必要な公衆浴場は流行らなかったため、家ごとに風呂場が備え付けられていることも多い。


 風呂場の戸の前で、革靴を脱ごうと凜は膝をつく。

 戦いの邪魔にならないように固く締めた靴紐を、悴んだ指では解くのに手間取る。

 その凜の指にそっと触れるものがあった。


 土間に両の膝をついた陽鞠が、手を重ねるように凜の指に触れていた。


「指、すごく冷たい」


 そう言う陽鞠の指は、熱いくらいに凜には感じられた。

 すぐそばに陽鞠のあどけなくも美しい顔があり、心臓が跳ねる。

 血の臭いがこびりついて離れなかった凜の鼻腔を、微かに甘い陽鞠の匂いがくすぐった。


 動きの止まった凜の手を靴紐から外し、陽鞠の指が靴紐を解こうとする。

 しかし、指が動かないとはいえ剣を持つ凜ですら手間取った固さだ。陽鞠の力では同じように、簡単には解けない。

 苦闘する陽鞠の横顔を、凜はじっと見つめる。陽鞠の顔をしっかりと見ることは、凜にもあまりない。

 不躾な行為であるし、剣を嗜むものは広い視野に相手を捉えることが癖になっていて、一点を見つめたりはしない。


 長いまつ毛が伏せた目にかかって憂いを帯びて、結っていない髪が垂れて細く白い首が覗く。

 全体的に小さく稚い顔のつくりだが、重ねた苦労の分だけ大人びても見える。

 いつもは柔らかな微笑みを浮かべる唇が、今は真っ直ぐに引き締まっていた。


 自分を見て、いつもの微笑みを向けてほしいと凜が思っていると、ぱっと顔を上げた陽鞠が顔を綻ばせた。


「凜、ほどけ…」


 小さな唇の感触がして、凜は自分が陽鞠に口づけをしていることに気がついた。

 まったく思考を介さずに行為に及んでいた。

 陽鞠の唇の硬さから驚きが伝わってくる。


 しかし、すぐに柔らかく受け入れた唇が、触れるだけだった口づけを、深く重ねられたものへと変える。

 靴紐を離した陽鞠の手が宙を彷徨い、躊躇いがちに凜の胸に添えられた。

 その手を上から重ねるように握り、凜は陽鞠の唇を味わう。軽く食むと食み返してくる唇は、やはり甘いような気がした。


 自分の唇が、血の味でなければいいと凜は思った。

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