二十五
聞くに耐えない槐の言葉を、扉の影で凜が黙って聞いていたのは、決定的なことが起きるまでは緒方を待っていたからだ。
結局のところ部外者でしかない凜は、凜にとって剣を振るうに値することが起きなければ静観するしかない。
しかし、それを凜は少し後悔していた。
こんな救いのない事実を渚のような娘が知る必要はなかった。
そして、これから起きることは更に彼女を傷つけることになる。それが凜には分かっていた。
さっさと斬ってしまえばよかった。
そう冷たい心で考えながら、静かに剣を抜く。
そして、衝立の向こうへ歩みを進める。
寝台の上で渚にのしかかり、今まさに帯を解かんとしている槐。
力なく横たわり、されるがままの渚。
どちらも足音をほとんど立てない凜には気がついていない。
渚の虚な目が、正体を失っていた頃の陽鞠と少しだけ重なり、凜の胸に痛みをもたらす。
それは痛みではあったが、斬ることに何の躊躇もなくさせる福音でもあった。
凜は己の行いを正しいなどとはまるで考えていなかった。
正しさを希求するなら、槐に止めるように呼びかけ、行いを正そうとするべきだろう。
あるいは捕らえて裁きの場に立たせるか。
それを放棄して剣に訴えている以上、暴力で物事を解決しようとしている槐と何も変わらない。
それを理解して尚、凜は己の正しさに何の興味もなかった。正しさでは救えないものがあることもまた知っているから。
槐を裁きにかけたとして、二度と渚の前に現れない保証などない。そうでなくても、裁きにかけるというということは、この場であったことを公に詳らかにするということだ。
それは渚を長く苛むものになるだろう。
凜は声を掛けたりはしなかった。
大仰に剣を振りかぶることもない。
八双まで自然に上がった剣先は、自重をもって滑らかに、無慈悲に落ちる。
力の方向と刃筋が完全に一致した一太刀は、鉄をも断つ。
槐の脛骨の間に入った刃は、音もなく首の半ば以上を切断した。
おそらく槐は、自分が死んだということにすら気が付かなかっただろう。
僅かな皮と肉で繋がったままの首から血を溢れさせながら、槐の体はのしかかるように渚の上にぐらりと倒れた。
溢れた血に塗れ、半ば以上首の落ちた死体を受け止める格好となった渚の目が動いた。
自分の上の死体を経由して、返り血に汚れ、血刀を提げた凜を捉え、もう一度死体に戻る。
その目に、微かな感情が戻った。
それは恐怖だった。
「いやぁぁぁっ」
つんざくような悲鳴を上げながら、渚は死体を押し除けて後ずさる。
押し除けられた拍子に首が千切れて、寝台の上から転がり落ちた。
それを目で追ってしまった渚は、絨毯に転がる槐の首と目が合ってしまい、恐慌状態になる。
「来ないでっ。こないでぇっ」
子どものように膝と頭を抱えて丸くなり、叫び声を上げる渚から、凜は小さく息をついて一歩離れた。
袖口で顔についた血を拭い、それから刀についた血も同じように拭い取ってから鞘に納める。
「渚様っ」
そのまま凜が踵を返したところで、緒方が衝立の向こうから姿を現す。
そして、惨状を前に口を押さえて一歩退いた。
緒方が退いたのは一瞬のことで、凜の脇を抜けると血に汚れることも厭わず、渚に駆け寄った。
最早、叫ぶこともなく小さく「来ないで」と言い続ける渚に、緒方は触れていいものか逡巡をみせる。しかし、意を決したように渚の肩に触れると、抵抗がないことに安堵しながら優しく抱きしめた。
「おにいさま、たすけて。おにいさま」
幼い頃の呼び方で幼子のように縋る渚の背を、緒方はあやすように撫でる。
「大丈夫。渚。もう怖いことは終わったよ」
優しく語りかける緒方を横目に、凜は今度こそ踵を返す。
そのまま立ち去ろうとした凜を、緒方の声が呼び止めた。
「…お待ちください」
緒方の声に、凜は足を止めたが振り向きはしなかった。首だけを回して、緒方の方に視線を向ける。
緒方の声には抑えてはいても責める気配が感じられた。
「何も渚様の目の前でこのような無体をなさらなくてもよかったのではないですか」
その言葉を凜は理不尽だとは思わなかった。
凜自身ですらそれを自覚して行ったのだから。
「それでは最も確実に殺せる機を逃すことになる」
しかし、凜から出たのは冷たい剣士としての言葉だけだった。
槐を渚から引き離し、見えないところで斬る。なるほど、凛ならばできなくはなかっただろう。
しかしそれは、渚と凜自身に不要な危険を招くことになる。それがどれだけ小さな可能性の芽でも、凜には冒す気にはなれなかった。
もともと、凜は自信家ではない。
華陽や由羅といった天才を見てきたため、過剰に自分を低く見積もる傾向がある。
その上、陽鞠を一度奪われた経験から、自分の能力を欠片も信じていなかった。
凜は陽鞠に必ず戻ると約束したのだ。
ただでさえ陽鞠と関わり合いのないことに剣を振るっているのに、それ以上の危険など冒せるはずがなかった。
ほとんど凜を見ていなかった緒方は、そこで始めて凜の姿を直視した。
背が高いとはいえ、ほっそりとした渚とさして変わらぬ年頃の娘が、返り血に塗れた凄惨な姿。
渚がこの惨状を見てしまうことを否定し、凜がこの惨状にあることを肯定することの理不尽にようやく気がつく。
「…申し訳ありません」
緒方は恥いるように頭を下げた。
自分が手も足も出なかった最上を一蹴し、渚の窮地を救った凜を絶対的な強者だと先入観を持ってしまっていた。
そんなはずがなかった。
ここにいるのは、絵物語の女剣士でもなければ伝説の中の守り手でもない。どれほどその道行が凄まじかろうとも、ただの一人の娘にしかすぎないのだから。
「頭を下げる必要はない。私の及ばなさを語っただけだ。貴様の言は正しい」
できないというのは事実でしかなく、言い訳にならないと凜は思っていた。
陽鞠の窮地であったなら、できないなどとはいっていられない。なすべき時になすべきことをなせない罪を、凜は誰よりも知っている。
「それより、後始末を頼むぞ。これ以上の面倒ごとは御免だからな」
「心得ております。貴女方には類の及ばないように手配します」
緒方の言葉に頷き、今度こそ凜は視線を切った。
その直前に、己が生み出した惨状が目に焼き付く。
首のない死体。怯える娘。むせかえるような血の臭い。
どこへ行っても同じだと思う。
一度、血を流す道を選んだからには、どこまでもついて回る気がした。
この惨状を見て正しい行いの結果なのだというものがいたら、その正しさは狂っている。
だから、凜は責められることを受け入れこそすれ、称賛など誰にも求めない。
それでも一人立ち去る胸には寂寥に近いものを覚えざるをえなかった。




