二十四
※胸糞話。性的暴行を示唆する表現あり。苦手な人は読み飛ばし推奨。
衝立の向こうから姿を見せた槐に、渚は寝台の端に腰掛けたまま冷たい目を向けた。
この叔父のことが嫌いになったのが、いつ頃のことかと考える。
軍部で頭角を表し、父と揉めることが多くなってきた頃だろうか。
蛇蝎のごとく嫌う母が、この叔父とはけして席を共にしないと気がついた時だろうか。
そもそも、暴力の匂いを漂わせる軍人然とした男が生理的に受け付けないのかもしれない。
無言で睨みつける渚の目を涼しい顔で受け止めているが、それが本当の余裕からでないことは分かっている。
たんに大物ぶりたいだけなのだ。
「大人しくしていたようだな」
大きな体で近くに立たれると、本能的に体が萎縮する。
それを跳ね返すように、渚は口を開いた。
「こんなことをして。一体何のおつもりですか」
「夫に対して口の利き方がなっていないな」
槐の言っていることが理解できず、渚は眉を顰めた。
「何を世迷いごとを。気でも狂ったのですか」
手の届く距離まで近づかれ、渚は身の危険を感じる。それは命の危険とは別の、ある意味でそれ以上の危険に思えた。
やはり、刀は手に入れておくべきだったと渚は後悔した。
震えそうになる体を意志の力で押さえ込むが、血の気の引いた顔色までは隠せていないと分かっていた。
伸ばされた槐の指が艶やかな髪に触れ、渚は総毛立つのを感じた。吐き気すらも込み上げてくる。
精一杯の虚勢で、渚は軽蔑の目を槐に向けた。
「…その目だ。あの女と同じ、俺を馬鹿にする目」
槐は憎々しげな言葉とともに触れていた渚の髪を掴む。
痛みに思わず抵抗しそうになるが、それが余計に槐の激情に火をつけそうで渚は堪えた。
「大きな声を出しますよ。隣には母がいることをお忘れですか」
「あの女か。果たして今のあの女にお前の声は届くかな」
咄嗟に渚は何も言い返せなかった。
夢の中にいるような今の母に自分の声が届くかは、渚自身にも疑問だった。
「それに、あの女は俺には逆らえんよ」
その言葉の意味を問いただすよりも早く、槐に髪を引っ張られて寝台に押し倒される。
「やめてっ」
渚は両手で押し除けようとするが、腕力も体格もまるで違う男の体は小揺るぎもしない。
体を跨られて、恐怖のあまりうまく動けなくなる。
「こんなことをしても貴方の妻になどなりません。訴えられて罪になるだけですよ」
震えそうになる声で、何とか理性に訴えかけようとするも、槐はその足掻きを楽しそうに笑った。
「叔父に乱暴されて貞淑を失ったと自ら広めるのか? 果たして、どちらの傷が大きいかな」
そのせせら笑いを渚は否定できなかった。
「乱暴してしまったから、責任をとって嫁にした」などという話が、地方ではまだ男の武勲談として通じるのだ。
例外はあっても女の地位はそれくらいに低い。血縁関係を広げる道具でしかない良家の娘にとって、傷物にされたというのは、その価値が地に落ちることを意味する。
「辱めを受けるくらいなら、舌を噛んで死にます」
「威勢がいいな。だが、その覚悟がある者は黙ってやるものだ。第一、俺はお前が自死する分にはさして困らん」
面白そうに答える槐は、余裕からか渚との会話を楽しんでいるようだった。
「流石にお前まで殺してしまうと大公の介入を招くからな。だが、自死ならば父の死を儚んで、ということにしてしまえばいい。手に入れられないことは残念に思うがな」
「私、まで…?」
「驚くことはないだろう。お前が疑っていた通りだ。兄は俺が殺した」
「この、外道っ」
渚が振り回した手は、しかし簡単に槐に掴まれてしまう。
「あのお人好しめ。俺に殺されるとまでは思っていなかったらしい。毒を飲まされてまだ信じられないという顔をしていた」
「何ということを…」
青ざめた顔で渚は言葉をなくす。
疑っていたとはいえ、こうして目の前に人を殺した事実を突きつけられてみれば、やはりこの男が恐ろしかった。
「少し早く生まれたというだけで、何もかも俺から奪っていったあいつが悪いのだよ。地位も、女もな」
強い執着を感じさせる目で自分を見る槐に、渚は背筋が粟立つ。
その目が自分を通して母を見ていることに、ようやく気づいた。
しかし、この男が母を愛していると思わない。大公の血筋である母を手に入れることが、この男にとって成功の象徴だったのだろう。
「父の仇…必ず殺してやる」
「その仇の妻となり、子を孕まされるのだよ」
「そんなこと許されるはずがない。伯母様に訴えればお前などっ」
「明日の朝になっても同じことが言えるか、試してみるといい。女など手篭めにしてしまえば大人しくなるものだからな」
悍ましい言葉に逸らそうとする渚の顔を、首を絞めるように槐は押さえ込んだ。
「現に、お前の母はひと言も外に漏らさなかったぞ」
「…な、に」
渚の頭は、言われたことを理解することを拒んだ。
しかし、そんなことはお構いなしに槐は言葉を続ける。
「お前、おかしいとは思わなかったのか。何故、あいつの死は何日も発覚せず、穢れを生むことになったのか」
それは渚が無意識に考えまいとしていたことだった。
それを突き詰めれば、考えたくない疑念を持つことが分かっていたから。
「書斎に篭りがちなあいつに食事を届けていたのは誰だ」
それは渚の母、雪子だった。
書類の決裁が滞り、緒方が水縹のもとを訪れて死が発覚するまで、雪子が気が付かないはずがなかった。
「殺した後にあの女に見られてしまってな。だか、お前に俺との関係を話すと言ったら、黙っていてくれたぞ」
「そんなの出鱈目です…」
渚の声は弱々しく、力が失われていた。
母がいつからああだったかと、今更のように渚は考える。
父の死を見てああなったのなら、それはいつのことだったのか。渚は父の死後、母が書斎を訪れたところを見たことがない。
槐の言うことが本当なら、母の心を壊したのは父の死そのものではなく、罪悪感だったのかもしれない。
「兄も俺たちの関係は知らなかったようだな。いや、どうかな。あの臆病者のことだから知っていて何も言えなかったのかもしれん」
槐が乱暴に帯紐を解くが、渚にはもう抵抗するだけの気力がなかった。
「ああ。時期を考えれば、そうだな。お前は俺の種かもしれないな」
渚は虚な目をして、何も聞いてはいなかった。
とめどなく涙は流れていたが、嗚咽を漏らすこともない。
自分の心が死にかけていることを、渚は他人事のように感じていた。
「あの女は最後まで抵抗していたぞ。お前ももう少し楽しませてくれ」
槐が身動き一つしなくなった渚の帯に手をかける。
その瞬間だった。
渚の眼前に赤い花が咲いた。




