二十三
事切れた最上に憮然とした一瞥を凜は投げかけた。
意図して末期の言葉を遮ったわけではない。そもそも剣の里の不文律として斬り合いの最中に言葉など交わさない。
しかし、凜の心の奥底に由羅や華陽の最後の言葉すら聞けなかったのに、こんな男の末期など聞きたくないという思いがあった。
凜は手向のように刀を放り投げて、最上から視線を外す。
床に転がる自分の鞘と刀を拾い、歪みがないか確認してから鞘に納める。
「片付いたぞ」
凜が声をかけると、緒方は僅かにその身を震わせた。
その顔が青白いのは、出血のためだけではなかった。おそらくは人が斬られるところを見たのが初めてなのだろうと、凜は感慨もなく受け止めた。
「だいぶ死に様が不満だったようだ。穢れを生むかもしれないから、なるべく早く火葬してくれ」
皮肉ともとれる言葉を真面目な口調で凜は漏らす。
こんな男の穢れを祓う手間を、陽鞠にかけさせたくはなかった。
言われた緒方も、神妙な顔で頷いた。
「…守り手とは恐ろしいものですね」
戦乱の時代は遠く、人々が守り手に抱く印象は巫女に仕える華やかな女剣士といった絵物語の存在だろう。
巫女を守ることを第一とする非情な戦士の側面など忘れられて久しい。
緒方とて、いまこの瞬間まで分かっていなかった。自分が頼んだことの意味を、返り血に塗れた凜を見て初めて理解できた。
自分の罪深さとともに、凜の恐ろしさをようやく痛感する。
「私は守り手ではないがな」
緒方の恐れを凜は感じていたが、それをおかしいとは思わない。
むしろ剣を取る時は意図的にそのように振る舞っている。口調を変えるのも、殺せる意識に切り替えるためだ。
かつて自分の甘さを痛感した凜は、そうではない自分を作り上げた。
それは陽鞠のことであれば非情になれる自分であったが、いまや境界は曖昧なものとなっている。
「駄弁っている時間はないだろう。急ぐぞ」
「…はい」
頷く言葉とは裏腹に、緒方は膝をついた。
深手で雪の中を往復し、初めて見た真剣の立ち合いが心身の気力を大きく奪っていた。
「…渚様の部屋は雪子様の部屋の隣です。二階から本館の渡り廊下を真っ直ぐ進めば着きます」
広いとはいえ、あくまでも個人の家としてはだ。
一度通ったところに出れば、迷うこともないだろう。
「貴女の足ならすぐに着くでしょう。私も後から追いつきます」
緒方は額に脂汗を滲ませながらも、膝に手をついて立ち上がる。
「私は私の判断でことをなすぞ」
「はい。お任せします」
ことが差し迫っていた時、緒方が追いついていなければ凜の判断で動くということだ。
凜との間に横たわる物言わぬ最上の骸が、緒方に圧迫感を与えていた。
冷たさを孕んだ凜の言葉に、しかし緒方は目を逸らさずに首肯した。
凜が緒方を黙って見たのは一瞬。
すぐに身を翻して、飛ぶように駆け出した。
最上が腰掛けていた階段を数歩で駆け上がり、二階で繋がる廊下を駆け抜ける。
館の中は薄暗いが、ところどころにランプが灯っており、凜にとっては十分な明るさだった。
渚と歩いた廊下を、凜は記憶を頼りに走る。
たどり着いた雪子の部屋の扉の前で、一瞬だけ彼女はどうしているのかと疑問を抱くが、考えるのは無駄と通り過ぎる。
雪子の部屋の隣は一つしかない。
こんな館には不似合いな、無骨な閂が取り付けられた扉。しかし、挿し木は外され、床に転がっている。
部屋の前で一度だけ息を整えると、凜は音を立てずに扉をゆっくりと開いた。
山祇様式の雪子の部屋とは異なり、王国風の木床に絨毯の敷かれた広い部屋。
衝立で遮られた向こう側から漏れる灯りだけでは、部屋は薄暗かった。
その衝立の向こうから、声が漏れ聞こえていた。
◇◇◇
渚が館の様子がおかしいことに気がついたのは、その日の朝、目覚めてすぐのことだった。
王国風の寝台を下りると、机の上に置かれた朝食と飲み水が目に留まり、首を傾げた。
渚は起きるのに人の手を借りたりはしないが、それでも着付けの手伝いなどで起きる前に待機している女中もいない。
襦袢のままで部屋の外に出ようとすると、扉が開かないことに気がつく。
扉に錠などない。
しかし、渚の力でいくら押しても引いても、扉はまったく動かなかった。扉の向こうで何かが引っかかっているようだった。
声を出すと、最上という衛士の声がして、槐の命令で今日は一日部屋にいるようにと伝えられた。
小用の時だけ部屋の外に出してもらえたが、扉には閂のようなものが取り付けられていた。
館の中は静まり返っていて、人の気配がしない。逃げ出そうにも外は大雪。そもそも逃げ出したところで、館を出るよりも早く最上という男に捕まるだろう。
雪子に助けを求めることも考えたが、夢の世界にいるような今の母に何を言っても無駄だと思い直す。
寝台の上で、何も手につかずに時間が過ぎるのだけを待つ。
渚には槐の意図が分からなかった。
こんなことをしても雪が止めば人が訪れてことが発覚して終わりだ。
父のように殺すつもりだろうかとも考える。
渚は父親を殺したのが槐だと信じて疑っていない。それくらいに、槐の野心は強く、水縹との関係は拗れていた。
しかし、この状況で渚が死ねば下手人が槐であることは明白だ。それは疑わしい、などというものではない。
市中で刀を求めたのも、身を守るためや、いざという時のためというのもあるが、槐に対する牽制の意味が強かった。
槐が渚に刀を売ることを禁止し、実際に渚が刀を求めに来たとなれば、両者の不仲は市中に広がることになる。
その状況で槐に監禁された渚が死ねば、疑いの目は槐に向く。第一、大公の姪である渚が不審死を遂げれば、さすがに大公も黙ってはいないだろう。
そんな判断がつかないとは、渚には思えなかった。その程度の周到さがない男であれば、水縹が頭を悩ますこともなかった。
刀を求めた時、雪宗に会いに行くかどうかは渚も悩んだ。
母から何かあったら頼るように言われた相手だった。どういう関係かまでは教えてくれなかったが、母には逐電した兄がいると聞いたことがあった。
水縹の死や天羽家に無関心な雪宗には失望したが、嬉しい出会いもあった。
その人は渚にとって、見たこともない人だった。
女でありながら剣を差し、若武者のような凛とした佇まいをもった人。それでありながら男と見間違えることはなく、女としての美しさも兼ね備えた人。
山祇で求められる女らしさとは別の有り様を、ごく自然ともった人だった。
母が憧れたという守り手の華陽も、こんな人だったのだろうかと思う。母が見間違えるほどなのだから、きっとそうなのだろう。
その隣に立つ陽鞠を羨ましいと思わなかったといったら嘘になる。だが、それよりもお伽話の姫君のような陽鞠の隣にある凜の姿に憧れた。
その姿に夢を見た。
自分がこうなれるとはけして思えない、しかしこうなれたらと思う存在。
もしかしたら、自分もこうなれていたかもしれないと夢を見ることで、心が慰められると思った。
だから、ずっとそばで見ていたかった。
しかし、きっとそばにはいてくれないだろうとも分かっていた。
自分の足でどこにでも行けてしまう人だからこそ、渚は憧れたのだから。
不安をそんな考えで紛らわせていると、時間は過ぎて窓の外が暗くなってきた。
寝台への視線を遮る衝立の向こうで、扉が開く音がして、渚は顔を上げた。




