二十二
二人が領主の館にたどり着いたのは、すでに時は夕暮れだった。
吹雪に近い天候の中では、闇夜と変わらない。
館の窓から漏れる灯りを頼りに庭を進む。
施錠されているという玄関口からではなく、夜会などが行われる広間の入口から侵入した。
扉を開けると、吹き抜けのホールに設けられた螺旋状の階段に最上が腰を下ろしていた。
ランプの灯りが朧げに照らし出す顔が、凜の姿を見咎めて深い笑みの影を映す。
脇に立て掛けていた刀を手に取り、ゆっくりと腰を上げる。
背後で緒方が扉を閉める音を聞きながら、凜は袖口の中でずっと握っていた温石おんじゃくを放り捨てた。
寒さで手が動かなくなっていないか確認しながら、最上と対峙する。
「やはり来たか」
「貴様の悪趣味な言付けに応じたわけではない」
まるで当然のことのように言う最上に反駁しながら、凜は雪の積もった蓑も脱ぎ捨てる。
「理由などなんでもいい。お前は来たのだからな。わざわざそいつを逃した甲斐があったというものだ」
最上の目が緒方の方に流れる。
最上ほどの使い手が、たった一人を仕損じて逃がすなどありえない。致命傷とならない肩口を突いたのも、手加減してのものだ。
とはいえ、緒方の傷は十分に深手だった。死んでも構わない、という賽を振るような成り行きに任せるやり方が凜には不快だった。
まるで最上が言った通り、ここで対峙するのが定めだと認めるようだった。
「貴様の忠誠心はどうなっているのだ」
「槐殿にか? そんなものはないさ」
つまらなそうに最上は吐き捨てた。
好物を目の前に、不味いものを先に口に入れられたというような顔だった。
「あんな俗物はどうでもいい。立ち合いのできる相手を連れてきてくれるから、付き合っているだけだ」
「立ち合い? 暗殺の間違いではないのか」
「何とでも言え。だが俺は背中から不意をついたことはない。命乞いをして逃げる背中なら斬ったことはあるがな」
面白いことでも言ったかのように笑う最上を、凜は鼻で笑った。
「だったら、貴様がいま背中を見せろ。私が
斬ってやる」
凜に正々堂々な立ち合いや卑怯などという考えはない。剣士の誇りも立ち合いの昂揚もない凜には、最上と分かち合うものがなかった。
「貴様が人斬りを好まなかろうが、剣を好まなかろうが構わん。貴様の存在自体が剣に生きるものを惹き寄せる」
「狂人が」
「お互いにな」
最上が刀を抜き、言葉とともに鞘を投げ捨てる。
ランプの灯りを反射する冷ややかな輝きは、鋼の硬質な証。反りの少ない二尺三寸の刀身は近代刀の特徴だ。
「…凜殿、私が何としても足を止めます。その隙に」
捨て身の覚悟を滲ませる緒方の言葉を無視して、凜は一歩前に出る。
「お前に死なれると迷惑だと言っただろう。手出し無用」
言い捨てて、凜の左手が腰の刀の鯉口を切る。
「くくっ。何十人と斬ってきたが、昂るほどの遣い手は五指にも満たん。貴様はどれほどだ。名高き剣士どもを天覧試合で蹴散らした守り手華陽ほどか。その華陽と競ったといわれる剣豪、東堂重里には及ぶか」
「よく喋る男だ」
二人の間合いは二間。
剣気の高まりとともに重心が沈んでいく。
「…渚様は無事か」
「さぁな。だが、ことに及ぶのは夜だと言っていた。おかしなことにこだわるものだが、そろそろ危ういかもな」
煽るような言葉とともに最上は構える。
やや切先の傾いた平正眼。
剣の里の正眼に似ているが、それよりも切先が下がっている。
突いてくることを隠す気もない。
突きは実戦において強力な技だ。
点の攻撃かつ最短で相手に届く突きは、躱しにくく対処しづらい。
長ものを振り回すより、短刀で突いてしまった方がよほど楽に人を殺せる。
一対一の実戦でいうなら、とりあえず突いていればまず勝てるだろう。しかし、同時に実戦で一対一という状況は少ない。
深く人の体を突いてしまえば、体は居着き抜くまでの間に他に斬られる。
だから、多対一を想定する剣の里では突きの技を重視していなかった。
さて、どうしたものかと凛は考える。
突きは外して引き手に合わせて懐に入るのが定石だった。
しかし、最上の剣気は微かに揺らいでいた。
初手は全力で突いてこない、と見えた。
躱したところを薙いでくるか、二段に突いてくるだろう。
ただ躱すならともかく、勝ちに繋げるのは難しい。
凜は静かに抜き打ちの構えをとる。
初段の突きを抜き打ちで払ってしまえば、そのまま懐に入れる。
しかし、外せばそのまま突かれる。
賭けになるが、銃弾を払ったり、重里の一刀に合わせるよりは易いだろう。重里の一刀が恐ろしいのは全霊の一太刀でありながら、次の全霊の一太刀に遅滞なく繋がることだった。
六割といったところか、と凜は思う。重里の時は成功は三割のつもりだったのだから気負うほどでもない。
ふと、陽鞠の顔が凜の脳裏をよぎった。
死んだら許さないと言った、少し泣きそうな顔が。
それで、投げやりというほどではないが、浮き足だっていることに気づいた。
銃弾を払った時や重里の時は、それしか勝ちや生きる目がなかったからそうしたのだ。
今はそうではなかった。
基本に立ち返る。
由羅ならば、本気ではない突きなど掻い潜って懐に飛び込むだろう。
華陽ならば、すべてを抜き打ちの一太刀で切り伏せるだろう。
自分がそんな天賦の剣の遣い手ではないことを凜は思い出す。
たまたま幸運を重ねて勝ってこれただけの凡人の剣が、達人にでもなったつもりかと己をいまわしめる。
最上は剣の技を競いたいのだろうが、凜の知ったことではなかった。自分で言ったことのはずが、いつの間にか最上に付き合おうとしていた。
醒めた心で、凜は僅かに間合いを詰めた。
突いてくる最上の気を察し、先をとって抜き打つ。
凜の抜き打ちが視認しにくいのは、まったくの自然体から放たれるからだ。
こんなお互いに気構えのできた立ち合いではさして意味はない。
それでも神速といえる抜刀に、最上は突きの手を止めて後ろに躱す。
抜くのが早すぎた、と最上が思ったのが凜には分かった。
しかし、抜き打った刀がそのまま凜の手をすっぽ抜ける。
切先から一直線に飛んでくる刀を、しかし後ろに下がる動きを見せた最上に躱しようはない。
ぎょっとした顔をしながらも、咄嗟に最上は刀で打ち払う。
しかし、その瞬間、最上の意識は完全にその動作と飛んでくる刀に集中していた。
狭まった最上の視界の中で、凛は大きな動きを見せなかった。
ただ、ごく自然な動作で抜き打ちを放っていた。
凜の腰にすでに刀はない。
しかし、鞘が残っている。
朴の木を漆で固めた鞘は木刀とさして変わらない。振るう人間によっては十分に凶器になる。
完全に最上の意識の外から振るわれた鞘が、刀を握る手の甲を打つ。
鞘割れを防ぐための金具で補強されたこじりが骨を砕く鈍い音を立てた。
鞘を手離しながら更に踏み込んだ凜が、柄頭を押し上げるように最上の手から刀を奪い取る。
身を低く、視界から消えながら奪った刀を最上の腹に当て、引き切りながら後ろに抜けた。
振り向きながら、凜は八相に構える。
膝をつき、腹圧で臓物がこぼれないように手で腹を押さえる最上が呆然と凜を見上げていた。
飛刀の技は表の型にこそないが、裏の手として剣の里には存在する。
骨を断てば刃こぼれし、肉を斬れば血と脂に塗れる。一本の刀で斬れる数などたかが知れている。
使い物にならなくなった刀なら、ただ捨てるよりは敵に投げつけた方がましという発想だった。
更には、剣の里の剣は巫女を守るためのものであって、戦いに勝つことを目的としたものではない。
勝つためであれば武器を手離すのは悪手となる可能性が高いが、武器を投げることそのものに危険は少ない。
究極的には最も重く嵩張る荷物である武器を投げ捨て、逃げ出すことも選択としてあり得るのだ。
それが、守り手の基本だった。
「…きさ」
凜は最上の末期の言葉を待ったりはしなかった。
何か言いかけた最上の首を、脇から跳ね上げた刃が深々と切り裂いていた。




