二十一
「行ってしまったな…」
凜と緒方が出ていった戸口を見ながら、どこか魂の抜けたような声を雪宗は漏らした。
一気に十歳も老け込んだかのようであった。
返ってこない答えに振り向くと、白い髪の娘は戸口のはるか先を見るかのような遠い目をしていた。
鍛冶場の隅に腰を下ろした娘はいかにも小さく、心細げに見える。
「眠らないのか」
「凜が戻ったら、すぐに出ないといけないかもしれませんから」
凜が槐を殺めることになれば、あるいは追われる立場になる可能性もある。そして、それはけして低いものではなかった。
「行かせて良かったのか」
「いいはずがありません。ですが、あの人のああいうところに救われた私がどうして止められましょうか」
凜に向けるのとはまるで違う、関心の感じられない声。
凜と話している時の陽鞠の声はもっと柔らかく、愛しさに溢れていた。
そんな女の声を雪宗は昔も聞いたことがある。
自分の巫女のことを語る時の華陽は、そんな声だった。華陽の声には、痛みも伴ってはいたが。
それは雪宗の胸にも切なさに似た痛みを思い起こさせる。
「巫女と守り手というのは、皆そういうものなのか」
余人の踏み込めない、二人だけの世界。
それが恋慕の情というべきものかはそれぞれによるのだろうが、他者を踏み込ませない関係性がそこにはある。
雪宗は凜音と陽鞠の二組の巫女と守り手しか知らないが、女同士になったことで、よりその関係性は純化されたものになったように感じる。
地位や立場を持たない女の守り手だからこそ、そこには守るものと信じるものの純粋な想いしかない。
「他の方のことなど知りません。私たちはただの巫女と守り手ではあれなかったわけですし」
それが巫女の立場を追われたことを言っているのか、陽鞠が凜に向ける感情のことを言っているのかは雪宗には分からない。
しかし、あるいは朝廷と関わる前の巫女と守り手はむしろこういうものだったのではないかと感じる。
「守り手というのは、それほど大切なものか」
少しだけ非難じみた物言いになったのは、巫女と守り手の絆に思うところがあったからかもしれない。
「守り手だから大切なのではありません。愛しているから大切なのです」
あまりにも直接的な陽鞠の言葉に、雪宗の方が怯んだ。
「随分とはっきり言うのだな」
「あんなところを見られて、隠しだてする意味はないでしょう」
陽鞠は自分の唇を指先で撫でて、その感触を思い出したかのように艶のあるため息を漏らす。
「女同士でおかしいと思いますか」
「俺にそんなことをいう資格はない。だが、衆道が珍しくないのだから、当たり前にあっておかしくないだろう」
雪宗の言葉は理にかなってはいるが、一般的ではない。山祇では男色が公然と行われる一方で、女同士の関係が当たり前とされることはなかった。
物事を平らな目でみる雪宗のありように、むしろ陽鞠は鼻白んだ。
「貴方のその偏見のなさや不器用さが、よく似ていて本当に嫌いです。いちいち面影を見せないでくれませんか」
理不尽ともいえる陽鞠の言いように、雪宗は眉を顰めた。それは、言われたことが不愉快だったからではない。
「いい気味だと思っているのか。お前の言う通り俺は今、自分を殺してやりたいほど悔やんでいる」
凜のこれまでの道程を知れば苦悩することになると言った陽鞠の言葉に通りに、雪宗は今までの生き方のすべてを否定された気分だった。
否定されることそのものは構わない。しかし、間違えたことで凜に重荷を背負わせることになったと考えるのはやり切れなかった。
自分が華陽のために刀を打たなければ、凜がこの場所を訪れることもなかった。
「俺の咎が俺に巡ってくるのは構わない。だが、何故だ。何故、あの娘が俺の咎まで背負わねばならないのだ」
陽鞠は静かに首を横に振った。
「その答えは私にはありません。私こそ、私を生かすための咎をすべて凜に背負ってもらってしまったのですから」
「死にたくはならないのか」
「なりますよ。何度も、何度も私が消えれば凜のためになるのかと考えました」
死ねばそれで凜が幸せになるなら躊躇いなどない。目の前の娘の目はそう語っていた。
それは悲壮な覚悟などではない。死を当たり前のものとして身近に置いていて、手に入るものの対価として当然に自分の命が選択肢の一つにあるものの目だった。
「ですが、私が消えたところで、それすら凛の傷にしかならない。ですから、凜を傷つけてしまった以上に幸せにするんです」
だから、この娘はあの娘を追いかけたのだろう。陽鞠から今日にいたる二人の話を聞いた雪宗は、そう理解した。
もちろん、陽鞠自身の望みもあるのだろうが、自分から離れることが凜の救いにはならないと思ったからこそ、ついていくことを選んだのだ。
「そのために。凜にもらったこの命のすべてを使うのです」
老人のような死への悟りと、娘のような恋慕への盲信のちぐはぐさに雪宗は危うさを感じる。
この娘は自分が正しいなどとは欠片も思ってはいない。だからこそ、その意思は変えようがない。
「…あの娘は傷ついているのか」
「剣を持つには優しすぎる人です。それなのに戦うものとして完璧な心構えができてしまった人。自分が人を殺めることに傷ついていることにすら鈍いのです」
生まれた時から守り手として作られた凜は生来の気質を塗りつぶされ、そして守り手としての死闘が戦うものとしての心構えを完成させてしまった。
「それならば、俺の罪は余計に重いな」
剣など手に取らず、娘らしい姿で穏やかに生きる凜を雪宗は夢想した。
美しく着飾り、争いなど知らない凜は、気は強くとも気立はよく聡明で、きっと評判の美人となり、縁談が山のように舞い込む娘であっただろう。
けしてありえない想像ではなかったはずだ。そうならなかった原因の多くを自分が担っていると雪宗は思った。
そんなことを言えば、余計なお世話だと言われることが分かっていたとしても。
「そうです。私も貴方も咎人です」
陽鞠が静かに瞑目した。
同じように自分と出会わなかった凜を想像しているのだろうかと、雪宗は埒もないことを考える。
考えながら、懐に忍ばせたものにそっと服の上から触れた。
◇◇◇
緒方は雪の中を凜の背中を追って必死に歩いていた。
血を流しすぎ、体温の奪われた体は思うように動かず、鉛のように重い。
それでも、出る前に裂かれた服の代わりを雪宗に借り、熱い汁物を食べさせられてだいぶましになっていた。
あのまま、雪宗と共に出ていたら、間違いなく途中で力尽きていただろう。
風も出てきて吹雪に近くなってきた雪の中を、凜の背中を見失わないように顔を上げ続ける。
女にしては背が高いとはいえ、後ろから見れば細く嫋やかな姿だった。
しかし、凜はまるで緒方の盾になるように、着実な足取りで前を進んでいく。そのことに羞恥を覚えるが、それこそが情けない考えなのだと思い直した。
ただ命を賭すことに思考が傾いていた緒方よりも、凜はよほど現実的だった。
どうすればこんな娘が出来上がるのだろうかと緒方は考える。思考を回すことで意識を保とうとする。
緒方は天羽家の分家の生まれだが、夜風大公に渚の世話と槐の内偵を命じられた身でもある。
そうであるが故に、凜たちを望内に案内したものから二人についての情報も得ていた。
二人が望内を訪れたあの日、天羽の館を訪ったのは書状の内容を知るためではない。それはすでに案内人から聞いていた。
知っているということを槐に釘をさすためと、本物の巫女と守り手を見定めたかったからだ。
実際に見た二人は、確かに美しい存在ではあったが、同時にただの娘でしかなかった。
何もかもを解決してくれるような神がかった存在ではなかった。
失望というほど、何かを期待していたわけではない。
しかし今、緒方の前を歩く娘に、全てがかかっていた。
いま何故、凜が自分の前を歩いているのかも、緒方にはよく分からなかった。
「凜殿」
風があるとはいえ、人のいない通りは静かだ。聞こえなかったということはなかっただろう。
しかし、緒方の呼びかけに凜は振り向くどころか、返事も返さなかった。
「何故、手助けしてくれるのですか」
聞こえていないならそれでも構わない。そういうつもりで緒方は言葉を続ける。
「…喋ると無駄に体力を使うぞ」
不機嫌そうなぞんざいな口調で、凜から言葉が返ってきた。
今までの丁寧な態度との落差に、よほど嫌われたのかと緒方は思う。
「お前に死なれると後の始末が面倒になる。黙って歩け」
「話していた方が気が紛れるのです。ご不快なら無視してください」
その言葉に従うように、凜は何も言わない。
「先ほどの続きですが、ただの親切で関わるにはことが大きすぎるように思います」
緒方が雪宗に頼んだことは、要するに槐の暗殺だ。渚を助けるにはそれしかなかった。
それを凜が理解していないとは思わない。むしろ、理解したからこそ介入してきたように見えた。
もちろん、緒方は自分が生き延びれば、凜たちに類が及ばないようにするつもりだ。
しかし、傷がもとで死ぬことも十分に考えられるし、そもそも確実に緒方が揉み消してくれるなど、凜は信じていないだろう。
守り手としての凜のこれまでを多少なりとも聞いていれば、権力側の言うことなど信じるはずがないことが分かる。
「陽鞠様を巻き込むかもしれないことを思えば、貴女がここまでしてくれる理由が分かりません。渚様とは何度か言葉を交わした程度でしょう」
疑問を吐き出した緒方は、息が切れてしばらく無言で歩を進める。
凜は振り向かない。
膝まで沈む雪にも乱れることのない足取りで歩き続ける。
緒方よりも目方はだいぶ軽いだろう。しかし、地に根でも生えているかのように、あるいは地に引かれる力が人より強いかのように体勢が揺るがない。
かといって重々しく、体が居着いているわけでもない。まるで体が浮いているかのように雪の中を苦もなく進んでいく。
渚のそば付きととして多少なりとも剣を遣う緒方には、凜の立つ地平の遠さに唸るしかなかった。
そして、娘の身でそこに至るまでの修練と死闘は想像にも及ばない。
「…理由など私にも分からない」
どれだけの沈黙の後だろうか。ぽつりと凜が漏らした。
「渚様は私たちを夢のかたちと言ってくれたのだ。鳥籠で生きることを諦めではなく、覚悟をもって決めた娘が」
独り言のように、前を向いたまま凜は言葉を紡ぐ。
「その娘の危難を見ぬふりをした私は、陽鞠に想われる価値のある私だろうか」
「それだけの理由で、剣を手に取れるのですか」
「危難の大きさなど知らぬ。我が力が及ぶかも知らぬ。そんなことを考えるなら、剣などとうに捨てている」
凜が陽鞠を生かすために朝廷にすら剣を向けていることを、今更のように緒方は実感する。
世の理には従わない危うい娘。
だが、そうであるが故に理を超えて人を助けることもできる。
守り手として巫女に選ばれるものの真髄。
緒方は凜にそれを見た気がした。




