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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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二十

 雪宗の家は母屋と鍛冶場が一体となった造りをしているが、外からの入り口は両方にある。

 母屋の玄関を訪ねてくるのは知り合いなどで、どちらかといえば鍛冶場の入り口の方が通りに面していた。


 鍛冶場の方から聞こえた戸を叩く音は、凜たちが着く頃には途絶えていた。

 戸を閉ざす雪宗の他に鍛冶場にいたのは、土間に膝をつく緒方だった。


 左肩を抑える緒方の手は、血で真っ赤に染まっていた。

 上着もかけずにこの雪の中を歩いてきた体は凍えている。

 寒さと出血でいつ意識を失ってもおかしくないくらいに蒼白な顔をしていた。


「そこの棚に薬箱があるから取ってくれ」


 火床の近くに緒方を運びながら、雪宗は静かな声を出す。

 どう見ても誰かに襲われたとしか思えない状況にも、取り乱すことがまるでなかった。


「陽鞠。お湯を沸かしてきていただけませんか」


 血など見慣れている凜も、落ち着き払って陽鞠に頼みながら、自分は薬箱を棚から下ろして雪宗に歩み寄った。

 血で肌に張り付いた服を、袖口から肩まで裁ち鋏で丁寧に、しかし手早く切り裂く雪宗の脇に薬箱を置いて開ける。


 薬箱の中は、怪我をしやすい鍛冶場に合わせてか、打ち身や切り傷など外傷用の軟膏などがほとんどだった。

 凜は自然由来の軟膏や煎じ薬には多少の知識はあるし、傷の手当ても慣れている。必要なものを箱から取り出し、雪宗の近くに並べていく。


「何があった」


 雪宗が問いかけると、朦朧としていた緒方の目に意思の光が宿った。


「…渚様を、お救いください」

「お嬢様を? どういうことだ」


 話しながら、雪宗は傷口を避けて裂いた服を体から引き剥がす。


「吹雪になるかもしれないと、槐殿が朝のうちに館のものを皆下がらせてしまったのです。当直も置かないなど、普通ではありません」

「それで?」


 雪宗が先を促しているのは、話すことで意識を保たてようとしているのだろうと凜は踏んだ。

 緒方の状態では意識を失ってしまった方が楽かもしれないが、それではここまで来た意味がなくなってしまう。


「不審に思った家中のものから報告を受けた私は館を訪ねました。そこで、最上殿と問答になり…」


 あの男か、凜は目を細める。

 凜が望まない方向に話が流れる、そんな漠然とした予感を覚えた。


「最上殿は、槐殿が渚様を妻にするつもりだと言っていました。これから、そのための既成事実を作る、と」


 表情こそ変わらなかったが、雪宗の気配に険しいものが混ざるのを凜は敏感に感じとった。


 槐のしようとしていることは極めて単純で、凜にもその意図はすぐに理解できた。

 渚の夫が望内の領主になるのなら、自分がその立場に収まってしまえばいいということだろう。

 体の関係を持ってしまったから責任をとって結婚するというのは、女の身からすれば意味が不明だが、当たり前に蔓延る論法だった。

 叔姪婚も今でこそ少なくなったが、貴族の間では珍しくもない。


「押し通ろうとした私は、最上殿に切り付けられ…」


 逃げるしかなかったことが屈辱なのか、緒方が唇を噛んで押し黙る。

 ちょうどそこに、盥に張った湯を持った陽鞠が戻って来た。どこから聞いていたものか、無言で盥を作業台の上に置く。


「傷を見せてください」


 凜が言うと、緒方は傷を抑える手を外した。

 まだ出血の止まらない傷口を湯で洗い流してから、軟膏を塗った綿で塞いで布できつめに縛る。

 傷に滲みたのか緒方は眉を寄せるが、うめき声一つ上げなかった。


 緒方は切り付けられたと言ったが、傷口は幅が狭いわりに深く、刺し傷であることが凜には一目で分かった。

 突き刺し、筋肉が刃を絡め取るよりも早く捻り、傷口を広げて抜く。人体を突くことに精通した手練の技だった。

 だからこそ、この傷に込められた言付けに凜は鼻白まざるを得なかった。


「…経緯は分かったが、何故ここに来た。衛士のところに行くべきであろう」

「衛士は駄目です。槐殿の息がかかっている可能性が高い」

「だからと言って、俺のところに来てどうする」


 一瞬だけ、緒方の目が自分の方に流れそうになり、意思の力でそれを留めたのが凜には分かった。


「…この雪では人を集めることはできません。ですから、一番信頼できる人のところに来ました」

「ただの鍛冶屋に何ができる」

「雪子様が、仰っていました」


 緒方の出した名に、初めて雪宗の表情が微かに動いた。


「渚様に何かあった時は、貴方に頼れと」


 鍛冶場に沈黙が落ちた。

 俯いて拳を握る雪宗の顔は誰にも見えない。


 長いような、しかし時間としてはさして長くもない沈黙のあと、雪宗は壁にかけた刀を手に取った。

 鞘も柄巻きも真新しくなってはいるが、紛うことなき凜の刀だった。

 刀を手に提げ持ったまま、雪宗は戸口へ足を向ける。

 

「私も伴いたします」


 火床の前を立ち上がり、緒方は雪宗を追う。

 じろりと雪宗は緒方を睨みつけた。


「その傷で動けば死ぬかもしれんぞ」

「もとより承知しています」


 鼻を鳴らした雪宗が、蓑を一つ緒方に放り、自分も被ると戸口に手をかけた。


「私の刀を勝手に使わないでもらえませんか」


 言葉の割にさして咎めるようでもない凜の声が、二人の動きを止めた。


「…悪いがこいつは使わせてもらう。その代わりこの家のものは好きにしていい。新しい刀を贖う金子くらいにはなるだろう」

「いりません。刀など道具でしかありませんが、命を預けてきた道具です。他人に渡すつもりはありません」


 ようやく振り向いた雪宗が、凜と向き合った。

 もしかすると、初めて正面から向き合ったのではないか。そんな明後日のことが、ふと凜の脳裏に浮かんだ。

 それくらいに、雪宗は常に凜から目を逸らしていた。


「ならば、どうする。俺から奪い取るか」

「そうしましょう」


 凜の返事はにべもなく、動きはそれよりも果断であった。

 滑るように一瞬で間を詰めると、無造作に刀の柄を掴む。ぎょっとした雪宗が反射的に奪い取られんと引くのに合わせて、更に間を詰めながら、力をいなされて腰が浮いた雪宗の足を払う。

 咄嗟に受け身をとった雪宗の手にすでに刀はなく、凜の手に収まっていた。


「その様で、いったい何をするつもりだったのです」


 冷たく言い捨てた凛は、踵を返して陽鞠の前に立つ。


「陽鞠…」

「なに?」

「あなたと関係のないことに剣を振るうことをお許しくださいますか」


 陽鞠はすぐには答えず、微笑みとも言えない穏やかな表情のまま凜を見ている。

 凜は自分がなぜこんなことをしているのか分かっていなかった。

 ただ、このまま雪宗を行かせることはできないという衝動で咄嗟に動いていた。不思議とそれをおかしなことだとは思わなかった。


「…待て。待てっ」


 転がされ、土間に腰を落としたまま、雪宗が荒い声を上げた。

 雪宗が二人の前で声を荒げたのは、初めてのことだった。


「お前には関係のないことだろう。何のつもりだ」


 怒鳴りそうになるのを必死で抑えている。そんな雪宗の声だった。

 しかし、凜は答えず、振り向くことすらしなかった。


「俺の代わりにお前が人を殺めるなどあってはならないことだ。そんなことのために俺はこの刀を打ったわけではない」

「ならば、どうするのですか」


 凜の声はどこか冷たい怒りすら孕んでいた。


「あの最上という男は手練です。あなたたち二人が行っても無駄死にするだけでしょう。そして渚様は手篭めにされます。その結末に、あなたたちの自己満足以外の何の意味があるのですか」


 凜の言葉はその剣と同じように鋭かった。

 その切先は、呆然と成り行きを見ていた緒方にも向かう。


「緒方、でしたか」


 名を呼ばれた緒方が苦しげな顔をしたのは、傷のためではなかった。


「私を巻き込もうとしなかったあなたはなるほど立派な男なのでしょう。ですが、本当に渚様を助けたいと思うなら、なぜ私に頭を下げなかったのですか。最上に対抗できるのは私だけだとあなたは分かっていたでしょう」


 実際に最上の剣を受け、屋敷で最上と凛の刃を交えぬ立ち合いを見ていた緒方に、返す言葉はなかった。


「くだらない。守るべきものを守れぬものに何の価値もない」


 その言葉は、凜自身にも向かっていた。

 陽鞠のことだけを考えるなら、この自分たちとは関係のない災いに関わることは、後の火種にしかならない。


「陽鞠…」

「うん」


 凜は柔らかく、陽鞠の体を抱きしめた。

 いつもと変わらないように見える陽鞠の体は、少し強張っていた。


「私はあなたのことだけを考えていたい」

「だけど行くのね」

「ここで見て見ぬふりをすれば、それはしこりとして残る気がします。そうなれば、私はふとした折にこの時のことを思い出すことになるでしょう」


 言いながら、言っていることが建前に過ぎないと凛は理解していた。

 まるきり嘘というわけではないが、表層に出てきた理由に過ぎなかった。


「凜。そんな言い訳いらない」

「言い訳、ですか」

「助けてあげたいと思ったから助ける。それだけでしょう」


 陽鞠は少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべた。


「私はそういう凛だから救われて、好きになった。だから、凛のことを止めたりはしない」


 止めたりはしなくても、本当は行ってほしくない気持ちもあるのだろう。

 それくらいは凜にも理解できていた。


「でも、死んだら許さないから」


 凜は腕の中の陽鞠の、その唇に触れるだけの口づけを落とした。

 他の人間に見られることなど、気にもならなかった。


「はい。必ずあなたのところに戻ってきます」


 凜が戻らなければ、陽鞠はきっと命を絶つだろう。

 許さないとは、そういう意味だ。

 そうであるのなら、凜の戦いはすべて陽鞠の命を背負ってのものになる。それは守り手としての戦いだ。

 立場が変わり、関係が変わり、守り手はやめたとしても、陽鞠を守る誓いまで捨てたわけではないのだから。

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