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『こんなところにするのかい?』
直樹は滝の後ろを付いていきながら、何回目かのいちゃもんをつける。むっとした顔で滝がやり返す。
『ここにする!』
『倒れそうだよ』
『住めば都だ!』
『すきま風が入るんじゃない?』
『セーターの下に新聞紙を巻く!』
『火事ですぐ燃えそう』
『あったかくてちょうどいいじゃないか!』
ふん、と肩を聳やかせて、何が何でもそのアパートに入って行こうとする滝の後ろで、直樹の表情は複雑に変化する。じれったそうな悔しそうな、行って欲しくないようなこのまま行かせてやりたいような……微妙な変化の後、直樹は周一郎の口調で滝を引き止める。
『行かないで下さい、滝さん』
びくんと滝が肩をこわばらせ、形相物凄く振り返る。
『周一郎のまねはやめろと…』
言いかけて、ぽかんとした顔になったのは、相手の気配の違いだけではない、目の前に現れた亡霊に度肝を抜かれたからだ。その滝に顔を背け、今は真実、周一郎そのものに戻った直樹が呟く。
『だって、言わなくちゃ、滝さんは行ってしまうでしょう?』
照れくさそうな、どこかはにかんだ調子の声に、滝はくるりと向きを変え、唐突にまっすぐアパートへ進んで、周一郎を驚かせる。
『え、滝さん…』
慌てて後を追い、滝の片腕を掴んで引き寄せる。と、それに引っ張られたように振り返った滝が、嬉しさを隠せないような顔から一転してむっとした顔になり、ぱんっ、と勢いよく周一郎の頬を叩く。
『っ』『この、馬鹿野郎っ!』
続く怒鳴り声に、さしもの周一郎も息を呑む。
『なぜもっと早く生きてるって知らせないんだ! 俺がどんな気持ちだったかわかってんのか! そもそも勝手に死ぬのが悪いっ! これからはちゃんと前もって予告してから死ねっ!』
『は、い…』
聞かされるたびに理不尽な台詞、滝志郎という男が、今から死にますと宣言する周一郎を放っておくわけもなかろうに。
けれど、ここの場面の周一郎はそんなツッコミを思いつかない。正面切って叱られて、そのことばに紛れもなく周一郎への思いやりとか労りとか、つまりは大事にしているということを読み取って、見る見る泣き出しそうな表情になって、素直に静かに頷き返す。その表情は観客にこう伝える。
滝が居てくれて、嬉しい。この先もずっと、居て欲しい。
『でも、滝さん』
だから、気を取り直したように、周一郎はすぐに相手を説得にかかる。
『僕の所を出たら困るんでしょう?』
滝が一瞬目を見開き、お前な、とこれは垣のアドリブだ。
本当ならば唇を綻ばせ、『ああ、わかったよ! お前の所に戻ってやるよ!』と捨て台詞まがいのことばを投げて、ボストンバッグを引っ掛け、道を引き返していくはずだ。
だが、垣は溜め息まじりにボストンバッグを拾い上げ、
『困るのはお前じゃないのか?』
投げられたアドリブに修一は胸の内でにやりと笑って応じる。
『困りますよ。滝さんが居ると高野の苦情を聞かなくちゃならないし、仕事が忙しいのに新しい絨毯やカーペットの購入や壁の補修の依頼もしなくちゃならない』
え、と滝ならぬ垣が凹んだ。そんなふうに受けられては次が続かない、そう瞳で悩まれて修一はくすくす笑う。
頑張ってよ、もう少しでクランクアップなんだしさ。その後垣さんは行っちゃうんだしさ。だから、精一杯考えて。周一郎がなぜそんなことを言い出したのか、本当は何を言いたいのか、読み取って仕掛けてきてくれよ。
『あー、何、その、何だな、えーと』
垣は困り果てている。もうすぐ終らなくてはならないのに、その流れに入れない。けれど、何とかして飛び込まなくてはこの映画が終われない。
ああ楽しいな、と修一は思う。
芝居は楽しい。自分の全人格を使って、これほど密なやりとりが限界ぎりぎりで仕掛けられて、しかも喧嘩にならない。
こんなに相性のいい役者に、後何人出逢えるだろう。こんなにわくわくして躍り出しそうな瞬間に、後何回加われるだろう。
きっと数えるほどだろう、だからこそ、この一瞬を丁寧に。
(もっと早く気づけばよかった)
修一は役者が好きなのだ、たまらなく。たとえどれほど才能がないと揶揄されようと、親の七光りの影にくすむしかない輝きだろうと。
『そ…』
『そ?』
『それは大変困ったな』
『そうなんです、大変困るんです、でも』
いいや、助け舟になっちゃうけれど。
『僕の能力はまだまだ余ってるので、それぐらいの困りごとがないと退屈でしょうがないんですよ、この世界は』
(やば)
口にした瞬間ひやりとした。これは周一郎の心底の本音、おそらく周一郎自身も気づいていない真実のはず。滝を抱え込みたい。それは滝が自分を思ってくれるからだけではなくて、きっと、滝が居ると退屈しないから。周一郎にとっては、滝が現れるまで、この世界は薄墨煙るモノトーンの色調だったに違いないから。
(引き出されちゃった、けど、まだ早かったんじゃないか)
垣の雰囲気に周一郎の中身が引きずり出されて吐き出された、それは今この映画にふさわしいのか。それを調整するのは監督の役割のはずだけど、今は伊勢は動かない。この暴走がどう転ぶかじっと目を細めて眺めている。
(ずるいよね、まったく)
けれど、体を張るのが楽しいのが役者なのだから仕方がない。
『う』
垣は沈黙した。やがて、ずんずんといきなり近づいてきて、いきなり修一の頭を抱えてびっくりした。
『もういいや、とにかく部屋よこせ、何か食わせろ!』
『…っく』
思わず零れた含み笑いを堪えるのに苦労した。ここで周一郎は爆笑しない。修一は大笑いしたくてたまらないが、そこまで外れるのはさすがに許されないだろう。
(けど、いつか)
修一は微笑む。
『猫たちの時間』シリーズに、周一郎が爆笑する場面などない。微笑むかくすくす笑う程度だ。あり得ない、物語の造りの上から、周一郎のキャラクターから。
(けど、いつか)
お前を爆笑させる場面を演ってやるよ、周一郎。
胸の中で囁く。
(お前がほんとに心の底から世界を愛した時に。今のお前のままで世界に居られるようになった時に)
原作者も反論できないほど、正々堂々、文脈を崩さない中で、周一郎に大笑いをさせてやろう。そうやって、傷ついてずたずたのこのキャラクターを見事に成仏させてしまおう。
(だから今は)
『滝さん』
『ん?』
首を抱えた腕に手をかけ顔を上げる。
(垣さん)
胸の中で響くのは別れのことば。
『行きましょうか』
(さよなら)
全く違う想いを胸にことばを吐くとき、ことばはその意味も形も越えて、厚みを増し、深みを増し、人の心の奥底に届く。
(ことばって究極のツンデレツールだよね)
『ああ!』
ようやく終る、その感情が透ける垣の顔を見上げて、涙がにじみそうになった瞳を細め、修一はにっこりと笑い返した。




