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時は少し遡る。
最後の1枚にサインした修一は相手に微笑みかけ、にこやかに色紙を手渡した。
「ありがとうございます!」
胸に抱えていそいそと走り去っていく後ろ姿に小さく溜め息をつき立ち上がる。
「これで終わりだよね」
「はい」
「どちらへ?」
「水…」
掠れかける声で応じて佐野に笑い返し、高野を探したが居ない。もう一度佐野を振り返ったが、誰かに呼ばれたのだろう、急ぎ足で離れていく背中を引き止めるのもためらわれた。
(喉が渇いたな)
さすがに朝から1滴の水も入っていないと辛かった。けれど、今の修一にとっては休憩に使ってしまう数分が惜しかった。
屋敷の方へのろのろと歩く。
(これが終れば垣さんは行ってしまう)
垣が怒って部屋を出て行ってしまった後、修一にわかったのは、映画撮りの中でしか垣と一緒に居ることはできず、心を受け止めてもらえないということだった。
少しでも長く、少しでも多く、垣と居たい。
だがそのために修一に何が出来るかと言えば、垣と作る1場面1場面を演りきることしかなかった。
(垣さんもスタッフも妙な顔してる)
くすりと笑った。
自分でも、ここ数日の集中ぶりは呆れるほどだ。気持ちが高揚している分、あまり碌なものが喉を通っていなくても体を保たせてくれている。後はこの調子が最後までもってくれればいい。
(最後…)
そうだ、最後。
(本当の最期、でもいい)
ここまで想い入れた演技は初めてかも知れない。
「ふ、ぅ…」
溜め息をつく。屋敷の中に入るのが面倒くさくなって、外にあったクーラーに近づく。準備してあった紙コップに水を受けて飲み干し、もう一杯水を受けようとしたとたん、背中に足音が響いた。
「…?」
振り返ろうとした修一は、ふいに伸びて来た腕にとっさに手にした紙コップを投げた。いつの間にか駆け寄ってきていた男は巧みにそれを避ける。一瞬出来た隙に地を蹴り走り出す。だが、すぐに男が追いすがってきたのがわかった。
『数日間、あなたの護衛をさせて頂きます、宮田です、宮田』
脳裏に能天気で明るい自己紹介が甦る。同時にくらりとした目眩が襲ってきて、足元から力が抜けた。
(く、そ…)
食べていなかったのがこんな時に響いてくるなんて。舌打ちしたくなる気持ちで考える。
(組織の者だって宮田さんは言ってた)
喘ぐ息が乱れて修一は汗を振り切った。揺れる視界、ロケ中の奥の広場まで辿り着ければ逃げ切れる。が、修一の行く手を木立から飛び出してきた男が遮った。立ち竦む修一に前後から男が飛びかかってくる。
「、垣…さんっっ…!!」
声を上げて体を捻る、その口元に鋭い匂いがする布が押し当てられて総毛立つ。
(助け…!)
包まれた顎、もがく手足も虚しく、胸の叫びは一気に闇に呑み込まれていく。
(垣…さ……)
脳髄を真っ白な霧が覆う。身体中から力が抜ける。
もう一度張り上げようとした声は消えた。修一の意識は薄れ掠れて砕けていった。




