82 帰ってきた師匠
今、私の目の前には、心電図を縦にしたようなジグザクの線が引かれている工程管理表が置かれている。
左に出っ張たり右に出っ張たりと、項目ごとに進捗がバラバラだ。
例の「五大計画」は、私なりに優先順位をつけたつもりだったけど、もう既にしっちゃかめっちゃかな状態……。
前世と違って、どこに迷惑をかけるでもないから、進んじゃうところは進めて、着手が遅れているところはその分そのままになっている。
遅れてしまったのは、まぁ人のやりくりが出来なかったり、こちら都合では進められない外的要因――天候や民意の調整等――があったりで、致し方ないことだと思う。
――なんていうのは自分を守る為の言い訳に過ぎないかも。結局のところ、やりたいことをやっちゃっているんだよねぇ。
でもなぁ。前世と比較するのは、やっぱりちょっと違うと思う。
今、私がやっていることって、やればやっただけ領地経営的にはプラスな訳だし。ま、絶対的な期限がない以上、遅れたことにはならないと思う。
「マルティーヌ様。違うフレーバーに変えて参りましょうか?」
おっと。ローラがそういう気を遣うときって、私がひどい顔で思い詰めているときだから、いい加減、進捗についてあれこれ考えるのは止めよう。別に悩むようなことでもないんだし。
「ありがとう、ローラ。鐘が鳴るまで後少しだけ考えたいから、柑橘系のものにしてくれる?」
「かしこまりました」
お昼の鐘まで一時間弱といったところかな。
今日はゆっくりと考え事をしたかったので、午前のお茶は自室で一人でいただくことにしたのだ。
さて――と。
それじゃあ、他人が関与せず私だけで進められる項目を探してみよう。
とりあえず、一丁目一番地の貯水槽の設置は目処が立った。これは領民たちが手伝う気満々なので、スケジュールさえ伝えておけば材料集めもお願いできるらしい。
今は三日間のお休みのうちの一日を貯水槽の設置にあてている。
当面は各地に最初の一基を作って回るので一日に一基のペースだけど、一通り設置し終えたら、一日に二、三ヶ所は回れるので、おそらく春先には全ての作業が終了すると思う。
同じく一丁目一番地に護岸工事もあるけど、これは私だけでは進められないのでとりあえずパス。
その次は……KOBAN設置だ。
KOBAN設置の工程管理表の最初のタスク欄には「素敵な名称を考える」とある。
何のこっちゃ?
この工程管理表を作ったときの私の思考……。
でも、KOBANの代わりの素敵な呼び方か……。うーん。領民たちに馴染みのある名称がいいよねぇ……。
……………………。
すぐには思い浮かばない。うーん。いったんパス。
KOBANもそうだけど、「駐在さん」に変わる格好いい名称も考えないとね。
KOBANに駐在してもらう人は、家族帯同がいいと思っている。
夫婦揃って武芸に秀でていれば言うことないし、親が見回りの巡回に出ている間、子どもが留守番をしてくれたら助かる。
この世界の子どもは小さくても立派な社会人だからね。伝言受け付けや、緊急時のひとっ走りとかも出来るはず。
などということを考えながらローラを待っていたら、何やら喧騒が聞こえてきた。
この屋敷で騒ぎなど起こるはずがないのに。
「……だぞっ! ……せずとも…………がっ!」
え? え? 何? 何?
ものすごく大きな声でしゃべっている人がいるんですけど。
トントントンというノックの音に驚いてしまった。
「は、はい。どうぞ」
入ってきたのはレイモンだった。今探しに行こうかと思っていたところだよ。
「マルティーヌ様。失礼致します」
「レイモン。何やら騒がしいようだけど、どうしたの?」
「はい。それが――」
レイモンの言葉が、バァン! という激しい音に遮られる。
ドアが壁にめり込むんじゃないかと思うくらいの勢いで開けられた。
これ――アニメとかだと、ドアが吹っ飛んでいるくらいの勢いだからね。
そんな風にドアを開けて入ってきた人は――。
ひぇぇぇぇーー!!
きょっ、巨人族っ!? うっそ!? はぁ!?
「ガッハッハッ! おお、ちっこいの。お前がヘンドリック様の孫娘か!」
はぁ? 誰が誰の何だって?
乱入してきた大男が、のっしのっしと私に近づいてくる。
驚きすぎると人は動けないものらしい。私は固まったまま目を見開くことしかできなかった。
「ぎゃー!! ひゃー!!」
令嬢らしからぬ渾身の叫び声が出たけど仕方がない。
巨人のような男に脇に手を入れられて持ち上げられたかと思ったら、赤ちゃんを高い高ーいするみたいに、上下どころか斜めや横にも振られたんだから。
「師匠! お止めください! そんな風に振り回したらマルティーヌ様が――」
その声はリエーフか。とき既に遅し。もう、すっかり目が回ってるよ……。ちょっと吐きそう。
「アレスター様! いい加減にしてください。マルティーヌ様は、普段あなたが相手をされているような者たちとは違うのですよ!」
そう。何だかわからないけど、レイモンの言う通りだよ!
その口ぶりからレイモンも珍しく苛立っているみたいだけど、説明を!
この状況を説明してほしい。おぇっ。
大男に手を離されたけど立っていられず、そのまま床にへたり込んでしまった。
「マルティーヌ様!」
あ、ローラ。すごいタイミングで戻ってきたね。
心配してくれているみたいだけど、ドンガラガッシャンはやめてね。
チラッと見えたけど、トレイの上に載っていたティーセットは、透き通るような青空をバックに草花が描かれていた可愛らしいやつだよね。
それ――私のお気に入りだから。絶対に割らないでね。
「ん? あー。悪いのぉ」
「ひぃぃぃぃ! マルティーヌ様っ!」
今の悲鳴はローラだよね。私はもう声が出ない。
大男はまたしても私の脇を掴むようにして持ち上げると、ソファーに座らせてくれた。
いや、だから!
その移動の仕方、止めてよねっ!
それと、すぐ側のローテーブルに気をつけてね? 緩いS字型の細い脚は、大男がチョンと蹴るだけで真っ二つになりそうで怖い。
ローラは落ち着いて。まずトレイを置いて!
「本当にちっこいのぉ。いくつじゃ?」
ちっこい言うな!
私の目の前で小首を傾げている熊みたいな大男は、身長が二メートルを超えてるんじゃない?
体つきも異様にがっしりしていて、腕の筋肉なんかパンパン具合が異常だ。
突風に煽られてオールバックになったような短いグレーの髪はワイルドなのに、妙に綺麗な口髭は滑稽でしかない。
リエーフが、「師匠! どうか、もう少しお下がりください」と、巨人男と私の間に入って、私を背中に庇う格好で立ち塞がってくれた。
それなのに、「よぉリエーフ! お前は背が伸びたみたいじゃのぉ!」と、熊みたいな右手で白い髪の毛をわしゃわしゃと撫で回されたリエーフは、ふにゃあと力を抜いた。
あえなく撃沈――無念。
「コホン!」
レイモンの過去一の咳払いが出た。
「マルティーヌ様。この方は、アレスター・アダムス様です。先々代のヘンドリック様にお仕えされていた騎士で、男爵位をお持ちです」
貴族には見えないよ? かといって騎士にも見えない。よく見ると、大男は農民たちと似たような質素な衣服を着ている。
「先代のニコラ様がタウンハウスにいた騎士たちを全員解雇されたとき、アレスター様はここカントリーハウスにいらっしゃったので、アレスター様だけは今でもモンテンセン伯爵家の騎士なのです」
あー、そういや、そんなこと言ってたね……。
そっか。ゲス親父が「タウンハウスにいる騎士を解雇する」って言った言葉を、レイモンがわざとそのまま額面通りに受け取って、アレスターのクビを回避したんだね。
王都って、エリアによっては治安が悪かったりするよね。
うちのタウンハウスがある辺りは比較的治安がいいと思うけど、それでも何事もなく過ごせていたのは、まさか貴族の屋敷に護衛がいないなどとは賊の方でも考えなかったからで、たまたま事なきを得ていただけっぽいね……。
きっと、ゲス親父が恋人と街中をフラフラ歩いていたときも、当人たちに気づかれないよう微妙な距離をとって護衛しているはずだと、周囲が勝手に思い込んでくれたお陰で無事だったんじゃない……?
……はぁ。みんなには、ほんっとに苦労をかけてばっかりだ。
「レイモン。相変わらずおかしなことを言っとるのぉ。ワシの主人は亡くなったんじゃ。おお、そうじゃった。その先代にクビにされたディディエなら親子揃って下におるぞ。そういやディディエが言っておったな。『王都で危険な目に遭うことなどないのだ。ただひっついて歩くだけで何もしていないのに給金を払うなど馬鹿らしい。むさ苦しい格好でついて来られて迷惑だ』と言われたとかのぉ。はっはっはっ」
はぁ!? ほんと馬鹿丸出し。
それって、あのゲス親父が恋人と二人っきりになりたかっただけじゃないの?
「アレスター様。今はこちらのマルティーヌ様が当主でいらっしゃいます。いくらあなた様でも不敬は許されませんよ」
レイモンにそう言われて初めてアレスターは動きを止めて、私の顔をじいっと見た。
「ほぉ……」
え? 何? 何? その鋭い眼光は?
私――値踏みされてんの? アレスターのお眼鏡にかなわなかったら、頭からバリバリ食べられちゃいそう……。




