6月17日 ソワソン市
ソワソン市はパリ北東80キロ、イギリス軍の戦線から控えめにみても250キロはある後方である。しかし最近のヒトラーとしては、ここまで戦場に近いところへ出てきたのは大負けに負けてのことであった。ここは1940年に、イギリス侵攻のためのヒトラーの前進大本営という触れ込みで作った陣地である。会見の相手は、ルントシュテットとロンメルの両元帥。
「現在の戦線はおおむね、カーン、バイユー、サン=ロー、そしてクータンスの4都市を結ぶものです」
ルントシュテットに代わって、ブルーメントリット参謀長が現況を説明する。ロンメルの参謀長シュバイデルは、熱心にメモを取っている。
全般的に、フランス中心部へ向けた突破は撃退され、戦線は安定している。いまのところは。
「シェルブールは深刻な状況に陥っています」
報告を遮ったのは、ヒトラーであった。
「シェルブールは断固として最後の一兵まで防衛されねばならない。港湾を堅く守っていれば、イギリスは必ず行き詰まって和平を求めてくる」
シュパイデルはメモを続ける。総統の言葉をそのままB軍集団の命令の文案として、送信するつもりである。シュパイデルは状況が要求するときには、保身の茶番劇を演じきることが出来た。いまは大事な時期である。
一瞬の沈黙を捉えたのはロンメルである。
「ルントシュテット元帥閣下を始め、私を含め多くの司令官が報告していることですが、連合軍海空軍の圧倒的な優勢下では、作戦遂行の基本条件が整いません」
陸上兵力は常に、常に、常に連合軍に対して優勢でありながら、砲爆撃による消耗を強いられて後退を繰り返している。もしこのままドイツ空軍の支援が得られないなら、いま安定している戦線も早晩崩壊の道を辿るであろう。連合軍はほしいままに空と海から戦力を集中的に上乗せできる。ロンメルは熱情的に、ルントシュテットは重々しく、空からの圧力について論じたてた。
「現在ジェット戦闘機が配備段階にある」
ヒトラーは断定した。
「その投入によって空の状況は一変する」
「総統はタイガー戦車を我々に約束され、その約束を果たされました。しかし量的な劣勢を、タイガー戦車が埋めおおせておりますか」
ロンメルは痛いところを突いた。ジェット戦闘機はタイガー戦車にいくつかの点で似ている。大型で、ある面では高性能で、燃料食いで、生産性が悪い。タイガー戦車よりも中程度の戦車を量的に充足させよう、という意見は根強い。
「私は断言する。ジェット戦闘機はまったく新しい世代の航空戦闘をもたらすのだ」
ヒトラーは素人としては非常によく軍事や技術を勉強していた。ただ紙の上の知識であるためバランスに欠け、スペック信仰に陥る傾向があった。特に航空関係は、さすがのヒトラーも技術的に手に負えなかったようである。陸軍には新型機関銃の量産計画にまで口を出したヒトラーが、ゲーリング空軍司令官への信頼を失った時期になっても、空軍の生産計画にはほとんど口出ししなかった。ジェット戦闘機へのこだわりは、むしろ例外と言って良い。
「この一時的な難局を乗り切れば、輝かしい……」
ヒトラーが言いつのったその時、サイレンが鳴った。連合軍の爆撃機が獲物を探して迷い込んできたのである。
一同が一時的な難局を過ごしている防空壕の中でも、会談は続いた。
「空軍の増援がかなわぬと言うなら、政治的な事態の収拾をお考えあるべく」
ロンメルの重大発言にさすがにヒトラーも眉を上げた。
「将軍は自分の戦線に注意を集めるべきだ。そこでは貴官が必要とされている」
ヒトラーに演説の霊感が走ったらしかった。
「いまや我がV1号は本来の目的に投入されて」
ヒトラーはロンメルをちらりと見た。
「著効を挙げている。やがてイギリスは政治的な解決を求めてくるであろう」
地下壕に衝撃が走った。
「何事だ」
ヒトラーが怒る。警報は一切なかった。壕に飛び込んできた士官が青ざめている。
「我が……V1号です。コースがずれたのです」
ロンドンに向けて発射されたV1号のうち、市街地に被害を与えたのはおよそ1/3である。残りは発射直後に爆発したり、行方不明になったり、迎撃されて無害な海上に落とされたりした。
「幸い死傷者はなく」
「当たり前だ!」
ヒトラーが怒鳴る。
将軍たちは天井を見たり壁を見たり用もなくメモを取ったり、ヒトラーと視線を合わせないようにしている。やり場のない怒りをお手玉したヒトラーは、短く言った。
「帰る」
ふたりの元帥はヒトラーを、NSDAP(いわゆるナチス党)式ではなく陸軍式の敬礼で見送ったが、送られる側にそれをとがめる心の余裕はなさそうだった。




