6月9日 午後1時 ゴールド・ビーチ
ラ・リヴィエール村(現ヴェール=スール=メール)は非常に立て込んだ状況であった。第21軍集団司令部・第2軍司令部・第30軍団司令部・第50歩兵師団司令部がストレートフラッシュのように小村にひしめいているのである。明らかに第21軍集団司令部を率いるモントゴメリーが、早く大陸第一歩を記そうと焦った結果であった。
「海軍が帰っただと」
モントゴメリーは憤然と報告を聞いた。
「弾薬の払底による一時的なもので、大型艦が次々にイングランドへ帰投しています。ここのところ夜間の支援要請が多かったものですから」
イギリス第2軍司令官・デンプシー中将は、モントゴメリーの不機嫌にはすっかり慣れていた。
「ドイツ軍の攻勢が予想されているこのときにか」
シュベッペンブルクの司令部が盛んに攻勢の準備を行っていることは、暗号電報の解読で連合軍に筒抜けであった。
「この天候を見ろ! 海からも陸からも支援がなければ、我々は裸だぞ」
デンプシーは更に我慢した。
「しかし、我々はすでに……」
デンプシーが何かいいかけたとき、砲声が遠くで轟いた。
「あれはなんだ」
「友軍のものではないようです」
すでに参謀たちは、現況を把握するための指示をきびきびと出し始めていた。
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午後1時。この攻撃開始時間が、すでにガイルの敗北を予兆しているように思われた。いくら曇天とはいえ、いつ晴れ間が出るか分かったものではないのである。
自らを野戦指揮に不向きと悟ったフォイヒティンガー少将は、オッペルン=ブロニコウスキー大佐に現場の指揮を委ねてしまった。相変わらずの補給状況を改善するのに専念するためである。
いよいよ砲声が始まった。イギリスの空挺部隊が苦労して運んできた軽量砲が捕獲されて、ドイツの戦列に加わっている。上陸当日にはカーンの弾薬庫にあった使い捨てロケット弾も、今日は凶々しい音を立てて敵陣に向け弧を描いていた。
5分後、砲撃は小降りになった。準備砲撃の時間が短いのは、弾薬が不足しているためである。オッペルンはフォイヒティンガーから借り受けた通信装甲車で、マイクを取り上げた。
「聞け! オッペルン=ブロニコウスキー大佐、師団長の命により戦闘団の指揮に任ずる。戦車前進!」
捕獲したアメリカ製戦車を戦闘に、雑多な車両群がクルイリー村に通ずる道を北上し始めた。ゴールド・ビーチからカーン市に続く街道を逆進して、イギリス軍の伸びてきた先頭部分と戦うのが彼らの受け持ちであった。
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バイユーから海岸まで20キロばかり。そのわずかな距離が、まったくと言って良いほど縮められずにいるバイエルラインである。今日はマイヤーがアロマンシュ村を目指し、バイエルラインはバイユーまで後一息と迫ったイギリス軍を押し返して海岸の中央部を陥れる。非常に結構な計画であったが、艦砲射撃を軽視し過ぎている、とバイエルラインは思ってしまう。若い部下の中には、艦砲射撃でノイローゼ状態となっている者も大勢いた。
砲弾が風を切る音が近づいてくる。だが艦砲ではない。聞き覚えのあるこの音は、あの……
どどどどどぉぉん。ばばぁん。ばりばりばりぃん。
着弾盛んである。イギリス軍の支配地域が十分な奥行きを持ったので、榴弾砲を陸揚げする余裕が出来たのであろう。モントゴメリーはこういうとき、弾薬を惜しまない。バイエルラインは北アフリカの戦いで、それを身に沁みて知っていた。
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2台の戦車がイギリス軍陣地に突っ込んできた。大きい! あれがタイガー戦車か。連合軍の使うアメリカ戦車とはまるで異なっていた。次々に対戦車ロケットが浴びせられるが、張り巡らした薄い補助装甲板で威力を減殺されてしまう。
歩兵も連れず、戦車だけで突っ込んでくるとはよい度胸である。若いイギリス兵が、車体の上に手榴弾を転がしてやろうと、側面から戦車に忍び寄る。
ぽん、と小さな音がした。兵士も、それを心配げに見ていた仲間たちも、兵士の足元に落ちた小さなものと、その邪悪な意図に気づいた。
だが、遅かった。兵士は手に持った手榴弾もろとも閃光の中心を成し、あとには赤い影だけが残った。後で分かったことだが、ドイツ戦車には近接防御兵器があって、砲塔上部の穴から特製の爆薬をスプリング発射できるのだ。
歩兵の所在を知ったドイツ軍の後続戦車が、援護射撃をたたみかける。突入してきた戦車は罠の弾き役なのである。ついに辛抱しきれず、巧妙に隠してあった対戦車砲がドイツ戦車を捉える。1台の砲塔の付け根に当たった弾丸は、どうやら砲塔を回らなくしたらしい。戦車はそのまま車載機銃を射ちながら対戦車砲陣地に突っ込み、すべてを蹂躙する。後続の戦車も次々に現れた。難敵なし、と踏んだらしい。
砲弾の飛来音がする。友軍だ。村の周囲に隠れた観測班が誘導しているのだ。まだ試し射ちだが、じき本格的な射撃がくる。ドイツ軍は前進を焦っているようだ。なまじ退却すると、友軍誤射の心配なく射ちたいように射たれるからである。
観測班がゴーサインを出したらしく、榴弾砲がいよいよ本格的な射撃を開始した。タイガーが2台ほど上部に命中弾を食らって爆発する。だが村に入ったタイガーは建物をゼロ距離射撃している。これまでか。
おかしい。戦車が村の外を射撃している。救援だ! 友軍の戦車部隊だ。
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マイヤーの師団で戦車連隊長を務めているのは、ヴュンシュ中佐である。男も惚れる美形の彼も、さすがに連日連戦で目が険しくなっている。
村の歩兵部隊の頑強な抵抗は排除されたが、榴弾砲の阻塞射撃は激しく、敵の戦車が迫ってきた。村に先着した今、敵戦車は取り立てて恐ろしい敵ではないが……
すでに5、6両のイギリス戦車が煙を上げている。なにしろ物陰が多い地形なので、先に仕掛けると痛い目に合う。しかし、行く他はなかった。さらに海岸に迫り、アロマンシュ村を抜いて海岸を掃射する。明日以降のことを考えている余裕はない。
「後は歩兵に任せて、前進する」
ヴュンシュは戦車を呼び集めた。
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だめだ……あの大きなドイツ戦車にはかなわない。ホーンブロワー大尉は自分に認めた。ここで海岸をドイツ軍から守れる者は我々だけだと言うのに。
退却する彼の中隊をドイツ戦車は追走してくる。時間がない。すぐドイツ戦車がやってくる。何とかドイツ戦車をここで防ぐ法はないものか。防げればいい。止められれば。
そうか! ホーンブロワーは、自分のとっさの思いつきに苦笑した。あとで軍法会議にかけられるかもしれないが……
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前方の2台の戦車は、数発の命中弾を浴びてあっけなく炎上した。その2台の様子がおかしいのに最初に気づいたのは、ヴュンシュ中佐であった。
「ユルゲンセン、見ろ。キャタピラだ」
ヴュンシュは配下の大隊長に確認を求める。2台の戦車は道路をびっちりふさいでおり、しかも奇妙なことに、キャタピラがそっくりはぎ取られていた。いや車体の下にキャタピラが少しのぞいている。臆病なトミー(イギリス兵)どもは戦車のキャタピラをはずしたまま前進をかけ、キャタピラをわざと取り残したのだ。
道の両側はちょっとした土手になっていて、潅木が生い茂っている。キャタピラの完全にはずれた戦車をずりずり引っ張って後戻りすれば、時間を食ってしまう。ヴュンシュがためらっているとき、すっかりなじみになったイギリスの榴弾砲の弾着が始まった。縦列が混乱する。
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ホーンブロワーは、ドイツ軍が退却して行くのを潅木の繁みの中で、主にキャタピラ音から聞き取った。危ないところだった。歩兵がついてきていれば、繁みの中の彼らは発見されたかも知れなかった。生け垣や林の多いノルマンディーは、戦車に取って都合のいい地形ではない。特に攻撃には。
これがドイツ軍の今日の攻勢の転回点になろうとまでは、ホーンブロワーには知る由もなかった。
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最も装備の劣悪な第21戦車師団は、連合軍の戦車部隊と正面からぶつかり、早々と戦闘力をなくしていた。その戦車部隊を側面から衝くかたちの戦車教導師団に再び期待がかかる。今度は不自由な夜襲と違って、十分な時間があるはずであった。
セオリー通りに壕に埋められた対戦車砲が火を噴く。突撃砲の斜めになった前面装甲はそれを弾き飛ばす。そのまま前進を続ける突撃砲。壕を乗り越えた突撃砲はめりめりと対戦車砲を押しつぶし、急いで逆進をかける。わずかに見せた薄い下面に幸運な一弾がめり込み、突撃砲は陣地の全員と運命を共にする。車内弾薬の誘爆した炎が、命中孔から陣地めがけて吹き出し、対戦車砲の弾丸が誘爆したのである。
榴弾砲の着弾はますます増大する。戦車の被害は少ないが、随行する歩兵や軽車両が次々に損害を受ける。ドイツ戦車の視界は、生け垣、果樹、潅木に絶えず遮られ、折角の主砲の優位が生かせない。
「閣下、後退して下さい」
通信装甲車で相変わらず先頭近くにいるバイエルラインを退避させようと、幕僚が説得する。
「危険なのは皆同じだ」
この瞬間、バイエルラインはロンメルになりきっていた。
しかしバイエルラインはロンメルほど強運ではなかった。至近弾にあおられて、通信装甲車が横倒しになったのである。バイエルラインはオープントップの装甲車から放り出され、腰を強打して悶絶した。周囲の歩兵がここぞとひっ抱えて、突撃砲の車体に迎え上げる。突撃砲は回転砲塔がなく、上部が平べったいので、けが人を運ぶのに都合がよい。
状況は戦車の無線機から指揮系統を伝って、ゲルハルト大佐に届く。
「歩兵抜きで海岸には届かん……撤退しよう」
ゲルハルトは先任の大佐として、師団に退却命令を出した。
ロンメル元帥もお許しになるだろう、という一言は、兵士の手前遠慮したのだが。




