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狐の住む岸辺  作者: マイソフ
第7章 バイエルライン
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6月7日 午後8時 ゴールド・ビーチ南方(上空を含む)


 バイエルラインは最前線のにわか作りの壕に身を潜めて、時計を見ていた。なじみのある砲弾の飛来音がする。師団砲兵の支援射撃である。昨日の攻撃で、かなりの損害を出しているのだが、贅沢は言えない。


 第84軍団のマルクス中将は、バイエルラインの拙速な攻撃への支援を渋った挙げ句、周囲の軍団直轄の砲兵部隊を支援砲撃に参加させることに同意した。20分間射ち続けたら、砲兵部隊は反撃を避けてさっさと移動してしまい、以後の支援射撃には加わらない。そういう約束であった。バイエルラインは怒りを沸かせなかった。各部隊がバラバラに戦っていた昨日よりは、よほどましだ。


「来た!」


 報告はそれで十分であった。我々が行かなかったのだから、彼らが来る。それは確定した未来であった。イギリス軍の前線を緊張の稲妻がかけめぐる。興奮した闘鶏の鶏冠のように、イギリス軍の軽機関銃の曲がった弾倉があちらこちらの物陰から姿を現す。


 イギリス軍は今日1日を陣地構築に費やした。危険な選択である。ブックノール・クロッカーの両軍団長の脳裏を、前年のアメリカ軍の失敗がかすめたに違いない。アメリカ軍はイタリアのアンツィオで、上陸直後の展開をためらったために周囲にドイツ軍の集結を許し、狭い地域から出られなくなったのである。しかし今度は状況が違う。連合国空軍は最前線ではなくその向こうで忙しく働き、フランスの交通網を寸断していた。1日で駆けつけられるまとまった部隊は、ドイツにはなかったのである。イギリス軍は、どちらの消耗が早いかを知っていた。


 照明弾が打ち上げられる。ドイツ軍は昨日攻撃した上陸地点西端のアロマンシュ村を避け、主力は上陸地点中央のクルイリー村付近を目指している。海軍と空軍に連絡が飛ぶ。


----



「照明弾の明かりで爆撃しろだと」


 イギリス空軍のミッチャー大尉は、陸軍の途方もない要求に対する感想を、言葉でなく表情に示した。それを言葉に示していたら、ミッチャーは軍法会議にかかったであろう。


「当てろとは期待していない」


 電話の向こうのぶっきらぼうな声は、さらにミッチャーを苛立たせた。俺たちの腕を甘く見るのか。


「混乱させるだけでいい」


 ミッチャーの飛行中隊は、栄えある大陸移駐の先陣として、海岸にワイヤーマットを敷いただけの急造飛行場に進出してきていた。その戦闘機部隊に、陸軍は地上攻撃を要請したのである。夜間に。


「わかった」


 当時の小型戦闘機にはレーダーなどない。となれば、爆撃がほとんど当てずっぽうになるばかりではない。滑走路の照明設備が整っていないのに夜間に離陸すれば、夜明けまで滑走路を視認できないのである。ミッチャーは肩をすくめて、この命令を受けた。そもそも飛行隊の進出を急ぎすぎたのだ。陸軍への義理を果たしたら、数日前までいたロンドン近郊のタングミーア基地へ舞い戻るとしよう。


 整備兵に所要の手配りをすると、ミッチャーはテントを出た。格納庫も何もないので、戦闘機の各部を点検する様子がよく見える。煙草を一服つける時間くらいはありそうである。パイロットたちがテントからのそのそはい出してくる。ほとんど与えるべき情報もないブリーフィングのために。


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 陣頭に立つバイエルラインは、師団の消耗を感じていた。陸上部隊は前進して来なくても、連合軍の砲声はきょうの昼間を通して響き続け、兵士の神経を苛んでいたのである。単なる装備弾薬の喪失以上のものが、師団にのしかかってきていた。


 クルイリー村はスール川のつくる谷間にできた村で、攻防の焦点はむしろその北の十字路であった。谷間の土手に沿って延びる道が、海岸へ続く道路と交差する。バイユー市とドゥーブル町をドイツ軍が確保している現在、この道路はカーン市へ進撃するためのイギリス軍の最後のルートであった。逆にドイツ軍がこの地点を押さえれば、ゴールド/ジュノー・ビーチの包囲環は閉じるのである。


 上陸以来補給がほとんど届いていないのは他の師団と同様であったが、バイユー市に相当のものを持ち込めているだけ、他の師団より状況はましであった。小型砲で盛んに射撃していた小隊長用の兵員輸送車が、逆に狙われて炎上する。敵の戦車が待ちきれずに位置をさらして、対戦車ロケット弾の数条の光に捉えられる。


 1台のサイドカーが単駆して、バイエルラインの通信装甲車に近づいた。ころがるように出てきた兵士が、レント中佐の別動隊の接近を知らせる。夜を待って移動を始めたレント隊は、夜間の同士討ちを避けるために伝令を送ったのである。バイエルラインは副官に命じて、勇敢な伝令の氏名を記録させた。戦闘日誌に記載したからとて俸給が上がるわけでもないが、ちょっとした名誉のご褒美である。


「抜けないな」


 バイエルラインはつぶやく。イギリス軍の防御はさすがに堅く、適切に配置された火砲が互いに支援し合って、十字路をなかなか確保できない。


「中将閣下、危険です!」


 部下の声に、バイエルラインは思わず上空を眺め渡した。


----


「飲料水です。持って行って下さい」


 整備班長の差し出す小型水筒の蓋を回して、琥珀色の飲料水をぐびりとやったミッチャーは、愛機のコクピットに納まった。エンジンが回転数を上げ、うなりを高くする。やがて戦闘機はゆっくりと滑走に入った。


 夜間飛行の経験はほとんどない。時折地上から打ち上げられる照明弾で僚機の位置が見え隠れする。


 激しく砲火が飛び交う地域が、ミッチャーの目に判然としてきた。どの当たりがドイツ軍でどの当たりがそうでないのか、とても確信が持てない。


 ミッチャーは思い切って投下を命じた。戦闘機に爆弾を積むことは、1940年にドイツ軍が試みて以来、連合軍でも盛んに行われていたが、ダイブ・ブレーキを備えた急降下爆撃機とは違って照準は不正確で、移動の妨害やトラック・火砲など脆弱な目標の攻撃でなければ戦果はあがらなかった。


 盛んに火線の上がっている一角がある。ドイツ軍の対空機関砲らしい。近づいて機銃でひとなぎにする。接近に気づかれないというのは夜間ならではである。大きな火炎が後ろに上がる。点呼を取ってみると1機減っている。引き起こしが遅すぎて地面に激突したらしい。


 もう十分であろう。損害に心を痛めつつ帰ろうとするミッチャーの無線機に、聞いたこともないコールサインが入ってきた。同時に、眼前に息を飲むような異観が広がる。


 空から地上へ幾筋もの光明が伸びる。照らし出された地上にまとまったドイツ軍がいると、光の筋はその周囲でおじぎを始め、ほどなくそこは爆発に包まれる。どうやら地上の観測班が艦砲射撃を誘導しているらしい。


 夜間に浮上したドイツの潜水艦を爆撃して沈めるため、機首にサーチライトを装備した旧式爆撃機の群れであった。どうやらモンティ(モントゴメリー)は沿岸航空軍団まで動員したらしい。


 思わず見とれるミッチャーの機体に、不快な衝撃が走る。胴体に食らったらしい。ミッチャーは迷わず風防を開けた。


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 イギリス地上部隊は、守る苦しみを味わっている。これで3台目である。またイギリス戦車が火柱を吹き上げる。ドイツ軍はどうやら悪魔のような大型砲を持っているようだった。これがあのタイガーとかいう怪物戦車か。


 1台が側面へ回り込む。昼間ならばキャタピラを狙いたいのだが、細かい照準がつかない。ドイツ戦車は少々ピントはずれの砲弾でも貫通させてしまう。古参下士官は若い兵士のパニックがいつ起こるかと気が気ではない。


 浮かんだ! サーチライトがドイツ戦車を捜し当てた。なんてことだ。イギリス戦車の倍は長さがあろうかと言う巨大なドイツ戦車が、ちょうど十字路をふさいでいる。数発の砲弾が集中する。応じて砲と砲塔が回転する様は、中世の鎧騎士が長柄の槍を回すようである。撃ってきた! 砲弾は民家のレンガ壁を軽々と引き裂き、立てこもるイギリス歩兵を吹き飛ばす。不運にも弾薬を幾らかため込んでいたらしく、爆風は建物中を荒れ狂い、屋根裏の出窓が割れる。


 イギリス兵たちがわが身の不運を呪ったそのとき、目も眩む火炎が十字路に吹き上げ、怪物戦車の砲塔が軽々と空に舞って、大音響と共に車体側面をずり落ちた。実はドイツの新型重戦車にはアキレスの踵のような弱点がある。主砲防盾の下半分が斜め下を向いていて、たまたまここに敵弾が当たると、真下へ滑って車体の弱い上面装甲を突き破ることがあるのである。イギリス兵たちは危険も忘れ、壕の縁を叩き、指笛を鳴らして快哉を叫んだ。


----


 ミッチャーのパラシュートは民家の庭先へ落下した。スコップを構えた市民が飛び出してくる。初老の男であった。男はミッチャーの制服を見ると、手を取って家の方へ引っ張って行こうとする。フランス語のできないミッチャーは戸惑った。


「……レジスタンス?」


 男はどこか曖昧に首を縦に振る。


「イングリッシュ?」


 今度は明確に首を横に振る。ミッチャーは苦笑いしながら運を天に任せた。


 家の中には夫人と若い娘がいた。男の指示でペンと紙が取り出される。筆談をしようと言うのだ。フランス人は誇り高くて英語を使わないと言う俗説があるが、実は日本と同じ英語教育上の問題を抱えていて、英語は読めるが作文と発音が苦手、というフランス人は多いのである。


「アラン・ミッチャー大尉、RAF(イギリス空軍)。海岸の基地に帰りたい」


 ミッチャーの書き込みに男がレスをつける。


「今、だめ。リーダーのレジスタンスに指示を受ける。明日」


 どことなく語順の座りが悪い。


「あ、あなた、とても幸運」


 夫人がおずおずと英語を口にする。


「他の家、貴方、撃たれる」


 男が猛烈な形相で夫人をにらむ。


 娘は黙ったままでいる。1940年以来、学校ではフランス語とドイツ語しか教わらないので、英語を書くことも話すこともできないのである。


 気まずい沈黙を破ったのは、男であった。やはり発音がたどたどしい。


「イギリスの爆弾、たくさんのフランス人、殺した。たくさんの家、焼けた」


 ミッチャーは理解した。戦闘に巻き込まれたノルマンディーのフランス人の中には、直接の加害者となった連合軍を快く思っていない者も多いのだ。互いに沈うつな表情になった。


 男は、戸棚から瓶とコップを取り出すと、中身を注いですすめた。


「カルヴァドス」


 酒の名前らしい。オーストラリア生まれのミッチャーには、ノルマンディーの林檎酒は初見参であった。林檎酒と言っても蒸留酒なので、きつい。


 視界の隅に、ミッチャーの寝床を整えようと階段を上がって行く夫人の姿が見えた。


----


「これまでだな」


 バイエルラインは静かに言った。


「攻撃開始地点まで後退だ」


 夜明けまでにしっかりした遮蔽物を確保できなければ、本格的な空襲前に撤退するほかない。地上では終始ドイツ軍が優勢だったが、海上・上空からの攻撃が着実にドイツ軍の損害を増して行った。これ以上戦闘すれば、後のないドイツ軍の戦線は崩壊する危険がある。


 潮が引くように撤退して行くドイツ軍。次第に射撃音はまばらとなって行く。


「中将閣下、差し出がましいようですが」


 参謀長がささやく。


「お休みになっては如何ですか」


 何か言い返そうとしたバイエルラインだったが、それがすでに疲労から来る不機嫌であることに気づき、苦笑いを漏らした。


「ではそうしよう」


 バイエルラインは通信装甲車の細長いシートに腰を下ろすと、すぐに寝息を立て始めた。


 バイエルラインは、ロンメルのように口やかましく、ロンメルのように勇敢であろうと努めてきた。彼にはロンメルの機転は備わっていなかったが、これは致し方がない。可能な限りにおいて、彼の手本はロンメルであった。戦場において、5時間以上は決して眠らないロンメルの真似をすることは、非常に難しい。参謀長が気を揉むゆえんである。


 少なくともバイエルラインが、誠実な上司として部下に敬愛されていることは、確かであった。



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