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信玄の厠  作者: 厠 達三
85/651

幽霊

 とにかく最近不安なので短編小説でもやってみる。


**************************************************


 アイツが俺ん家のすぐ向かいのアパートに住んでいたのを知ったのは、俺が家の前で甥と遊んでた時だった。くたびれた中古の軽に、恐らく新婚であろう嫁さんと一緒に買い物から戻ってきたところ、バッタリ出くわした。あの車はその年の春から駐車場にあったから、今まで丸二ヶ月、ご近所だったわけだ。


 ちなみにアイツは別に友達でも何でもない。ただ同学年で、中学の格闘系部活動で接点があったって程度だ。しかもオナ中でもない。地域でいがみ合ってるとなり町の中学に在籍していたほぼ他人。ただどういうわけか、対抗試合、親善試合、公式戦等々でやたら当たったのでよく憶えてる。なにしろその当時の(というか今でもそうかもしれないが)地域の対抗心てのは強烈で、負けようものなら先輩のリンチに遭うのだからやる方は必死だ。それは向こうも同じだったようで、こっちがそれなりに努力しても向こうもそれなりにレベルアップしてるので気が抜けない。戦績はよくて五分五分、公平に見て向こうの勝ち越しだったんじゃなかろうか。結局、高校に進むと俺は逃げるように帰宅部員となったのは、やっぱりアイツに負かされた気がしてたからなのだろう。アイツはそのまま同じ部活動を続けてたようだったが。


 そんなもんだからアイツの顔はあまり見たくなかった。それは向こうも同じだったらしく、俺と目が合うとバツが悪そうにちょっと手を挙げてさっさと自分たちの部屋へと入っていった。俺も軽い会釈で返すのが精一杯だった。これが少年漫画だったら過去のライバルてな感じで意気投合でもするんだろうけど、現実はそんなにアツくはない。

 ただ、近所なら一年くらい経てば一緒に酒飲める関係にでもなればいいかな、なんて漠然とは思った。


 だが現実てのはそうドラマティックでもなく、アイツと顔を合わせることなど滅多になかった。そもそも仕事の時間帯が違ってたらしい。

 次に会ったのがまたも甥が家に来てた時。姉貴の嫁ぎ先は繁忙期に甥を我が家に預けるのが不文律で、俺の両親も孫が遊びに来るのだからギブアンドテイク。が、面倒を見るのはもっぱら俺で、その日はたまたま家を空けていた。で、俺の帰りを家の前で待ってた甥は、アイツに遊んでもらってたらしい。

 楽しそうに相撲を取ってたので俺が声を掛けようとすると、やはりバツが悪そうにそそくさと立ち去った。俺も交わす言葉など用意してなかったので正直助かったのだが。でも甥の方は親しげに手を振ってたっけ。


 それから程なくしてアイツは死んだ。隣町へと続く峠のトンネルで、あのくたびれた軽で事故ったらしい。伏線はあった。


 その日の晩、嫁さんとの激しい口論が我が家でも聞こえた。そういう日は度々あった。で、大抵、アイツは嫁さん置いて車でどこかへ行って翌日まで帰ってこなかった。そんな日常の中で起きた事故だった。あの直線のトンネルで、なぜ事故が起きたのかは分からない。新聞によると無理な追い越しが原因と書いてあるきりだった。


 それから一年ほど経った頃だろうか。アイツのこともほとんど思い出さなくなった頃、やっぱり甥が遊びに来て、いつものごとく夜には俺が姉貴の嫁ぎ先に車で送り届ける段取り。

 ただその日はいつもより遅い時間だったのがいつもと違ったことだったかな。甥は助手席で眠りこけ、俺も少し急いでいたらしい。いつもより強めにアクセルを踏み込む。そしてその夜はどういうわけか交通量も少なく、妙に速いペースで隣町に繋がる峠に入った。そしてそこにはアイツが事故った、あの直線のトンネルがあった。


 そうだ。アイツはとなり町に住んでたんだ。では夫婦喧嘩の度に実家に戻ってたのなら、このトンネルを通ってたはずなのだ。そして俺の姉貴もとなり町に嫁いだから、こうしてアイツと同じコースを走ってる。アイツはなぜ、こんな直線のトンネルで事故ったのか? そんな疑問がよぎって、俺はつい、強めに踏み込んだアクセルを緩めた。その時だった。


 前方から俺の進路を塞ぐように、突然四つのヘッドランプが出現した。その瞬間、全てを理解した俺は回避行動に全神経を注ぐ。車をギリギリまで路肩に寄せ、できうる限りの減速をして、狭い二車線のトンネルでどうにか三台抜けられるスペースを確保。無理な追い越しをかましたバカドライバーはクラクションを置土産に対向車と共に後方へと消えていった。


 そうだったのだ。このトンネルは中間地点と出入口で僅かに高低差があり、対向車が見え辛い構造になっていた。そのため対向車のスピードがお互い乗っていると中間地点まで対向車に気付かないという欠陥があった。アイツもこれにやられたのだ。もし俺があの瞬間、アイツの死に思いを馳せなければ、俺も同じ運命を辿ったはずなのだ。ただ、俺がアイツと違ったのは予備知識があったこと、そして隣に甥を乗せていたことだった。


 甥は俺と共にあの世に片足突っ込んでた事実も知らず、のんきに寝息を立てていた。それから俺はしばらく震える両手両足を駆使して、どうにか姉貴の家に辿り着いた。


 あれからもう十数年経ち、甥は元気にバイクなど乗り回している。アイツの嫁さんも再婚して向かいのアパートにそのまま住んでいる。あのトンネルも工事され、高低差の欠陥もなくなった。

 もしかすると俺はアイツに助けられたのではないか。あるいは甥に助けられたのではないか。俺はあの時まで幽霊なんてもんを信じちゃいなかったが、世間で言う、恨みやつらみとはまた違ったベクトルで、確かに存在するんじゃないか、そう考えを改めるようになった。

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