もしも自分に……
泣いた。どういうわけだかイイ歳こいて無性に泣いた。カーラジオから聞こえてきた西田俊之氏歌う「もしもピアノが弾けたなら」が流れたとき、涙を流さずにおれなかった。
こんな有名曲、子供の頃から知ってる。誰だって知ってる。いい曲だとは思ってたけど歌詞などさほど気にしてなかった。でも泣いた。これ、今の自分を歌った曲じゃん!
今まで自分はこの曲をウジウジ悩んだひきこもりブサメンが高嶺の花に一方的に想いを寄せる軟弱な歌だと思っていた。それはそれで別にいいと思う。詩の解釈なんて人それぞれだし、そういう内容であったとしても心の琴線に触れる部分は充分あると思う。でも、今の自分は全然違う解釈をしてしまった。ここからはその自分の勝手な曲の解釈を書く。
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まず「僕」がピアノを弾いて歌を贈りたい相手、異性か同性かは分からないが、多分、どうにもならない苦境にいるのだろう。その相手がピアノが好きかどうかは分からない。でも「僕」には何もできることがない。せめてピアノでも弾けたなら励ますことができるのに、と。
いや多分「僕」はそこそこ弾けるのだろう。人並み以上に弾ける自信もあるのだろう。そうでなければなんの脈絡もなくピアノなど出てくる説明がつかない。でも、さすがにプロ並みの、人を感動させたりムーブメントを起こすほどの実力はない。それを「僕」は誰よりもよく分かってるのだろう。
もし、「僕」にそれだけの実力があったなら、たとえなんの役にも立たなくっても、相手を励ますことができるのに、応援することができるのに、と。でも、残念なことに「僕」はそんな腕を持ってない。哀しいけどそれが現実なのだ。そのどうにもならない現実を嘆いた歌だった。
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今からでもピアノ習って好きな女性にアプローチして玉砕すればいいという解釈は、今の自分にはできなかった。サビの部分が流れた時、自分は車の中で情けないことに涙を流してしまっていた。
この曲の作詞は阿久悠という、昭和の超ヒットメーカーというのは誰でも知ってることだろう。自分もその程度しか知らない。その作詞家がどういう気持ちでこの曲を書いたのかは自分は知らない。でも、今はこの曲は今の自分を歌った曲だと思った。多分、同じような解釈をして泣いた人は当時からたくさんいたのだろう。きっと同じような無力感に涙を流さずにおれなかった人は大勢いるだろう。
この曲に限らず、時代を超えて語られる作品ってのはそういう力を持っているのだろうと、素人ながら物を書いてる自分はつくづく思い知らされた。




