表現って、なに?
もちろんこれらは素人の勝手な憶測です。事実と異なる可能性を多分に含むことをアナウンスしておきます。
でも、事実と異なってたとしても、最初の不自由展の中止を不当とする論調はどっかおかしかったという考えを改めるつもりはありません。不自由展が何を企図した催しかは自分は正確に知るわけではありませんが、一般に展示するなら、その目的と意図をまず明らかにすべきだと思います。
そのうえで行政もある程度の線引きを行い、公共施設を提供している立場上、中止させる裁量はあって然るべきだと思います。表現の自由ってのは全然ベクトルの違う問題のはずなのです。
別に自分は反日許すまじなんて言いたいわけではなく、むしろ逆で、反日結構、大いにやってくださいというスタンスです。でもその前提条件として、やるからにはまず反日、ヘイトの意図があるという事実を明確にすべきとは思いますけど。公共の施設なんか借りて◯◯の不自由なんてあやふやなタイトルでやられたら反日なんて嘘臭くて信用できません。そんなヌルいことやってないで堂々と反日を名乗って自分の家ででもやりゃいいのです。そこまでの気概を見せられれば共感できます。
表現の自由ってのは確かに検閲や公権力による迫害から守られるために憲法で保証はされてるけど、だからといって何でもやっていいってわけじゃないってことくらいは自分だって知ってます。自由が保証されてるからこそ表現者は自制を働かせなきゃなんないってのはもう常識のはずなんですよね。それはメディアがやってる商品の映像にボカシを入れる程度のレベルとは話が違います。
好意的に解釈して不自由展の企図が戦時中、検閲にあって封印された作品に光を当てる、ってものなら大いに意義はあると思います。しかし不自由展が展示していたものの大半はメディアで確認した限りそういうものではない。誰でもよく知ってる、嫌でも目についてしまうものを堂々と展示し、ある特定の層を意図して不快にさせることを目的とした、まあ、言ってしまえば分かりやすいアジです。そんなアジを公共の施設で展示することについて、表現の自由を持ち出すのは果たして適切なのかと思うわけです。
もちろん、メディアが取り上げたのが分かりやすい展示物だけであった可能性は否定はできません。有意義な展示物ももしかするとあったかもです。でも、その中に、ある特定の層を不快にさせる、思想性を帯びたアジが含まれているのなら、それは展示者側が自制を働かせて然るべきではないかと思うのです。それがないなら場所を提供した行政が判断するしかないと思います。第三者が迷惑や損害を被る可能性を多分に含んだ公共の施設であればなおのこと、管理責任のある行政が介入して然るべきだと個人的に思うのです。
もしこれが自分だったら、表現者として誰かよく分からない人の作品を、容易に注目集めて議論を巻き起こすアジを展示したいかと問われれば個人的にはノーです。そんな責任も負えない議論をふっかけて収拾つかなくなって姿をくらますくらいなら、誰にも注目されない、毒にも薬にもならないつまんない作品でもいいから、少なくとも自作と言えるものを投稿して、それでよしとします。
だってそれが思想性で水増ししてない、嘘偽りのない自分の実力なんですもん。




