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信玄の厠  作者: 厠 達三
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ホワイトブレイクダウン  終章

「ときに、君の家庭はお父上が介護が必要な状態で、お母様がご高齢にも関わらず介護されてるようじゃないか」

 なぜ、この所長はそんなことを知っているのか。いや、職員の個人情報など調べようと思えばいくらでも調べられる。水野は嫌な気しかしない。


「そんな状態で、君は責任を取ると言っている。それが何を意味するのかは私には分からんが、少し冷静になった方がいいんじゃないのかね。例えば君が仕事を辞めて、次の就職先のツテでもあるのかね? ん?」


 所長が立ち上がり、水野の傍に寄って肩に手を置く。雨の音は一向に衰える気配はない。

「悪いことは言わん。今は事態を静観し給え。君がここで正義感にかられて先走るのはいい。だがね、それで結果が全て良い方向に向かうとは限らんのだよ。私に言えるのはここまでだ。分かったら君も部署に戻って指示を待ち給え」


 もう水野には抗う術はなかった。これはこのダムひとつでどうこうできる問題ではなかった。もっと上のレベルで話ができていたのだ。それがどういう力学によるものかは水野には窺い知れなかったが、現場主任や所長を説得して片付く話ではなかったのだ。


 水野と安藤が退室して数時間後、予想通り田上ダムが放流を開始。水野のいる田野中ダムも放流せざるを得なくなった。最悪のタイミングだった。


 もうその後の事態は容易に想像できた。限界値以上の水が河川に流入。市内の堤防も決壊。5年の時を隔てて、未曾有の水害に再び地域住民は晒されたのだった。


 数日後、その大水害の処理に追われる中、両ダムの責任者が揃って頭を下げる姿は一応、全国に報道されたものの、彼らは左遷という名目の配置転換されたのみで、実質、誰も責任を取らされることはなかった。安藤も市役所に配置転換されたのみで、むしろ栄転とさえ思える処遇だった。


 やがて市内の復興も始まった頃、県は政府から災害復興支援という名目の助成金を取り付けた。水野はある事件を思い出した。確か現政権は我が県に設立される予定だった大学への助成金がらみで追求を受けていた。下手をすると政権が倒れかねないスキャンダルで、連日報道されていた。県としてもそんな大学との黒い癒着を疑われるわけにはいかないと、強硬な姿勢で政府に対応していた。倒閣を狙う野党と一部メディアもその事件を注視していた。


 が、今回の水害で県は政府から助成金というカネを受け取ったことにより、その大学の一件はほぼ話題に上らなくなった。政権と県の間でツーカーの合意がなされたのは想像に難くない。


 ダムの管理車両に乗って同僚と共に被災地を回る水野。やはりと言おうか、水野に対する被災者らの目は厳しい。

 あの時、水野の意見が通っていれば災害は起きなかったのか、それは分からない。ある程度は軽減できたかのかもしれないが、それも焼け石に水であったかもしれない。その事実を問い詰める相手などもう、事実上ひとりもいない。


 県も災害復興だけではお釣りが来るほどの助成金を得た。それも結果的に良かったのか悪かったのかは分からない。ただ、この水害でいよいよ解散かと取り沙汰された政権のスキャンダルは、まったくと言っていいほど話題に上ることはなくなった。


 政権の進める経済政策は一向に出口が見えず、次々と重要法案が可決され、メディアは政権に阿諛追従している。


 水害によって黄土色に染まった市内を眺めつつ、自分が生きている間だけのことさ、と、水野は半ば諦めにも似た言い訳を心の中でしながら、その光景から目を背けた。



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