十一.墜ちゆく鷹【2】(★)
※挿絵は中ほどにあります。
剣を地に突き刺し手放すと、緑鷹は懐から折り畳まれた紙を取り出す。書かれた文字が見えるよう広げて、珠帝へと示した。
「此れは、陛下を弑し奉ろうとした者が……私に寄越した書状です。送り主の名は、此処。陛下ならお察しのことでしょう」
文を受け取った珠帝は、緑鷹が指差した差出人の名を見る。其れは確かに、彼女が予想していた者の名であった。
「茗に戻って直ぐ、私の帰還を嗅ぎ付けた彼から受け取りました。私は文にある通りの日時に彼と会い、陛下暗殺を持ち掛けられたのです」
珠帝は、幾ばくかの疑いを孕んだ目で緑鷹を見た。
「紫暗に奴の身辺を探らせてみるのがよろしかろう。奴と私、他にも数名の名が並んだ連判の書が出てくるはず」
其処まで言うと、緑鷹は一度言葉を切った。珠帝は暫時、彼が持つ書状を眺めていたが、ややあって其れを受け取り、自分の懐中にしまい込んだ。
「……もう一つ二つ、告白しましょうか」
珠帝の顔を見て、只静かに続きを促している視線を確認すると、一呼吸置いて話し出す。
「私は陛下のお許し無く珪楽に赴き、お探しの光龍と行動を共にする蒼稀上校と見えました。光龍を捕らえよという命を無視しただけでなく、上校に聖安の『二の姫』の居場所を伝えました」
己が犯した、極刑に処されて当然の重罪を、憚ることなく暴露する。後ろめたさはまるで無いらしく、威圧感溢れる珠帝の鋭利な眼差しを、露程にも気にしていない。
「陛下のやり方が、気に入らないのです。此れは、立派な背信ではありませぬか」
「……『緑鷹』」
玄武ではない、彼の真名で呼び掛けると、珠帝は深く嘆息した。
「妾に何をさせようとしておる。奴と共に……おまえを処断すると言わせたいのか」
「……陛下ならば、焔の女傑と畏怖される貴女ならば、正しい判断をされると信じております」
「おまえは……!」
何時の間に、珠帝の語気には怒りと取れるものが含まれていた。対する緑鷹はというと、悪びれる様子も無く含み笑いをしている。
「此れまでに……陛下誅殺を企んだ罪人を如何してきましたか。奴や私にも、そうすべきではないのですか」
珠帝は、緑鷹は気が触れたのではないかと思った。もし正気ならば、此の言動を成しているであろう彼の『自尊心』は賞賛に値する。
「……おまえは、妾の用意した『玄武としての死』が余程気に入らなかったと見える」
将軍でありながら海賊に与するという、緑鷹の愚行の存在は明らかである。本来ならば厳罰に処するべきところを、珠帝は敢えてそうせず『殉死』と公表した。茗国内において、聖安への憎しみを増長させる目的も、確かに有った。だが結果的に、『玄武』を『戦場』で『将軍』として死なせたのだ。
表向きには名誉の死、されど緑鷹自身にとっては、聖安軍に敗れたという屈辱となる無念の死……朱雀も白虎も、其れが緑鷹にとっては酷な仕打ちであり、珠帝の裁断とは思えぬものととらえていたが、緑鷹本人は違った。受け入れがたい処置なれど、実に珠帝らしいと考えていた。
――長年の臣下である俺に残酷に為りきれず、表面だけでも俺の最期を『将軍』として飾りたかったのだろう。たとえ、俺に憎悪されることに為ろうとも。
緑鷹はそう読んでいたが、口に出すことはなかった。珠帝の計らいが気に入らず、認められなかったからである。代わりに、先程の珠帝の言葉に応えることにした。
「仰せの通り。そして、十九年前の約束を思い出し、貴女に剣を向けたのです。だが……」
視線を落とし、突き立てた剣を見やると、緑鷹は苦々しげに冷笑した。
「暫く見ぬうちに、随分とお力を付けたようだ。陛下ご自身に私の剣を受ける気がない以上、今の私では……斬ることはおろか、御身を掠めることすら出来ませぬ」
先程の『攻防』で、其れは珠帝にもはっきりと分かった。
――詰まるところ、妾に断罪せよと言いたいのだな。
珠帝の知る緑鷹は、斯様な駆け引きめいたやり取りが嫌いな男だ。其れでもこうして仕掛けてくるということは、いよいよ覚悟を決めているのだろう。
……そう悟った彼女は、深々と息を吐いた。
「緑鷹、分かっておろう。『大逆という罪』は、おまえの命一つでは贖い切れぬのだ。おまえが死した後は、おまえの一族全てが打首と為る。おまえが娶った妻も、おまえの子も、全て死に絶えるのだぞ」
淡々と、緑鷹を怯ませる積もりで言い放つが、彼にとっては何ということもない脅しである。眉一つ動かさずに、感情の籠らぬ声で短く返答した。
「私が其の類のことを気にせぬのは、良くご存知でしょうに」
自分の子や、子を産んだ女が死ぬと言われても、何とも感じない。そんなことよりも、自分の誇りや意志を守る方が、彼にとっては重要なのだ。
――此の分だと、近いうちに……まともに戦うことすら出来なく為るだろうしな。
残された右手も、蒼稀上校の攻撃に依って深手を負った。肩から肘に掛けて剣で抉られ、ほぼ潰されたも同然という有様だった。今は瑠璃の治癒術と己の気力で保ち堪え、見た目でも分からぬようにしているが、剣士の腕として機能しなく為るのは時間の問題だろう。
緑鷹は其の現実を、珠帝の命を狙った振りをしてまで、受け入れることが出来なかった。『聖安に負け、珠帝に情けを掛けられた、剣を振るうことすら出来ない玄武』として生き続けるよりは、『珠帝に刃を向け裁かれた緑鷹』として死ぬことこそが、彼の真なる望みであった。
彼は珠帝の顔を真直ぐに見た。完璧な美貌には、僅かな戸惑いが浮かんでいる。右手に剣を握ったまま放そうとはしないが、緑鷹に切先を向ける気配は窺えない。
鋼鉄のように冷たく重く、揺るぎない強さ。噴き上がり、全てを嘗め尽くす火炎の如き激しさ。珠玉という女は、茗の王と為るために此れら天与の賜を授かった。世間はそんな彼女を『人間離れしている』『血が通っていない』などと陳腐な言葉で表す。しかし焔の女傑とて、人。己が覇道の殆どを共に歩んできた、優れた武人を斬り捨てるは、自分の手足を失うのと同義であった。
其のことを、緑鷹は良く知っている。だが珠帝は、人間であるよりも先ず王なのだ。王である自分と人である自分がぶつかれば、間違いなく前者として振る舞う。今直ぐでなくとも、珠帝が自分を捕えていずれ刑に処すだろうと……緑鷹は信じている。彼が生涯で只一人仕えた王は、そういう器の女だと確信している。
――俺を殺すのに此処まで迷うとは……意外だったな。
久方振りに珠帝と見えた時、彼は思ったよりも早くことが済みそうだと思っていた。紫暗の言っていた通りで、彼女の気と力は変わり果てて人らしさを失いつつ有り、自分との繋がりも薄れているだろうと直感的に考えたからだ。其れが、態態妻や子のことまで持ち出して、思い留まらせようとするとは。
――やはり、何処までも儘ならぬ女だ。
暫くの間、珠帝と緑鷹は言葉を発さぬまま見詰め合っていた。只、静かに時を共有し、互いに様々な思いを巡らせていた。
やがて珠帝が、再び剣に左手を添えた。刀身を持ち上げ構えると緑鷹へと向ける。剣先は少しも下がっておらず、真っ直ぐに狙いを彼に定めていた。
「……お決めになりましたか」
口の端を歪めた緑鷹の声は、心なしか喜んでいるように聴こえた。腰を落として片膝を付き、珠帝の前に無防備な姿勢で跪いた。
彼を見下ろす珠帝の瞳には、彼女らしい輝光が宿っていない。心の内に座する、王の声を聴き入れ意を決し、『人の心』を殺しているのだろうか。
「……今此処で、妾自ら。おまえの崇高な眼差しを、他の者に晒したくはない」
正式な場で叛逆の罪に問えば、珠帝は傷一つ負っていないとはいえ、緑鷹の死罪は免れぬ。公衆の面前で、見せしめの如き処刑が待っているのである。
「茗の英雄であるおまえには……せめて、妾の剣を」
「……陛下、光栄でございます」
緑鷹は笑って、首を垂れる。命を差し出しているというのに、彼の身体は微塵も震えず、卑しさの欠片も無い。
――此の状況……何処かで。
振り落とされてくる剣を待ちながら、ふと、彼は思い出す。あれは随加近海にて、蒼稀蘢に破れて首を斬られそうになった時だ。
――あの時よりは、ずっと良い。
頭を下げたまま目を閉じ、緑鷹は終わりへ向かおうとしている……しかし、彼には見えぬ所で、珠帝は思い惑っていた。剣を掴む手に力を込められず、気を抜けば取り落としてしまいそうな程であった。
――妾は今更、何を迷っているのだ。
己の手で人を殺したことなど、何度も、覚えていない程数多く有る。自分の命を狙った刺客を其の場で返り討ちにしたことも有る。首を刎ねた経験も幾度か有る……躊躇うことなど無い。
――力を籠めねば仕損じてしまう。
集中出来ないのは何故なのか、彼女自身良く解らなかった。こうした事態に為ることは、かなり前から予期していたはずだ。『玄武殉死』と偽りの公表をした時……いや、彼を敵国聖安へやった時から、腹を決めていた。
ところが彼女の思考は乱れ、錯綜している。黒神の力を得始めてから時折有ることだが、彼の君の影響なのだろうか……彼女自身では、原因は其れしかないと思っていた。何故なら、自分の精神は鋼のように強靱だから。完全無欠であると、信じて疑わないからだ。
……少し間を置き、珠帝の剣は振り下ろされた。
血は……迸り出ない。落ちるはずの首も落ちていない。骨肉を断った音も聴こえない。緑鷹の首を斬るはずの白刃は空を切り、彼の傍らへと逸れた……珠帝の剣は、外れたのだ。
――馬鹿な。
珠帝は歯を噛み締め、俯く。眉根を顰めて前を見やると、視線を上げていた緑鷹の顔が在った。
「緑……鷹」
小刻みに震える手を、如何しても抑えられなかった。確実に、一刀の下に斬首する自信が無かった……斬り損じれば、此の誇り高い男を必要以上に苦しませることに為る。
緑鷹はさぞや呆れていることだろう……怒っているかもしれない。そんな想像を持って彼の顔を見たが、怒りも失望も映し出してはいなかった。
覇気がなく神妙で、別人のような表情。微笑に近いが、笑っているとは言い表せず、己が運命を慎ましやかに待ち受けているかの如く……穏やかな面持ち。珠帝ですら、今の緑鷹の心情を解することは出来なかった。
沈黙が広がり、二人の間で時が止まる。只、互いに見詰め合う。相手の思考を、想いを感じ取ろうとして、言葉を持つことすら忘れていたのかもしれぬ。
程無くして、先に動いたのは緑鷹の方だった。何かに呼ばれたのか、突然珠帝に背を向けたのだ。
「……其の覚悟、しかと見届けた」
静かで抑揚の無い冷たい声が、緑鷹の耳に届く。彼だけに囁かれた声の主は、次の刹那、突として背後に姿を現した。黒い着物に身を包んだ、黒髪の女……彼の良く見知った、闇に仕えし美女であった。
振り返る緑鷹の眼前に飛び出した彼の女は、抜き払った剣を両手で握り構えている。剣尖は緑鷹へと向けられ、銀の刀身は鋭く閃めいていた。
――そうか、瑠璃は……何処となく陛下に似ているのだ……
彼を魅了してやまぬ、神々しいまでの美しさだけではない。強き己を保ち、何者にも染まらない燃える魂もまた、二人ともに共通している。
――ゆえに、惹かれたのかもしれんな。
瑠璃の剣が、緑鷹の胸を正面から貫く。心の臓を一突きされた彼は、呻き声すら立てず数瞬にして絶命する。珠帝が望んだ通りの……見事な死であった。
力を失った緑鷹の身体は、剣を突き刺された状態で瑠璃の方へと倒れ掛かる。彼女が剣を引き抜くと支えを無くし、其のまま床へと崩れ落ちた。
幾度となく自分を抱いた男を手に掛けておきながら、瑠璃の顔は凍てついている。何の躊躇も無く彼の命を奪い、其の後少しの未練も後悔も無いようだった。
「黒巫女……そなた、何故」
懐から布を取り出した瑠璃は、剣に付いた血を拭うと顔を上げ、唖然とする珠帝を見据えた。
「……将軍は、陛下に剣を向けました」
「緑鷹に殺意は無かったであろう。妾に詭弁は通じぬぞ」
明らかな苛立ちを含んだ声で、珠帝はすかさず両断する。
「……『あれ』を欲するのなら、陛下は全てを賭けねばならない……彼の君に、こう告げられたのではありませぬか」
平然とした瑠璃の言葉に、珠帝ははっとした。あの恐ろしい邪神が初めて降臨した夜、彼が確かにそう言っていたのを思い出したのだ。
「代償……か。だが、緑鷹だけではないのだろう?」
『全てを賭けねばならぬ』と、黒神は言っていた。珠帝が望みのものを得るには、彼女が尊ぶ全てのものを奪われねばならぬのだろうか。
「……あとどれだけのものをお取りになれば、我が君が満足されるのか……私にも分かりませぬ。あの御方の御心は、誰にも分からぬのです」
静かに告げた瑠璃を暫し睨まえた後、珠帝は膝立ちと為り、傍に剣を置いた。彼女が人前で膝を屈めるなど、『相手が神でもない限り』有り得ぬこと……しかし今は、気に留めていない。
「……されど、妾もまた……覚悟の上ぞ」
永久に瞑目した緑鷹をゆるりと見下ろすと、珠帝は彼の顔に手を伸ばす。赤墨の髪を横に除け、左頬から耳の付根にかけて走る……彼にとっての屈辱の傷跡を、指の先で軽くなぞった。
――緑鷹……妾もおまえと同様、やり遂げねばならぬのだ。何を失ったとしても、守らねばならぬものが有るのだ。
彼から目を離し、幾人もの帝の魂を祀る祭壇を徐ろに見上げる。
――『陛下』、改めて……貴方の御前でも誓いましょうぞ。貴方を殺めてまで手に入れた『貴きもの』を、必ずや守り抜くと。
少し経つと剣を手にして立ち上がり、緑鷹を挟んで瑠璃に背を向ける。肩越しに彼女を一瞥して、何の言葉も発さずに鉄扉を開け廟から出て行った。
珠帝が去ると瑠璃もまた、緑鷹を見下ろした。心が欠如しているかのような空虚な瞳は、何も語ることがない。此の男と出会い、二度命を助けながらも己が手で殺めるに至り、彼女が如何な想いを抱いていたのかは……何も窺い知ることが出来ない。
開いた扉の隙間から、強い夜風が入り込む。寂しげな音色で鳴きながら、瑠璃と緑鷹を撫でては通り越してゆく。
「……さようなら、緑鷹さま」
微かな声で呟くと、踵を返す。珠帝と同様、横たわる緑鷹を一度も振り返ることなく足早に退出した。
……此れが、茗の四星の一として女帝に仕えた『玄武』の最期であった。
珠帝が瑠璃に言われて思い出した、『黒神の言葉』は、序章「紫黒暗香」での黒神と珠帝のやりとりにあります。




