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金色の螺旋  作者: 亜薇
第八章 霞む四星
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九.赤光の盟約

 十九年前、あの雨の日。珠妃しゅひと呼ばれていた女の命により、緑鷹は主君を弑逆した。の王は名君と呼ぶに十分な王ではあるが、保守的で退屈させる王だった。其の治世に安定は望めても進化は望めぬという、凡庸ではないが非凡でもない、無難な為政いせい者であった。

 緑鷹にとっては、大して思い入れのある帝ではなかった。此の先何年仕えても何の面白味も無い、詰まらぬ男だと思っていた。ゆえに暗殺の下命は刺激的であり、珠妃という女に対する興味をより一層掻き立たせた。

 王が死に、珠妃の即位が決まった日の夕刻……緑鷹が紫暗を訪ねる前。珠妃は後宮とは別の自分の宮に、緑鷹を人知れず召致した。当時から警戒心が強く、自室に他人を入れようとしなかった彼女が緑鷹を呼んだのは、此れが初めてだった。

 生成きなりの白い喪服を纏った珠妃は、長椅子に腰掛けて手摺てすりに肘を置き、悠然と構えて微笑んでいた。彼女はまだ二十歳にも為らぬ、うら若きたおやかな美女。帝国一と謳われる美貌は花開いたばかりだが、威風は既に、長年玉座に君臨する王の其れであった。

 彼女の鮮やかな笑みを見たとき、緑鷹の目は思わずくらみそうに為る。自分の下した命とはいえ、夫を喪って悲しそうな表情をするのでもなく、企みが成功して満足げな表情をしているのでもない。彼女にとっては至って普通の、何時も通りの艶笑は、ほんの一瞬ではあったが緑鷹を凍り付かせた。

「緑鷹、実に冴えた……見事な一閃いっせんであった。やはりおまえに任せたのは正しかった」

 今朝方、緑鷹が皇帝の御首を一刀のもとにねた時、珠妃も其の場に居合わせていた。其れは彼女の命令であり、譲れない要望でもあったのだ。

「お褒めにあずかり光栄です」

 ひざまずいた緑鷹は、ぎこちなくこうべを垂れて応えた。未だ年若く、只でさえ気位の高い彼は、貴人の前での振る舞いに慣れていなかった。

「おまえの働きで、妾は玉座を得ることが出来た。おまえの望みは何だ? 妾に叶えられることなら、何なりと聞こう」

 そう言われ、緑鷹は暫し沈思していた。珠妃の申出をいぶかしがり、彼女が美麗な笑みと言葉の裏に隠した真意を探っていた……彼は珠妃の次の出方を警戒していたのだ。暗殺を請け負った自分は口封じのため、殺されてもおかしくないのだから。

「……一つ、お尋ねしても?」

 謀叛むほんの話を受けた時から、緑鷹には気に為っていたことが有った。手筈通り皇帝を殺し、自分に命が残っていたら、珠妃に尋ねてみようと思っていた。

「何故、私をお選びになったのですか。剣の腕ならば……少将の方が優れているはず」

 彼の言う『……少将』とは、後に青竜と呼ばれる青年のことである。矜持きょうじに満ち、己の実力に自信を持つ緑鷹らしくない問いだった。しかし、少将の腕は此の頃既に帝国随一と言われており、緑鷹でさえも素直に認めざるを得なかったのである。

 緑鷹は頭を下げたままであったが、彼の声からは、腹立たしいのか悔しいのか、とにかく得心とくしんがいかないという心情が漏れ出ている。主の前でもそうした感情を隠し切れない彼を見下ろし、珠妃は愉しげに答えた。

「おまえならば、一太刀ひとたちで陛下を斬れると思ったからこそ……任せたのだ。少将は陛下に恩が有った。確かに力量は申し分無いが、其の時になって剣閃けんせんが鈍らないとも限らぬ。彼奴あやつは真面目過ぎるからのう」

 其の答えは、緑鷹が予想していたものと大体のところ一致していた。彼は少将と同じ禁軍属ながら、直下で働いたことは無い。只、少将が愚直なまでに堅実な男だということは聞いていた。

「一撃で……冥府へ送ってもらわねばならなかったのだ。陛下を苦しませるのは、実に忍びなかった」

 珠妃の此の言葉は、緑鷹の予想を飛び越えていた。彼女ともあろう『女傑』の発言とはとても思えず、彼女の本心とも思えなかった。

「其れは……真のお心でしょうか」

 怪訝そうに、はばかることなく問うた緑鷹に対し、珠妃が気分を害した様子は無い。

「信じられないであろうが……緑鷹よ。妾は陛下を愛していたのだよ」

 彼女の眼差しは驚く程優しく、切ない。其の瞳こそが真実であると……緑鷹には見抜けなかった。

「では……」

 何故弑したてまつったのですか、と口に出し掛けて、止めた。愛していたなどと、綺麗な虚飾を並べる珠妃の矛盾を突いてやろうと思ったのだが、下手な失言で彼女の感情を逆撫ですることは、今は賢明ではない。

 されど、珠妃は緑鷹の内心を容易に見抜いていた。彼女は不意に立ち上がり、黄昏たそがれ赤光しゃっこうが注ぎ込む窓辺へと歩いてゆく。雨が降っているというのに、雲間から落陽が見えている……そんな珍しい夕空を仰いだまま、静かに呟いた。

「愛した御方と寄り添い、生を終えるのも……良いのだろう。だが妾には、何かが違った。あの違和感に耐えられなかった……妾が全てを懸けるべきものは、他にあるのではないかという疑念に、辛抱出来なくなったのだ」

――では、結局……愛していなかったのではないか。

 緑鷹は、珠妃の言うことを少しも飲み込めなかった。彼自身、愛というものを知らぬ。しかし此の女が真情を述べているのだとすれば、彼女の『愛』が普通の人間の言う『愛』と違うのだということは、何となく理解していた。

 腑に落ちない顔をした緑鷹の方へ向き直ると、珠妃は再び華の如く微笑んだ。其の時には、僅か一時見せた憂いの表情ではなく、何時も通りのしたたかな顔に戻っていた。

「おまえの望みを……当ててやろうか」

 身を屈め、片膝を付いている緑鷹と目線を合わせると、耳元で妖しくささやく。其の艶声は、若い緑鷹をいとも簡単に扇情せんじょうする……悪戯いたずらめいた色香を含んでいた。

「おまえは一見単純で、刹那的な生き方をしていると思われがちだが……実際は表層だけだ。心奥ではより深く、尊く気高いものを望んでいる」

 短気で気性が荒く、傲岸不遜で利己的。冷酷で、己の欲望を満たすためなら手段を選ばぬ男。少年の頃から、周囲の緑鷹に対する見方は変わらない。本人にもそうした自覚が有ったため、珠妃の口にした評価は思い掛けないものだった。

「……おまえは羽虫を潰すように人を殺し、傷付ける。まるで玩具を扱うように……女を犯す。そういう面ばかりが表に出て、おまえの真の志を覆い隠しているのだ」

 事実緑鷹は、其の人間性が起因と為り軍内部でも持て余されていた。恐ろしく腕が立ち、天才と呼ばれることも有ったが、運が悪ければ将校にすら為れなかったやもしれぬ。

――思えば……俺を何かと取り立ててくれたのは、此の女だけだったな。

 貴族の出でもない、何の後ろ盾も無い彼に目を掛け、事あるごとに機会を与えてくれたのは……他の誰でもない、珠妃ただひとりだけ。

「妾の下には、意志無き者など要らぬ。『王たる』妾と近しい夢を持つ者にこそ、相応の地位を与えて歩ませたい。おまえの望みは……」

 黄みの白い喪服袖を払い、繊細な指先で緑鷹の頬に触れる。凝然ぎょうぜんたる彼を、炎炎えんえんとする双眸そうぼうに映し込み、凜凜と言い放った。

「高みへ……より高みへ。己の剣でのし上がり、一国を……やがて此の世を震撼させる男と為る。其れこそが、おまえが真に成し遂げたい夢であろう」

 たった一言が、緑鷹を茫然とさせる。雷に打たれたような衝撃に、彼は目眩を覚えそうに為った。珠妃の言葉が、何年もの間忘れていた宿望しゅくぼうを思い出させ、彼を心底から揺さぶったのだ。

「……約束しよう。至高の玉座に付いた妾の剣と為ってくれるのなら、妾が……茗の王たる妾が、おまえが高みへと上る助力と為ろう」

 緑鷹は放心して絶句したまま、暫しの間動けなかった。紫暗とだけ共有し、忘却していた遠大な夢を、眼前の女に難なく言い当てられてしまったことが信じられない。だが同時に、自分でも不可思議なことに、浮き立ち躍るような感覚を抱き始めている。

 彼がほうけていると、何時の間にか珠妃は椅子に戻って座していた。

如何どうだ。おまえの口から……応えてくれぬか」

 反射的に顔を上げた緑鷹は、彼女の艶姿えんしを再び目に入れる。きつい西日に照らされて、珠妃の纏う白い着物は赤く染め上げられていた。其の様は、彼女の心からほとばしる炎が全身を包み込んでいるようにも、彼女が殺した夫の血を浴びたかのようにも見えた。

……熾烈しれつな光に晒され、緑鷹はゆっくりと目を閉じた。



 残照が消え掛け、宵闇広がる時分。紫暗の屋敷から帰って来た緑鷹は、何時も通りに待っていた瑠璃を抱いた。事を終えて暫し余韻に浸った後……酒が入っていたこともあってか、彼はやや饒舌に為り、今まで語ろうとしなかった己の過去を、ぽつりぽつりと話し出したのだった。

「其れで、何と答えたのだ」

 寝台の上、緑鷹の傍らで横臥おうがしていた瑠璃が、彼の頬に刻まれた傷を手の甲で撫でている。閉じていた瞳をうっすらと開いた緑鷹は、小さな溜息をついて首を横に振った。

「……忘れた。其の後が思い出せん」

 ぞんざいに言うと、顔を逸らしてまた瞑目めいもくする。

「本当か? 一番重要なところではないか」

「……二十年も前の話を、みんな覚えているわけがなかろう」

 珍しく答えを追求してくる瑠璃を躱し、残った右手で彼女の髪をく。珪楽で蒼稀上校から受けた右肩の刺傷は、『黒の神巫女』の神術で塞がれているとはいえ未だ……痛む。

 聖地珪楽より帰ってからというもの、瑠璃の黒い神気は確実に弱まっていた。隠神術を維持するのも辛いらしく、緑鷹と居る時はほぼ完全に解いている。身体が拒む聖の神気を大量に受けた所為、というのは明らかで、暫く経った今も回復の兆しは見えなかった。

 こう為ることは、聡い瑠璃には当然分かっていたはず。あの時、無理をして緑鷹を連れ帰ったのは何故なのか……彼には分からなかった。

――俺に情がいたのでもなかろうに。

 非天という者は、人と同じ心を持たぬそうだ。特に『黒神の黒巫女』というのは、美しい姿をしてはいるが魂は獣の其れであり、本心から泣くことも笑うこともない。殺戮を好み、色を好むさがは、此の世の悪の象徴たる黒神ととても似通っているのだという。五百年ごとに転生するが、闇龍として生まれた女は皆同じ性質を持つらしい。

 普段書など読まぬ緑鷹が、瑠璃が闇龍であると知ってから手に取った書に記されていた。真実かどうかは分からぬが、完全に外れているということもないのだろう。

「俺は、陛下に会いに行く。恐らく……おまえとはもう会えぬだろう」

 突として言った緑鷹に、瑠璃はほんの数瞬だけ困った顔を見せた。直ぐにまた元に戻り、何とも無かったように笑み掛けると、片手で頬杖を付いてから小首をかしげた。

「やはり、行かねば気が済まぬか。見掛けに依らず忠義に厚いのだな」

「……そんなことはない。俺は『上』に対する礼節など重んじぬし、国にも皇家にも忠誠心など持ち合わせていない」

 緑鷹は、何者にも恭順しないのだ。軍人であるがゆえ、若い頃は仕方無しに上官の命に従ったものだったが、気に入らない将官を殺して大事になったこともあった。

「陛下に対しては……そういう類とは一線を画するものが有るのだ。唯一、あの女に対しては」

 そう言って直ぐ、彼は口に出さずに言葉をただす。

――いや、今は……また違う意味ではあるが、此奴こいつもか。

 此れまで如何な女を抱いても、妻をめとっても子を産ませても生じなかった愛惜あいせきの情が、瑠璃だけに喚び起こされた。闇龍の持つ魔性に溺れただけなのかもしれない。だとしても、彼女が自分にとって特別な女だということは変わらない。

――全く、本当に……人のことは言えなかったぞ……紫暗。

 古き友が月白つきしろ姫に入れ込んでいるのに気付き、年甲斐も無く冷やかしたことも有った。まさか自分が同じ状況に陥るとは、思ってもみなかったのだ。

 嘆息し、瑠璃の白い胸元へと顔をうずめて極上の若い肌を堪能する。幾度も幾度もこうしてきたが、彼にとってはいよいよ此れが……最後なのだ。

――あと少し……此のままで居てから、内廷に向かおう。

 何時いつに無く穏やかに瑠璃を抱く緑鷹を、彼女は虚ろな瞳で見下ろす。別れの覚悟を決めた男に対し、闇の巫女がどんな心情を向けているのか、其の冷たい紫水晶のひとみからは何ら読み取ることが出来なかった。

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