六.淡い異香(いきょう)【2】
かつて、魁斗が幾度も手指に絡めた黒々とした髪に、彼の姿を何度も映し出した紅玉の瞳。ほんの一時、愛を交わした心優しい女が、『敵』として姿を現したのである。
「おまえ……其の気は何だ? 何でそんな……そんな力を身に付けている?」
彼女が『青竜』の姿形で現れたことよりも、魁斗にとって重要なのはそちらの方。黒神との関わりなど持たぬはずの彼女が、彼の邪神と同じ力を使って魁斗と戦っていたことが解せず、また受け入れられなかった。
問われた紅燐は、魁斗の声が酷く弱々しいのを気にも止めず、目を伏せて事も無げに答える。
「貴方を今度こそ、殺す為に……力を借りたのです。いと高き闇の君主に」
「何……だと?」
魁斗の思考は混乱していた。何を、如何すればあの憎き神と紅燐が結び付くのか、皆目見当が付かなかった。只、はっきりとしていることは一つ。彼女が黒神の力を其の身に湛えているということ。
「奴に身を委ねたのか……?」
尋ねずとも、紅燐の返答を待たずとも、疑問の余地は無いのだと、魁斗はちゃんと分かってはいた。
「何で……其れが如何いうことか、分からないおまえではないだろう?」
人ならざる者……非天と接触し、あまつさえ邪悪な神力を分け与えられる。斯様なことが、何の犠牲も伴わぬはずが無い。
「人の身で、そんな力を出していたら……おまえの身が保たない。下手をすれば……死んでしまうぞ」
今更そう言ってみても、もはや遅い。青竜に変化して戦っている時から、既に気と力を制御出来ていなかったのだから。
紅燐自身涼しい顔をしてはいても、彼女の身体は黒神の力に依って破壊されかけていた。邪神の力とは、妖たちを狂わせ死に追いやる程の凶悪なもの。人である紅燐が受け容れて、無事で済む訳がないのだ。
「存じています。私は命を捧げてでも、貴方を殺さねばならぬのです」
清楚な美貌には、血の気が無く疲労の色が滲み、こめかみに汗の雫が浮かんでいる。女性にしてはやや広めの肩は上下を繰り返し、良く見ると手足もまた、不自然に震えていた。
「何故、其処まで……珠帝の命か? 主命が、おまえに命を投げ出させるのか?」
『我が主、珠帝の命なのです』
二年前のあの日、紅燐は確かにそう言っていた。魁斗にしてみれば納得のいく理由で、其れ以外は考えられなかった。紅燐が彼に対し殺意を持つ程の私怨を抱いているなど、ある訳が無い。
「……昊天の君、貴方は私に何を期待しておいでなのですか?」
紅燐が言い放ったのを聞き、魁斗は己の耳を疑う。自分に対して彼女が斯様な物言いをしたことなど、此れまで一度たりとて無かった。
「私が貴方を狙うのは主命であるからと、ご自分を納得させたいのですか? 貴方の敵は私ではなく、『珠帝』なのだと……信じたいのですか?」
淡々とした紅燐の言葉に胸を突かれ、魁斗は言葉を失った。気付いてはいたものの自ら認められずにいる、心の内を鋭く言い当てられ、彼女の問い掛けに直ぐ答えることが出来なかった。
――確かに、俺は自分を安心させたいだけなのかもしれない。愚かなことだとは思う。だが……悪いことなのかどうかは、良く分からない。
下ろしていた刀の柄を握り締めると、魁斗は軽く目を閉じた。
――再び俺を裏切ったなら、容赦はしないと……『朱雀』を敵として見なすと、はっきり告げた。必要なら戦いも辞さないと思っている。だが黒神の所為で……紅燐が傷付き命すら奪われそうに為るのを、黙って見過ごしていいのか? いや、良いはずがない。
渦巻くのは、紅燐ではなく黒神への怒り。紅燐の命など気にも留めず、彼女と魁斗の因縁に土足で踏み入った彼の邪神が赦せない。魁斗は自問し自答することで、己の心を確かめてゆく。
――やはり俺には……紅燐を憎むことなど出来ないのだろう。其れに……
黒神と結び付くという、考え得る最悪の方法を選択した紅燐。彼女が其の身に受けた黒の力を一刻も早く浄化せねば、取り返しの付かぬことに為る。
――俺は、紅燐を死なせたくない。助けたい。紅燐は……未だ俺を……!
そう強く思ったのは、魁斗が紅燐の真意の一端を掴んだと確信したからであった。しかし彼女を救うには如何すれば良いのか、上手くいきそうな手段が浮かんでこない。
「貴方さまは、もっとお強い方だと思っておりましたが……裏切り者の女一人に罰を与えることも出来ないのですか」
呼吸を乱しながら、紅燐は嘲笑する。魁斗は其の笑みが、彼女の優しい顔に全く似合わないと思った。
「……では、ご覚悟を」
口端をきゅっと結んだかと思えば、紅燐は魁斗の視界から消え失せた。間を置かずに下方に現れると、彼の首を狙って剣を薙ぎ払う。
刃を下にして受け止めた魁斗は、手に伝いくる大きな衝撃に度肝を抜かれた。此れは、女の筋力で出せる力ではない。
「紅燐っ……止せ!」
彼の制止を気にせず、両の手で刀を握り畳み掛けて攻撃する紅燐。刀には黒の力が載せられ、一太刀浴びれば骨を打ち砕かれかねない程の斬撃を作り出している。
全てを無理なく打ち返してゆく魁斗だが、反撃することはない。紅燐から刀を奪おうとしてみるが、黒神に依って身の内に眠る力を引き出され、高められた今の彼女には、中々隙が生まれない。
まるで何かに取り憑かれたように、紅燐は刀を振り被り、突き、斬り払う手を休めない。元来穏やかな彼女とは別人に見える其の様が、魁斗への殺意ゆえなのか、心まで邪気に喰われたからなのか……或いは別の、強い想いゆえなのか、魁斗は見極めようとしていた。
紅燐の剣は激しさを増し、同時に彼女を覆う闇の力も強まってゆく。神力が増幅される一方で人らしさが薄まり、身体に掛かる負荷は大きく為る。
……やがて限界に達したのか、紅燐はよろめいて剣を下ろし、片膝を付いた。心の臓が異常な音を立て、全身を流れる血が火のように熱い。上手く息を吸い込めず、苦しさの余り胸を掻き毟ってしまう。
「紅燐、もう止せ。本当に死んでしまう」
地に突き刺した剣で身を支え、必死に立ち上がろうとする紅燐に、魁斗が手を差し伸べる。しかし、彼女は息絶え絶えに為りながら其の手を払い除け、心配げに見詰める彼を鋭い目で射抜いた。
「如何して……!? 何故殺そうとなさらない?」
其れは、苛立ちと困惑が混ざった声だった。
「此の力が……憎いのではないのですか? 其のお美しいお顔を歪ませて……黒神への憎悪を話してくれたでしょう?」
刀を掴んでいる手が滑り、紅燐は横に倒れそうに為る。魁斗が支えようと身を屈めるも、彼女は自ら体勢を立て直し、首を横に振って彼の助けを拒否するのだった。
「貴方には……此の先果たさねばならぬ崇高な使命が……お有りのはず。こんな所で……足止めされて良い理由など無いでしょう?」
震える唇は青褪め、顔は死人の如き土色だが、紅の瞳だけは強い彩光を湛えている。生きる力を掬い取られた身体とは異なり、心は未だ熱を篭めているようだ。
――何故、如何して……俺にはおまえが……死に急いでいるとしか思えない。
魁斗には、紅燐の思考が普通ではないと分かっていた。彼が何よりも憎む黒神の力を借りたからといって、そう簡単に彼女を殺そうとするはずがないではないか。
其れに感情もまた、乱れている。魁斗を殺すと言って凄んでいたかと思うと一転して、自分を傷付けない魁斗を煽っているのは、不自然に見えてならない。
――黒神に魅入られた所為か……
彼の神に対する憎しみが、魁斗の中でじわじわと甦り……炎々と燃え広がる。激発する熱情に呑まれそうになりながら、何とか己を保ち理性を守ろうとする。
「もう、止めよう。おまえの本当の望みは俺を殺すことではないんだろう?」
言い当てられた紅燐は尚も屈さず、魁斗を見上げて烈々たる瞳を輝かせている。
「何を……仰る。私は……」
「俺を殺す力を得るのが目的なら、何で態態青竜に化けたりしたんだ?」
魁斗の言葉は容赦無く核心を衝く。彼女を救うには、既に時が無いのだ。
「おまえが殺したがっているのは他でもない、おまえ自身だ……違うか?」
そう言った途端、紅燐の双眸に暗い影が差したのを、魁斗は見逃さなかった。自分が放った言葉こそが事実だと、信じていた彼ではあったが、其の内容は酷く残酷で、哀しいものだった。
真情を見破られた紅燐は愕然とし、遂に刀を手放した。支えを失った身体は横へと倒れ、透かさず動いた魁斗に抱きかかえられる。魁斗は紅燐に直接触れることで、彼女を蝕んでいる黒神の力を感じ取ることが出来た。
――俺ではだめかもしれない。だが、やってみるしか……
自分の掌で紅燐の額を覆うと、呪を唱え始める魁斗。彼が持つ聖の神気に依って、彼女の受けた穢れの浄化を試みていた。
だが暫く術を続けてみるものの、一向に良くなる気配は無い。彼自身は当然強力な力の持主だが、半神半魔であるがゆえに、此れ程巨大な邪気を清めるのに必要な『聖』の性質を持ち合わせていないのだ。
――奴め、俺が消し去れない程の力を注いだな。
怒り、焦る魁斗の腕の中で、紅燐は震えていた。全てを諦めたからなのか、魁斗に抱かれているからなのか……つい先程まで燃え盛っていた紅燐の心は、嘘のように落ち着きを取り戻していた。
「魁斗さ……ま……」
魁斗が見抜いた通り、紅燐の真意は『贖罪』只一つ。選んだ手段は、出来うることなら彼自身に罰せられたいという……真面目過ぎる彼女の、彼女なりの贖いの形。
――貴方が私の真の願いに気付いてくれるとは、思っておりませんでした。貴方が私如きの心情を理解してくださるとは……
今更に為って、紅燐は気付いた。魁斗のことを信じられなかったのは、彼という青年を良く解せていなかったのは、自分の方だったのだと。
――私は貴方さまを欺いたのに、貴方さまは私を……ずっと信じて下さっていた。私が……如何に醜い姿を曝そうとも。
紅燐は自分の口に手を当てると、背を丸くして激しく咳き込む。妙な感触を覚えて手元を見ると、鮮紅色の血が大量に付いていた。




