二.敵地潜入【1】
「見張りの兵も置いていないのか……妖山の麓で侵入者の恐れが殆ど無いとはいえ、油断してないか? 茗の奴ら」
暗がりの中、木の陰に潜む敵を少しも見落とすまいと探っていた魁斗が、幾らか気の抜けた声を出した。彼の後ろを歩く蘢も、頬を緩めて同意する。
「確かに、こうすんなり入国出来るとは思ってなかったね。茗に入ったという実感が無い」
妖の森を抜けた麗蘭たちは、月と星の光を頼りに真っ暗な林道を歩いている。鬱蒼と茂る木々や霧のために時間の感覚を失っていた彼らは、山を下りると夜闇が濃く垂れ込めていたのに驚いていた。
はじめは何とかして宿泊出来るような場所を探そうとしたが、諦めざるを得なかった。暫く歩いても杉林が続くばかりで、当分村や街を見付けられそうにない。此の暗闇で、しかも敵国の領土内で、此れ以上動き続けるのも危険だった。
「麗蘭には悪いが、此処らで明かすか」
魁斗が大きく溜息をついてそう言うと、蘢が渋々了承する。
「仕方無いね……申し訳ないけど良い? 麗蘭」
「ああ、私は構わない」
本当に済まなそうな顔をしている蘢に、全く気にしていないという笑みを向ける麗蘭。此れまでにも宿が無い状況は幾度か有ったが、蘢が麗蘭に野宿させることを決して許さなかった。しかし、今回は打つ手が無い。
蘢と魁斗は手際良く薪を集め、火を焚く準備を始める。麗蘭は周囲の様子を窺いながら、妖を避ける結界を張る。それなりに神力を消費するが、野生の獣も近寄らせないため安心して休むことができる。
「ずっと旅をしていたというから、魁斗が慣れているのは分かるが……蘢も随分てきぱきとしているな」
「軍の仕事で野営することもあるからね。慣れているっていう程でもないけれど」
黒い樹木に囲まれやや開けた場所の中央に、薪を集めて火を点ける。やがて明明とした炎が膨らみ三人の顔を照らしてゆく。
火の周辺に少しずつ離れて腰掛けた三人は、漸く落ち着いて一息吐くことが出来た。思えば朝早くから歩き詰めであったし、琅華山では緊張し通しで、実に長い一日だった。無意識に気張っていた麗蘭もやっと人心地付き、全身の力を抜いていた。
「干し肉と炒り豆位しか無いが、食うか?」
「良いね、僕も何か持っているかもしれない」
魁斗と蘢がそれぞれの小さな荷物から食料を探し始めると、麗蘭は自分の荷には何も無いことに今更気付く。
「済まない……全く気が回らなかった」
「気にするな、直ぐに腹が減るから常時持ってるってだけだ」
魁斗は麻袋を閉じている紐を歯で切ると、遠慮する麗蘭の手を出させて中の豆を分けてやる。
「干し棗なんかも有るよ。麗蘭は昼間頑張ったんだし、沢山食べて」
甘く香る棗を掌に数粒載せられると、麗蘭は辺りを見回す。
「ありがとう。こんな夜でなければ、鳥でも射落として来るのだが……」
実際、孤校に居た頃は皆の食事のために麗蘭が獣を狩ることも少なくなかった。料理はずっと当番制であったので、簡単な物なら彼女にも拵えることが出来る。ただし麗蘭は不器用なこともあってか、苦手意識の方が強い。
「其れ、良いな。じゃあ俺と蘢は調理係だな」
「街に行ったら調味料を買わないとね」
二人共冗談を言っているようには聴こえず、本当にやる気が有るようだ。やれば何でも出来そうなのが彼らの凄い所だった。
「いよいよ茗に入ったことだし、こうやって外で過ごさざるを得ないことも……増えるだろうね。勿論努力はするけれど」
そう言った蘢が自分の方をちらりと見た気がして、麗蘭は首を横に振る。
「私は……おまえや魁斗が作った料理を食べてみたいから、外でも構わないぞ」
彼女の瞳には、自分のことで気を遣わせたくないという気持ちと、彼等が慣れないことをするのを本気で見てみたいという気持ちが半々で含まれていた。
「そう言われちゃあ、一回位は作るしか無いな、蘢」
「……そうだね。孤校に居た頃、もっとちゃんと習っておけば良かったよ」
棗の他、貝柱の酢漬けや野菜の塩漬けの包みを取り出した蘢は、麗蘭と魁斗に回して分けてやる。昼間何も食べていなかった麗蘭は、食べ物を前にして突然空腹を感じ始めた。
「よし、じゃあ戴きます」
力強く言うと、魁斗は固い干し肉に齧り付く。
「僕も戴きます」
軽く頭を下げた蘢も、先ずは魁斗から貰った肉を口に入れる。
「では私も、戴きます」
彼らが食べ始めたのを確認してから、麗蘭も躊躇いがちに貝や豆を舌に乗せた。三人ともかなり腹を空かせていたらしく、暫しの間無言で食べることに集中していた。
「……茗に入ったは良いが、何処へ向かう? 蘭麗姫の捕らわれている場所ははっきりしないのだろう? 蘢は以前、帝都付近ではないかと言っていたが」
先ず口を開いたのは、麗蘭だった。
「此の九年間、姫を救出しようと茗に入った者は少なくない。でも帰ってきた者が居ないんだ。中には名うての剣士もいたというけれど、姫の許まで辿り着けたかも定かではない。でも……」
ゆらゆらとはためく火を見詰めて言うと、蘢は息を吐く。
「恵帝陛下も瑛睡公も、そして僕も、帝都洛永周辺ではないかと見ている。何故なら……」
言い掛けて逡巡した蘢の代わりに、睨み付けるように炎を直視する魁斗が続ける。
「近くに置くことで『もしもの時』に、直ぐ『対処』出来るだろうからな」
濁された其の言葉の意味を、麗蘭も何となく理解していた。いつか蘢が言っていたように、蘭麗姫は人質なのだ。彼女の存在を問わず開戦がほぼ確実となった今、一刻も早く助け出さねば命の危険も有る。
「……やはり、目指すは都だろうね。恵帝陛下から下された二つ目の御命も有るし」
「珠帝に近付く人ならざる者……黒巫女の正体を探れという下命であったな」
つい蘭麗姫のことばかりに目が行ってしまうが、旅の目的は二つ有る。神意を頼らぬ珠帝が、黒巫女を側に置き重用しているのにはどんな理由が有るのか……真相を突き止めるという密旨である。
「此れは……私の勘なのだが」
口にするのを迷いながら、麗蘭は紫瑤を出る前から頭の片隅に有ったある可能性について話し出す。
「其の黒巫女とは……瑠璃のことではないだろうか。信じたくはないが、珠帝の背後に居る人ならざる者とは、『奴』なのではないか……?」
もし麗蘭の想像が正しいのであれば、此れまで謎だったことの幾つかについては合点がいく。
「奴が珠帝に力を貸しているのであれば、光龍が聖安に生まれ成長していることを教えていても不思議ではない。青竜自ら聖安まで出向き、私を追って来たのも頷ける」
「そうだな……加えて、麗蘭が真の第一公主であることも伝えているかもな。人質としての蘭麗の価値が低くなったのも、開戦に拍車を掛けているのかもしれない」
そう言う魁斗も蘢も、麗蘭の発言に対し驚いているようには見えない。麗蘭同様、彼らも元より予想していたのだろう。
「だが何故、黒神は珠帝に近付いたのだ? そうすることで奴が得られるものとは……何なのだ?」
麗蘭の問い掛けに、蘢も首を傾げる。
「以前青竜が現れた時、僕には奴が麗蘭を殺そうとしているようには見えなかった。もし麗蘭の命が目的ならば、真っ先に狙うだろうに……そうしなかった」
其れについては麗蘭も気になっていた。もし珠帝が麗蘭を殺せと命じていたならば、態態邪眼を使って動きを封じ込めずとも一撃でそうしているはずだ。
「珠帝の望みが麗蘭を殺すことではないとすると、狙いは光龍の力だろう。もしかすると黒神も其れを得たがっていて、珠帝と利害が一致するのだろうか」
「……いや」
蘢の仮説に魁斗が頭を横に振る。
「もし奴が本当に麗蘭の力を得たいのならばとっくにそうしているし、殺したがっているのだとしても同じだ。奴は今や天治界で最強の神で、出来ぬことなど無いのだから」
彼の言うことは尤もだった。黒神の意図などを、人間と同じ次元で考えていてもほぼ無意味だと言っても過言ではない。神とは、人ならざる者とはそういう存在なのだ。
「珠帝を嗾けて……楽しんでいるだけなのかもな。人間同士の戦争を起こさせて……高みの見物を決め込んでいるだけなのかもしれない」
歯を噛み締める魁斗の言葉は、白林での一件を思い出せば容易に納得出来た。瑠璃を使って妖たちに街を襲わせた黒神は、数百年前に終わった人と妖たちの戦いを再び始めさせかねない状況を作り出した。
「魁斗……未だ早いのかもしれないが、訊いて良いか? おまえが黒神を何故憎んでいるのかを」
麗蘭にそう問われた魁斗は、少し目を見開いただけで特段嫌がりもしない。彼女の方に身体を向けて、自分を見る真っ直ぐな瞳を見据えている。
『俺もおまえの力が必要だ。俺は黒神を何としてでも殺したい』
初めて魁斗と会った時から、彼は黒神への明らかな憎悪を見せていた。今後黒神を倒すという同じ目的を持ち、協力し合うならば、麗蘭は何れ彼の事情を訊いておきたいと思っていた。
「……良いぞ。あんまり楽しい話じゃあ、ないけどな」
先日は私怨だと言って詳しく話そうとしなかった魁斗も、特に隠すつもりも無かったらしい。やや硬い顔で、ゆっくりと話し始めた。




