一.妖魅の王(★)
昏く深い岩屋の奥、妖魅の王が坐している。彼の周りに侍るのは、美々しい獣や美女の姿をとる妖美の化身たち。
王に依って選ばれたのか、美しい者が王の許に集ったのかは判然としない。はっきりしているのは、居並ぶ闇の麗姿の中でも群を抜いて艶美であるのが、彼の王だということ。
冷たく底光りする輝緑岩の王座に腰掛け、足元に伏す女豹の白い毛並みを撫でながら、王は閉じていた瞳を気怠げに開けた。
「映せ」
只一言、重く低い声を響かせる。他の者と同じく平伏していた銀髪の女が立ち上がり、王の前に在る円い水盆へと歩み出た。澄んだ水を湛えた盆を挟み、主と向かい合った彼女は、色めかしい視線を彼に送ると静かに両腕を上げた。
腕の動きに合わせて湧き出でた水は、見えない力に引き上げられて高く昇り、やがて左右に広がってゆく。麗しき王と其の臣下たちが注視する中、透明な水鏡が現れ、王が望む光景を映し出した。
妖気渦巻く黒い森の中で唯一、光輝く者たちが足早に歩いている。強い、強い光。此の場に集う妖たちにとっては脅威と為る、恐ろしい煌めき。
青年が二人と、少女が一人。美しい、溜息が漏れ出てしまう程の、素晴らしい少女だ。妖の王に傅く佳人たちも、鏡に映る彼女に嫉妬し、弱き人間に斯様な絶美を与えた神を呪い始める程であった。
長い髪は陽光の如く、瑞々しい肌は純潔其のもの。深みの有る紫色の大きな強い瞳は、侵し難い貴なる気高さを帯びている。
彼の美少女を見て覚えるのは、神聖なものへの畏敬と懼れ。人よりも本能に忠実である妖でさえも、彼女を目にして情欲など抱き得ない。生まれ出ずるのは、恐怖。そして、憧れに近い渇望。妖が決して持てぬ、聖なる光に満ちた少女への羨望。
あの少女を喰らい糧としたならば、さぞや美味であろう。共に居る見目良い青年たちが彼女を喪い嘆く様を、愉しく眺め見ることが出来よう――そんな空想を描く下僕たちの心中を見通し、王は冷たい声音で言い放った。
「あの娘には手を出すな。あれは、黒神のものだ」
黒神――其の名が出ただけで、妖たちは酷く怯えて身震いした。ある者は目を伏せ、少女への欲望を一瞬でも抱いたことを後悔した。そしてある者は、王に助けを乞う縋るような眼差しを向けた。
やがて、水の鏡が次なる映像を映し出した。彼らの同胞が、不可侵の少女に依って忌むべき破魔矢に射抜かれ、次々と命を散らしてゆく所を。
絶大な『黒の力』に蝕まれた妖たちが、誇りを失い狂い果てたことは、此の場の誰もが知っている。王が暫し目を離した隙に非天の神巫女が琅華山へと立ち入り、あの地の妖たちを邪悪な計画の駒とすべく、酷烈な力の黒刃を振り下ろしたのだ。
種族も棲む場所も異なり、妖異の序列で見れば自分たちよりもかなり下位の存在。そんな下賤たちが心を失くして一層醜い姿を晒し、挙句人間の少女に殺されることに為ろうとも、王の側近く仕える者たちは心を痛めるどころか何も感じない。
しかし、王は違う。妖魅たちの父でもある彼は実に情け深く、此の事態を重く受け止めている。眉間に皺を寄せ、不快を露わにしていた。
「我が異母兄上は、相も変わらず加減というものを知らんな。目も当てられぬ」
妖王は、彼の黒神や天帝とは母が異なる兄弟である。遙か昔は神に列せられたが、継母に当たる先帝の正妃の怒りを買い、神格を剥奪されて地に落とされた。異形へと変えられた其の身で子孫を成し、其れが妖と呼ばれ始めて今日に至る。
千五百年前、黒神が先帝を弑する際、妖王は彼の力を借りて天上に舞い戻り、憎き継母を殺した。借りは大きく、封じられた黒神が復活してからも事有るごとに協力してきた。
だが幾ら恩が有るとはいえ、此度のことは捨て置けない。数百年前に自ら出向き築いた、琅華山の妖たちの平穏を荒らし、下僕たちの命を虫螻を弄ぶが如く踏み躙っているのは、見るに堪えない。
――久方振りに、あの二人の娘を此の目で見たいことも有る。
浅く嘆息して、王は玉座を立った。周りの者たちは王に敬愛を表し、深々と頭を垂れた。
進み出た金髪の女が、妖王の背に獣の毛皮で拵えられた外套を掛ける。別の白い髪の女が、恭しい所作で剣を手渡す。かつて先帝に依って下された神剣、『虎楼』である。
「供は要らん。直ぐ戻る」
妖王以外の妖が今の琅華へ入れば、辿る道は決まっている。神に匹敵する力を持つ王だからこそ、黒の力に抗えるのだ。
愛しげに見送る下僕たちを残し、妖魅の王は暗然とした岩室を後にした。王が居なく為った後の王座の間は静まり返り、美獣たちの主の居らぬ哀しみに浸されていた。




