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3. エレベーター



 ここに引越してきてからもうすぐ三ヶ月が経つというのに、ぐんぐん昇っていくエレベーターに乗っているといまだに胸を踊らさずにはいられない。

 ずっと住んでいた一軒家の実家を出て、ずっと憧れていた都内のタワーマンションで一人暮らしを始めた俺は、毎日楽しくてたまらない。


 オートロックの入り口を入ると、まるで高級ホテルのロビーのような空間が広がっている。

 大きなソファやテーブルが置いてあり、ここで談話することができるようになっている。

 今日も一日、俺は大手商社でやり手営業マンとして仕事をこなした。とても疲れていたが、ここへ帰ってくるといつも疲れが吹き飛ぶ。

 

 一階にある郵便受けをチェックし、エレベーターを呼ぶボタンを押す。

 エレベーターは全部で三台。七人ほどが乗れる大きさのものが二つ、そしてその1.5倍ほどのものが一つだ。

 最寄りのスーパーで適当に買ったお惣菜が入った袋を持ち、エレベーターがやってくるのを待つ。

 後ろから足音がして「こんばんは」と声を掛けられた。振り向くと、顔馴染みの男性がいた。



「こんばんは」



 にっこりと、今日何度目かわからない上手な笑顔で返した。

 四十代くらいに見える、俺と同じくスーツ姿のこの男性は、帰宅時間が大体同じのようで、よくこうしてエレベーターで一緒になる。

 といっても、挨拶以上の言葉を交わすことはとくにない。

 このマンションでは、乗り合わせると相手が誰であっても必ず挨拶をする。

 一軒家に住んでいたときとは全く違うこの文化も、新鮮でとても良い。


 さらに数秒するとまた人の気配がして「こんばんは」と言われる。

 こちらもよく乗り合わせる女性だった。

 歳は多分俺と同じくらいで、ジョギングしてきたのだろう、タンクトップにぴちっとした運動用らしいズボンを履いている。

 結構美人なので、実は少し気になっている。彼氏とかいるのだろうか。

 いつもこのような服装なので、この時間帯にジョギングするというのがルーティンとみた。

 このように、タワーマンション ではだいたい帰宅時間が同じくらいの者同士は顔見知りとなる。



「こんばんは」



 さっきと同じように、また笑顔で返す。

 やがて、やってきたエレベーターに乗った。


 挨拶っていいな、とふと思う。

 挨拶だけ、というのがまたいいな、とも思う。

 俺の実家があるのはそこまで田舎というわけではないけれど、近所のおばさんに会うと「今帰り?ご苦労さん。最近どう?頑張ってる?」と話しかけられる。

 しかしここでは、こんな風にさらっと挨拶だけし、あとは何も喋らない。それがいかにも都会っぽくて好きだ。

 そこまで他人に干渉しない、かといって無視するわけでもない。程よい他人との距離感が、妙に居心地が良い。


 一緒にエレベーターに乗った二人の住民は、おそらく俺のことを“仕事ができそうな愛想の良い人”と思っているだろう。

 そしてそれは正解だ。

 そんな自分を、俺自身もかなり好き。


 二階、三階、四階とぐんぐん上がっていくエレベーター。ちなみに俺が押したのは『21』。男性は『25』で女性は『27』だ。

 ふと、肛門あたりにガスがおりてきているのを感じ、申し訳ないと思いつつも器用にすかしっ屁をした。

 音を出さないおならは、社会人になってからもう何度もしている。

 誰にも気付かれず、誰も傷付けない。ガスをためずに身体に良い、それがすかしっ屁だ。

 だがこんな時に限って、事態は訪れた。


 すっとガスが出た瞬間、よく覚えのある嫌な臭いが鼻をつんざいた。

 それは間違いなく、俺のおならの臭いだった。

 嘘であってほしいと願ったが、強烈すぎて現実であることが嫌でも突き刺さる。

 いつものすかしっ屁は無臭なのに、こんなときに限ってどうして。

 どうにかしてこの臭いを消し去りたくて、思い切り自分のおならを鼻いっぱいに吸い込んだ。

 自分の臭いを自分で嗅ぎきって消し去る、という術だったが、効果があるはずがなかった。

 エレベーターという個室空間の中で、俺のおならはどんどん充満していく。

 最悪だ。絶望とはこのことだろうか。


 さっきまで自分に酔っていたのが我ながら痛くてしょうがない。

 なにが“仕事ができそうな愛想のいい人”だ。

 ただの“おならが臭い人”じゃないか。


 一番手前に立っている俺は、怖くて後ろを振り向くことができない。

 だいたいどうして一番前なんだ。この二人に尻を向けているから、彼らは俺以上に俺のおならの臭いを嗅いでしまっているはずだ。あぁ、誰か俺を消してくれ。


 しかし、三人いるのだ。この臭いの発症源が俺であるとはわからないだろう。

 ……と、最低な発想が一瞬浮かんだが、それもすぐに萎んだ。

 この三人の中で、一番最初に降りるのは俺だからだ。


 自分のおならながら、さすがに臭すぎる。俺は息を止めた。

 後ろの二人もかなりきついはずだ。申し訳ない。

 今すぐ謝りたいが、それをするとおならを認めてしまうことになる。そもそも恥ずかしすぎる。


 そしてついに、21階へ到着した。変に長く感じた。

 消えてしまいたい気持ちを押し殺し、自分を奮い立たせ、俺は振り向いた。



「さようなら!」



 いつものように、にっこり笑い、大きくはきはきとした声を出した。

 額に汗がにじんでいるのを感じる。

 それでもいつも通り、見事な営業スマイルができたと思う。俺は立派な営業マンだ。帰ったら自分で自分をたっぷり褒めてあげよう。


 彼らもにっこりと微笑んでくれた。まるでそこに強烈なおならの臭いなんて存在していないような、それはそれは素敵な笑顔。

 揃っていつものように「さようなら」と返してくれた。

 本当は、お前臭すぎるだろ!とキレられてもおかしくないのに。なんて治安の良いマンションなんだろう。

 とりあえずほっとし、逃げるようにエレベーターを出て自分の部屋へ帰った。


 お気に入りのインテリアで揃えた、自分だけの最高の空間。ソファにどかっと座り、俺は一言



「耐えたー……」



 大きなため息と共に、そう呟いた。

 実のところ、耐えたのか耐えていないかと言えば全然耐えていない。


 明日からも毎日顔を合わせ続けると考えると憂鬱すぎる。

 いっそのこと引っ越そうか?しかし気に入っているこの部屋、このマンションには未練がありすぎる。


 そもそも、たった一回のおならで引っ越すなんて馬鹿げている。

 もっと時間が経てば、彼らも今日の俺のおならを忘れるだろう。そして俺自身も、今日の俺のおならを忘れる日がきっとくるはずだ。

 それまでは、ただ日々をやり過ごすしかない……。


 どうしてあの時おならしてしまったんだ、もうすぐ家に着いていたんだから、あと少し我慢すればよかったのに。どうしても自分を責めてしまう。

 たかがおならだ。されどおなら……。


 俺、今日、ちゃんと眠れるだろうか。



**



 いつも愛想の良い仕事のできそうなお兄さんが降りていったと同時に、エレベーター内に充満していた、明らかにおならだと思われる臭いが少しましになった気がした。

 やっぱり原因はあのお兄さんだった。


 正直、鼻がもげるかと思うほど臭かった。

 いったい何を食べたらそんなに臭くなるんだよとつっこみたくなるくらい臭かった。

 音がなかっただけに、不意打ちだった。

 お兄さんに罪がないのはわかっている。わたしだって、おならが超絶臭い日がある。すかしっ屁もよくする。人間だもの、仕方がないことだって。

 でも本当に、お兄さんには申し訳ないけど、臭すぎて本当にきつかった。


 降りるとき、こちらを振り向いたお兄さんの顔が忘れられない。

 あきらかに自分がおならをしたとバレている(しかもかなり臭い)上での、精一杯のスマイル。痛々しくて、胸がぎゅうってなった。


 いつも乗り合わせるおじさんと二人きりになってから「臭かったですね」と言いそうになったけど堪えた。

 紳士なおじさんはもちろん何も言ってこず、わたし達は何もなかったかのように「さようなら」と挨拶を交わして別れた。


 結構な確率で乗り合わせるから、お兄さん明日から気まずいだろうな、と同情してしまう。

 大丈夫だよ、って言ってあげたい。

 あの時「おならしました?臭いですね!」とあえてつっこんで笑いに変えてあげた方がよかっただろうか。

 いや、さすがにそこまでのコミュ力も勇気もない。


 色々考えたところで、もう過ぎてしまったことは仕方がないし、数日も経てばわたしはあのおならのことをきっと完璧に忘れるだろうし、お兄さん自身も忘れるだろう。


 でもせめて、どこかに吐き出させて。



『エレベーターでおならした人いて、めっちゃ臭かったーー!』



 匿名でやっているXにそれだけ投稿した。

 これくらいなら罪にはならないだろう。




Fin.

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