2. 不倫
ただの道なのに、どうしようもなくワクワクする。
まさかこの歳になって、異性に対してこんなに心躍ることがあるなんて思っていなかった。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見つめた。
いつもよりどこか若く感じるのは、恋をしているからだろうか。
街中のいたる場所で咲き乱れている桜の木が、私を青春時代へと巻き戻すのに良いアクセントとなっている。
温かくて優しい風が、私の頬を撫でる。
届きそうで届かない、淡い片想いをしていたあの頃の私。
三十年という月日も、彼女のことを思えばあっという間に引き戻される。
髪の毛を触って軽く整える。もうすでにワックスでがちがちに固まっているが、少しでも西城さんに良いと思われたかった。
『もうすぐ着くよ』
送られてきたLINEに、ついに顔全体が緩んでしまう。
『僕ももうすぐ着く』
あぁ。ただの待ち合わせが、こんなにもどかしいなんて。
妻と娘に罪悪感が全くないわけではない。
しかし来月で四十七歳になる私は、繰り返す日々に飽き飽きしていた。
毎日家と会社の往復。家族とは別に仲が悪いわけではないが、あちらは特別私に愛情があるわけでもないようで、家の中では空気のように扱われている。喋りかけると答えてはくれるけど、歩み寄ってくれることは近頃ほとんどない。
私は一体、なんのために毎日働いているのだろう。なんのために生きているのだろう。
そんなもやもやとしたものが胸に渦巻いていたとき、高校の同窓会で彼女に再会した。
**
「有本くん、だよね?」
騒がしく盛り上がっている集団の中ににいるのがどことなく疲れ、外の空気でも吸いに行こうと一人になった時、彼女は話しかけてきた。
オレンジのワンピースを着た西城さんは、歳こそはそれなりに取ったもののあの頃の面影がはっきりと残っていて、すぐにそれが彼女だと分かった。
胸元まで伸びた髪は、茶色に染められてはいるものの相変わらずさらさらで綺麗だった。
青春時代、私は彼女のことが好きだった。
そして今、大人の色気を纏った西城さんに、不覚ながらも再びときめいてしまった。
ときめく、だなんて、この歳になって何を言っているんだと頭の中で自分を嗤いながらも、とんとん拍子に進んでいく二人で食事に行こうという話に胸を踊らさずにはいられなかった。
「相変わらず、カッコいいね」
私達は喧騒から離れた外のベンチに座りった。
スパークリングワインの入ったグラスを傾け、私を見つめにこりと笑って彼女は言った。
「えっ、いや、そんな、えぇ?あ、ありがとう」
妻からは絶対に言われることのないそんな台詞を吐かれ、私はたじたじだった。
それから急激に、まるで昨日のことのように高校時代の記憶がフラッシュバックした。
放課後誰もいなくなった教室で、二人きりで勉強を教えてくれたときの、彼女の綺麗な横顔。体育祭が終わった後、私の巻いていたはちまきを欲しいと言ってくれた。授業中、不意に目が合ったりしてドキドキしたり。
卒業したら彼女は県外の大学に行ってしまうとわかっていたけど、最後の日は何も話せずに終わってしまった。
西城さんは、私のことをどう思っていたのだろう。
彼女と再会してから、私はすっかり男子高校生の頃の自分に戻りきっていた。
**
あれから毎日LINEでのやりとりが続いていた。こんな風に異性と連絡を取り合うなんて妻以来だし、ましてやLINEが普及してから初めてのことだった。
さっきから手汗が止まらないし、心臓の音がやけにうるさい。
今から西城さんと二人きりで会う。そう意識すればするほど身体はどんどん緊張していく。
私は今から、学生時代の青春へとエスケープするのだ。
あらかじめ予約していた居酒屋に入り、カウンター席に座って彼女を待つ。
居酒屋といっても店内は薄暗く、バーのような感じで、まさに大人のデートにぴったりだ。
用もなくスマホの画面をつけて適当にいじり、また切ったりを繰り返す。少しでも落ち着こうと、深呼吸を一回した後、扉が開く音がした。
店員に案内されて、西城さんが微笑みながら私の隣へ来た。
「お疲れ様っ!」
思わず唸り声が出そうだった。
今日の西城さんは仕事帰りのようで、オフィスカジュアル、といった服装をしていた。だがそれは同窓会のときのワンピースとはまた違った雰囲気で、これはこれでかなり良い。
胸元の開いたネイビーのシャツに、やけにぴちっとした白のスカート。いつもこんな格好で仕事をしているのだろうか?なんてセクシーなのだろう。これをこんなに着こなせる四十五歳は、きっとそうそういない。
「おぉー、お疲れ様」
緊張がゆえにどもらないよう、意識して声を発する。しかしさっきから心臓の音がさらにうるさくて、今にも爆発してしまいそうだった。
「有本くん、なに飲む?」
片方の髪を耳にかけながら、覗き込むようにして聞いてくる。
あざとい……。でも可愛い……!
「ビールかな?」
「オッケー、私も!」
そして彼女は自ら店員を呼び、きちんと私の意見も聞きつつ、美味しそうな料理をてきぱきと選んで注文していった。
そしておそよ三十年ぶりに再会した私達は、グラスとグラスを合わせた。
「さすがだね。相変わらずしっかりしてる」
「え?なにそれ嫌味?」
「違うよ。相変わらず、西城さんは素敵だってこと」
ビールを数口飲んだだけなのに、普段の私からは考えられないようなキザな言葉を言えてしまう。
もうすでに私は、西城さんに酔っている。
私達はお互いのことをたくさん話した。空いた時間を埋めるように、これまでのそれぞれの日々の話を。
私に妻子がいることはこの前の同窓会ですでに話してあったし、彼女は結婚したが離婚して現在は一人で暮らしていることはもうすでに知っている。子供はいるみたいだが親権は元夫が持っていて、月に一度しか会えないだとか。
そこに関しては何か複雑な事情がありそうなのであえて聞かなかったけど、その代わりにこれまでしてきた恋の話や仕事の話をした。
卒業してから何人と付き合ったとか、どんな人と付き合ったとか。ハウスメーカーの営業として働いている彼女の、仕事に対する熱い思いとかを聞かせてもらったり。
大人同士の、かなり濃い時間を過ごした。
ビールの後、私は麦焼酎を五杯、西城さんはハイボールやワインカクテルを七杯ほど飲んでいた。
そしてあっという間に二時間くらいが経過した。
「でもねぇ、私ねぇ、実は有本くんのこと、好きだったんだよぉ?」
すでに完全に酔っ払っているらしい西城さんの身体の重心が、こちらに大きく傾いている。
私の膝の上に、彼女の手が置かれる。
ドクン、ドクン、ドクン。鼓動は激しくうるさいが、彼女が大胆になっていくにつれてなぜか私は妙に冷静になってきた。
それは私の中のかろうじてまだ現役である男としての本能、つまり性欲のせいだろう。
“今日、イケるんじゃないか”
そう期待せずにいられなかった。
もう学生時代のもどかしい甘酸っぱさはないものの、私は私であり、西城さんは西城さんであることに変わりはない。
こんな形で好きだと言われたくなかったと青春時代の私がどこかで嘆いているかもしれないが、今の私は彼女を抱きたいという欲望で満ちている。
今日ヤりたい、今日ヤりたい、今日ヤりたい。
まるで思春期の少年のように、こんなに性欲に駆られる日がくるなんて。
妻とはかれこれ五年くらいご無沙汰だった。この先あるかどうかわからない。ない確率の方が高いだろう。
ちらりとバレないよう、西城さんの溢れんばかりの胸の谷間を覗き込む。こんな誘惑に、勝てるわけがない。
「僕も、好きだったよ」
私は呟いた。まるで恋愛映画の主人公になったような気分だった。
互いに思いを伝えられず、かつてのじれったい二つの片想いは、今こうしてお酒の力を借りてようやく報われようとしている。
赤ら顔で、はっとしたような顔をする西城さん。どうして彼女はこんなに色っぽいのだろうか。
やがて私達の世界から目を覚ませるかのように店員がやってきて「すみません、閉店のお時間となります」と告げた。
ここの会計は私が奢り、店を出た。今まで少ない小遣いをこつこつと貯めてきてよかったと心から思った。
帰るのは嫌だ。そんな私の願いは、彼女の言葉によって見事に叶えられれた。
「せっかくだし、もう一軒バーでも行かない?」
私は迷うことなく、すぐに頷いた。
スマホの地図アプリで“バー”と検索し、近くにあった良さげなバーを見つけたので行くことにした。
**
薄暗い店内には静かにジャズが流れている。
七人掛けのカウンターの中央に、私と西城さんは並んで座った。私達以外に客はいない。
ジャケットスーツを着こなした、髭の生えたマスターがこの店の洒落た雰囲気をさらに醸し出している。
こんなところへ来るのは随分久しぶりだ。
どぎまぎしているのを気付かれないよう平然ぶっている私とは反対に、西城さんはやけに慣れた様子だった。
「マティーニくださぁい」
甘い声で、彼女は言った。
マ、マティーニ?マティーニって、どんなやつだったっけ?
鈍った思考をなんとか回転させ、たしかあの平べったいのに細い棒がついているようなグラスだったと思い出した。
「僕も、同じものを」
格好つけて言ったものの、いざ飲み始めたマティーニは思いのほかアルコールが強く、一気に酔いがまわってきた。
それからもお互いに酔った私達は昔の思い出話に花を咲かせ、笑い合った。
とても自然な流れで、西城さんが再び私の膝の上に手を置いた。なんてことないような顔をして、私はその手の上に自分の手を重ねた。
もうこれは、絶対にいけるやつだ。心の中でガッツポーズし、彼女の顔を見つめたその瞬間、
「ブッッ!」
時が止まったような気がした。
静かなジャズが流れているだけの店内に、その愚かな音は嫌なくらい響いた。
とろんとした西城さんの目が、我を取り戻したかのようにはっと見開かれ、私を見つめ返している。
……え?まさか、おなら?私が……?
……このタイミングで……?
椅子がずれた音であってほしいと願ったが、残念ながら私達が座っている椅子は床にしっかりとくっつけられていているタイプだし、なにしろ膝の上に手を置かれているのだからおならだとバレバレだ。
なんなら振動が伝わったかもしれない。
困りながら言葉を探すような西城さんが相変わらず私を見つめている。もはやパニック状態の私も彼女を見つめ返す。
そしてやっと言葉を見つけたらしい彼女は
「もう、やだなぁっ!」
眉を下げて笑いながら、私の膝から手を離し、軽く肩を叩いてきた。
「あ、あはっ、あははっ、いやぁごめんごめん。失敬失敬」
ぎこちない笑い声を出しながら、なんとか私も取り繕う。
しかし全てが順調で良い雰囲気だった中、やってしまったという絶望感は拭えない。もはや吐きそうだ。
絶対に聞こえたであろうマスターは、無表情のまま奥の厨房にすっと入っていった。そしてすぐに戻ってきて、何も言わずにグラスを拭いた。
勘違いかもしれないが、ジャズの音が少し大きくなったような気がした。もしかして、音量を上げに行ってくれたのか……?
彼なりの配慮なのかもしれないが、すでにおならをしてしまった以上、それは逆に侮辱だった。
もし私がもう一度おならをしてしまった時のために、次こそはぼやけてあげようと上げてくれたのか?
もうどちらでもいい。今すぐ消えてしまいたい。
おならをしてしまったこと、西城さんが取り繕ってくれたこと、マスターが音量を上げてくれたこと。
頭の中で一つ一つを整理していくうちに、突然フラッシュバックかのように妻と娘の顔が蘇った。
私はいったい、こんなところで何をしているのだろう。変な期待をして、胸をときめかせて、高校時代に戻ったつもりになって。
しかしこうして冷静になっていくのは私だけではなかったようで、
「……そろそろ帰ろっか。ここは私が奢るよ」
先ほどまでの甘い声と酔いはどこにいったのやら、そう言った西城さんの声は寒気がするほど冷静だった。
「そんな、いいよ。僕が払う」
「いいから!最後くらいカッコつけさせてよ。マスター、お勘定で」
「えっ……」
最後くらい、とはどういう意味だろう。
なんて考える余裕もないくらいに彼女はすばやくバッグから財布を取り出し、マスターにカードを差し出した。
瞬く間に勘定が終わり、私達は外に出た。
時刻は午後十一時半。不幸か幸いか、終電には間に合うだろう。
外は思いのほか寒くて、身震いした。夜は冷える。
同じように寒そうに身を縮めている西城さんに、本来であれば寄り添い、そのまま二人でホテルに行けていただろう。
でも私のおならにより、お互いの魔法があっけなく解けてしまった。
「じゃあ、またね」
「あぁ……」
凛々しく微笑む西城さんに「もっと一緒にいよう」なんて言葉、さっきおならをしてしまった私にはとても言えなかった。
「また」なんてあるのだろうか。魔法が解けた私達は、もう会うことがないかもしれない。
彼女はくるりと振り返り、颯爽と去っていく。その後ろ姿には、なんの惜しみも感じられなかった。
一人取り残された私は、とぼとぼと駅へ向かって歩いた。
待ち合わせ前に鏡がわりにつかったショーウィンドウの前を再び通り過ぎた時、ちらりとそこに映った自分の姿を見てため息が出た。
そこにいたのは四十七の、ただのくたびれたおっさんだった。
「……帰ろう」
掠れた声で呟き、大人しく電車に乗って家に帰った。
**
いつもと変わらない休日の朝があった。
私は何もなかった顔をして、何もなかったようにダイニングテーブルでコーヒーを飲み、新聞を読みながら食パンをかじる。
妻はソファに座り、朝の情報番組を観ている。
高校生の娘は友達と遊びに出かけるらしく、慌ただしく用意をしている。
「ブッッ!」
私のおならが出た。
それはとても自然で、この家の中では何の違和感もなかった。
妻も娘もきっと聞こえているはずなのに何の反応もせず、まるでその音すらなかったかのように思えるくらいだった。
私自身も、おならなんてしてませんよ、とでも言うようなしらばっくれた顔で、相変わらず新聞から目を離さずにコーヒーを啜る。
顔には微塵も出さず、昨日のことを思い出した。
たった一度のおならで、あんなに全てが台無しになった。
しかし、それで良かったのかもしれない。
私がおならをしても何も変わらない世界が、ここにはある。この小さな、ありきたりだけど平和な世界を、私は壊さずに済んだのだ。
全てはあのおならのおかげ。
「ちょっとお父さん、邪魔!」
トイレへ行こうと立ち上がった私に、娘がぶつかり睨んでくる。
小さい頃はあんなに可愛かったのに。いや、今も可愛いか……。
私にとって、妻と娘は何よりも大切な宝物だ。
西城さんと再会し、浮かれ、期待し、おならによって目が覚めた。
あのおならがなければ、この日常がどれだけ落ち着く場所なのかと気付かないままだったかもしれない。
平凡で、ありきたりで、少しうっとうしがられて、ある日は空気のように扱われる、何の刺激もない毎日。
全く不満がないと言えば嘘になる。
でも今は、少なくともこれからしばらく先は、あんなに素敵なチャンスさえなければ、私は絶対に不倫なんかしない。
Fin.
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