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162.声に出して読みたい夜の魔導書

学園の校舎内に斜陽が射し込んで、教室内を真っ赤に燃やす。


俺は焼却炉で作業を終えて空になったゴミ箱を手に、エミリアクラスでぼんやりとしていた。


ゴミ箱を所定の位置に戻して一息吐く。


平和だ。


たしか昼休み頃に一件、誰かが生徒指導室から医務室に搬送された……なんてことがあったらしいが、事件にも満たない騒動らしいことと言えば、それくらいだった。


魔法の失敗による施設の損壊や実験器具の破損もなく、普段に比べても“静かな一日”と言えたかもしれない。


ふと気配を感じて振り返ると、廊下と教室の狭間に見慣れた少女の姿があった。


こんな時間に下校もせず独りだなんて珍しい。


「今日は二人と一緒じゃないのか?」


少女――クリスはじっと俺を見つめる。胸に黒い厚手の本を抱き込むようにして頷いた。


「ええ。あの……レオを探していたの。どうしても……二人きりになりたくて」


何か他の人間には言えないような相談事かもしれないな。


「理論魔法でわからないことでもあるのか?」


いや、そんなことなら何も二人きりになる時間を、わざわざ見つけて訪ねたりはしないか。


かすかに湿り気を帯びた瞳でクリスは小さく首を左右に振った。


夕日が少女の頬を赤く照らす。どことなく上気したような表情に見えたが、きっと光の加減によるものだろう。


彼女は一歩、また一歩と俺に近づいた。


互いの吐息が届くくらいになると――


「あ、あのね……レオは魔法力を消費しないで使える魔法があるって言ったら……信じてくれる?」


そういった類いの詐欺なら、王都に行けば枚挙にいとまは無いが……。


純粋で真剣な眼差しだった。本当にそんな力があると信じているように思えた。


なら、俺も真剣に話を聞こう。ただ、最初に断っておくのも忘れない。


「まあ、信じろと言われてもにわかには信じられないが……実際に自分の目で確かめて本物なら、理解を示すくらいの柔軟さは持ち合わせているぜ」


俺は予防線を張った。


気にせず彼女はコクリと頷く。


「そう……じゃあ……今からそれを試させてもらっていいかしら?」


彼女は抱くようにしていた本を開いてしおりを外した。


黒いカバーの重厚なそれは魔導書……だろうか。


本そのものに魔法力が込められていて、異界の存在が住み着いているなんてこともある。


が、その本からは異様な気配などは感じられない。ただの本だ。


タイトルは「声に出して読みたい夜の魔導書」だった。


クリスはそっと桜色の唇を開く。落ち着いた口振りで彼女は本の一節の朗読を始めた。


淀みない透き通った声が、夕日の赤に満たされた教室に響く。


「熱い衝動の電撃が身体の芯を貫いた。


節くれ立った木の根を思わせる指先が、桃色の花弁をゆっくりと裂くように割る。


濡れた花びらの奥から濃密な甘い香りが湯気とともに上がった。


膨らみの先をついばまれると、吐息とともに『あっ』と短く声が漏れた。


それを聞いて、野獣が顔の端まで裂けるように口を開いて嗤う。


意志に反して身体は甘く痺れ、そっと撫でられただけで頂きへと押し上げられる。


あらがえない。鍵穴は乱暴にこじ開けられ、侵入を許してしまった。


理性の薄皮をツーっと剥ぎ取られるたび自由を失い、野獣の荒い息や体温や臭いを感じただけで、四肢が意識の通わない“モノ”になっていく。


燃えたぎる熱い鉄心を打ち込まれた瞬間、背中がこれ以上ないほどにのけぞった。


まるで天に昇る三日月のように。


今宵、欠けたまま二度と戻らない、心と体にさせられてしまった。


野獣の所有物になったという烙印を、熱い鉄心が突き込まれる度に刻まれる。何度も……何度も……執拗に。


リズムが次第に早まり、野獣は一突きごとに歓喜に打ち震えながら激しく身体を揺さぶった。


来る。来てしまう。野獣の息づかいに自然と呼吸が合っていく。


花の蜜が糸を引いてからみつき、野獣は甘い花園の最奥に鉄心の先端をあてがうと、ぴたりと動きを止めた。


目を細めて至極の表情を浮かべる野獣。


あれほど嫌悪していたはずなのに、自分がそうさせたのだと思うと嬉しささえ湧き上がる。


この儀式によって野獣のモノになるのだから。


こうなることを心待ちにしていたのだと悟った時、ほどなくして野獣の遠吠えが月を汚した」


しおりを挟んでからパタンを本を閉じて、クリスは俺をじっと見つめた。


「どうかしら?」


どうかしら……じゃねえええええええええええええええええええええええええええええ!


「お、おいクリス。その本はどうしたんだ?」


「古書店巡りをしていて見つけたのだけど……それよりも何か魔法的な効果はあったかしら?」


いや、効果があると言えばあるけど無いから! 俺はかすかに前屈み気味になりながら、ゆっくりとクリスに背を向けた。窓の外の夕日に目を細める。


「なあクリス。ちゃんと意味が解った上で読んでたのか?」


「わかればよかったのだけど、私には難しくて。読むだけで魔法が発動するようでもないし……今、頼れるのはレオだけなの」


不幸中の幸いというべきか、プリシラとフランベルが今の朗読を聞いていたら、今頃どうなっていたことやら……。


クリスは少し前まで童貞という単語の意味さえ知らなかったのだ。


朗読した内容がなんなのか、わからなくても仕方ない。いやむしろ良かった本当に良かった。


俺の前に回り込んでクリスは首を傾げた。


「だから解説をお願いしたいのよ。レオなら……わかるんでしょ?」


「か、解説だと? 今のをか!?」


「ええ。こんなに難解な魔導書は初めてで……恥ずかしいけど、訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥ともいうし」


大まじめで彼女は訴える。クリスの向学心がこんな形で俺に牙を剥こうとは。


ここは誠心誠意、全力で……誤魔化そう! 真実を知れば彼女の心は羞恥心で爆発しかねない。


DT事件の惨劇を繰り返すわけにはいかなかった。


「ええとだな……まずはクリスの解釈を聞かせてくれないか?」


「わかったわ。たぶんこれは物語の一部なのじゃないかと思うの」


「ほうほう、どういう物語だ?」


「魔法使いと野獣の戦いね。野獣というのはきっと魔物か、もしかしたら魔族かもしれないわ。舞台となったのは花畑かしら?」


「あ、ああ。そうだな。そうとも読めなくもないような……」


クリスが瞳をぱっちり開いて、嬉しそうに俺の顔をのぞき込む。


「当たってた!? それとも、どこか間違っていたかしら?」


「だいたい正解だから。それで、なんでこれが戦いの描写だと思うんだ?」


クリスはもう一度本を開いた。


「この冒頭にある『熱い衝動の電撃が身体の芯を貫いた』というのが、おそらく風の精霊魔法による雷撃だと思うの」


「なるほどな。うん。そうそう。その調子でいこう」


ジトッとした目付きになってクリスがぼやいた。


「急に適当にならないでちょうだい。私はちゃんと理解したいの」


それはよしておいた方がいいぞクリス。


「わかってるって。それで……続きは?」


聞くのは怖いが聞かなければ先に進まない。クリスは意気揚々と解釈を続けた。


「おそらく野獣という悪の存在が、結界に守られた美しい花畑に侵入して、荒らしていたのだと思うの。そこに正義の魔法使いがやってきて野獣を制止しようとした。けれど、野獣の力は絶大で窮地に陥ってしまうの。『鍵穴は乱暴にこじ開けられ、侵入を許してしまった』という一文から、結界を突破された魔法使いの絶望を感じるわ……ど、どうかしら?」


「お、おお。そうだな。そうだよ他に解釈のしようがない。こういった難解な文章は受け取る人間によって解釈が変わるけど、俺もクリスと同じ意見だ」


少女は恥ずかしげな表情を浮かべながら、うんうんと頷く。


「そうよね。まるで日によって満ち欠けする月のように……あっ、今のは少し詩的だったかも。感情魔法は苦手だけど、こういった内容を想像しなければいけない、難解な魔導書を読んで訓練すれば、私も……レオの足を引っ張らないくらいには、感情魔法が使えるようになるかしら?」


冗談っぽく笑うクリスに俺は心から「そうだな!」と言ってやれなかった。


しどろもどろな俺に、そのまま彼女は続ける。


「だけどわからないのよ。力及ばず魔法使いは敗北する……これは敵の力量をはかりきれなかった魔法使いがの末路ということだと思うのだけれど、なぜか『あれほど嫌悪していたはずなのに、自分がそうさせたのだと思うと嬉しささえ湧き上がる』とあるのよ。どう考えても腑に落ちなくて……だから」


クリスがそっと静かに告げる。


「レオの解釈を教えてちょうだい」


ぐっ……まずいぞ。そのまま伝えるわけにはいかない。が、クリスは期待の眼差しだ。


やめてくれ! そんなに綺麗な瞳で俺を見るのは!


「そ、それを教えたら学習にならないだろ?」


「どうしても知りたいの! このままだと今夜は眠れそうにないわ」


「けどなぁ……」


クリスは肩を落として魔導書を閉じた。


「はぁ……しょうが無いわね。今夜にでもプリシラとフランベルにも相談してみ……」


「教える。教えるからプリシラたちに相談はしなくていいぞ」


危ないところだった。そんなことをしたら、一生いじられるところだったぞクリス。命拾いしたな。


クリスはぷくっとほっぺたを膨らませた。


「もったいぶるくらいなら、最初から素直に教えてくれればいいのに。それでどうして魔法使いは嬉しくなったのかしら?」


「ちょっと本を見せてくれないか」


俺は魔導書を受け取ると、しおりの挟んであるページを開いてクリスが朗読した部分を確認した。


そこにあった「目を細めて至極の表情を浮かべる野獣」という一文を無理矢理解釈する。


「ええとだな……笑顔だ! 野獣ってのも実はそれほど悪いやつじゃなくて、笑顔で会話をすればわかり合えたっていう……そういう話なんじゃないか?」


思いつきで言うと、彼女はフクロウのように目をまん丸くさせて「そういうことだったのね。そんな解釈は思いつかなかったわ」と、素直に驚いてみせた。


このまま彼女にこの本を持たせておくのは危険だ。


「そうだ。この魔導書をしばらく俺に預けてくれないか? 時間はかかるけど、注釈をつけようかと思うんだ」


「え!? いいのレオ? なら……ぜひお願いするわ!」


俺は心の中で安堵した。クリスには悪いが、こいつの注釈が完成して持ち主の手元に戻るのは数年後――クリスが大人になってからだ。それまでは俺が責任を持ってこの本を封印しよう。


「ところでクリス。まさか俺以外にも……その、さっきみたいに朗読を聞かせてないだろうな?」


「聞かせたけど……どうして急にそんなことを言うのかしら?」


おおおおいッ! 聞かせたのか!


「だ、誰に聞かせたんだ?」


「お昼休みにエミリア先生に聞いてもらったのだけど……実は、その時にエミリア先生が気絶してしまって……それでもしかしてって思ったの。この本は読むだけで相手を気絶させることができる、魔法力を使わないで魔法の効果が得られる本なのかもって。けど、レオにはなんの効果も無かったし……そういえば、ただの本だったのに、どうしてエミリア先生は気絶しちゃったのかしら?」


「き、きっと仕事で疲れてたんじゃないか?」


「なら疲れているところに相談してしまって、悪い事をしたかもしれないわ」


クリスは眉尻を下げて物憂げな顔をした。


「お前が気にすることないぞ。エミリア先生もきっと気にしてないから」


根拠はないが、こう言うしかない。


しかし……昼頃に生徒指導室から医務室に搬送されたのってエミリアだったのかよ。


クリスの朗読と、それを聞くエミリアの赤面から気絶までの光景が容易に想像できた。


なんて人騒がせな本なんだ。


エミリアには明日、なんとなくさぐりを入れつつクリスのことをフォローをしておこう。


夕日が落ちて教室を染めた赤は長い影に呑み込まれた。ちょうど切りよくチャイムが鳴る。


「暗くなってきたし、そろそろ帰った方がいいだろう。正門まで送るよ」


「そうね。胸のつかえがとれて今夜は安眠できそうだわ」


スッキリした顔のクリスを正門まで見送って、俺は黒い魔導書を手に溜息を吐いた。


いっそ真実を話せればと、遠のく無垢な少女の背中をみながら思う。


いやいかん。いかんぞ。


ともあれ彼女にはもっと自然な形で健やかに成長してもらいたい。


保護者だなんて言えた立場ではないけれど、今はただそうなることを祈るばかりだ。

8月25日に

集英社ダッシュエックス文庫さまより

本作の書籍版が発刊予定となりました。

応援ありがとうございます。そして、これからもお付き合いいただければ幸いです。m(__)m

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