地縛霊の恋
「……君がまだ、ここに居るといいんだが」
男は、ネリネの花束に巻かれたリボンを何度かいじった。
サテンのリボンはホットグルーか何かで留められているらしく、解ける様子はない。
男は今度は胸ポケットからシルクのハンカチーフを取り出すと、額に滲んだ汗を拭いた。
人々は皆男の顔を覗き込むようにして歩いていく。
それもそのはず。
男が立っていたのは、遊園地の入場ゲートの手前だった。
季節は秋、男の汗は暑さではなく、緊張によるものだった。
男はふぅと息を吐くと、受付に向かう。
「…大人、1枚で」
男は酷い外国語訛の英語で言う。
受付嬢は上目遣いに男を見ながら黙ってチケットを渡した。
男はオートクチュールのスーツに身を包み、ハンティングキャップを被っている。
口髭を生やし、紳士風である。
が、その中でハンティングキャップは異質だった。
時代遅れだし、いかにも裕福そうな男が被るにはどうにもおかしい。
男はそんなことは気にならないのか、ありがとう、と言ってチケットを受け取ると、遊園地へと足を踏み入れた。
少しひずんだオルゴールアレンジのマザーグースが聞こえてくる。
メリーゴーラウンドのせいらしい。
メリーゴーラウンドの脇には鉄製の看板が立っており、そこには筆記体で、「開園当初からこの場所で入園者を見守ってきたブラック・ビューティー」と書かれていた。
ほとんどが白馬であるが、一頭だけ黒く塗装されたものがある。
その塗装も剥げかかってはいるものの、まだ現役で子どもたちを乗せていた。
男は何度か舌を鳴らすと、今度はジェットコースターの方へと歩いていく。
ジェットコースターは白い塗装がぴかぴかと光っていて、どうやら数年前に新調されたものらしい。
頭上からは楽しそうな声が聞こえてくる。
男は一度帽子を脱ぐと、被り直した。
男は口髭を撫でて、また歩き始めた。
観覧車の下辺りに来ると、役目を終えたらしいゴンドラが打ち捨ててあるのが見えた。
そこにも、鉄製の看板がある。
「50年の伝統を誇る、巨大観覧車」
男が探している人の名前は、そこにも書かれていなかった。
男は観覧車を見上げた。
秋の太陽が目に刺さり、くらっとくる。
男はふぅと下を向くと、その近くにあったベンチに座った。
ジャケットの内ポケットから地方新聞を取り出し、適当なページを開く。
新聞は黄ばみ、20年前の日付が書かれている。
「国立遊園地にまつわる、暗い噂」
そんな見出しの小さな記事に目を通す。
たった50単語で書かれた記事には、いわゆる怪奇現象の話が載っている。
曰く、昔この遊園地で事故があったらしく、その少女の霊が出るという。
「隠蔽だ、隠蔽だよ」
男はそう言って新聞を引っ張った。
「私しか事実は知らんのだ」
その記事には、遊園地のどこか、だとかどんな怪異だ、とかは書かれていなかった。
根拠がないか、数字がとれないかだろう。
男はまた遊園地を歩いていく。
人々はその横を回され、落とされ、叫んでいた。
男は何も分からぬまま歩いていく。
すると、閉店になったらしいショップの成れの果てが見えてきた。
「ふむ、古典的だが、常識は大切だ」
男はそう言うと、寂れた建物に近づいた。
男は建物の陰でうやうやしく汗を拭うと、また息を吐いた。
「年とるとこれだからな」
そう独り言る。
風は生暖かく、男は溜息を吐く。
時計を見ると、14時を回っていた。
なに、そろそろ涼しくなる時分だ。
男は心の内に言って元気を出すと、廃屋の壁にもたれかかった。
すると、生暖かい風がひゅうと吹いて、男の帽子を飛ばした。
やれやれと拾おうとすると、また飛んでいく。
男は膝に手をついてから、帽子を追いかけた。
帽子が止まったのは、観覧車の辺りまで飛ばされてからだった。
「はぁ…まったく……。ん?」
男は、気づけば観覧車の前に立っている。
「なるほどつまり」
男は帽子を胸に当てて言う。
「君はまだここに居るということだ」
男は観覧車の下をくぐって、打ち捨てられたゴンドラに近づいた。
「私は紳士で無くてもいいな、日本人なのだから」
見てくれは紳士だが、と男は心の中で続ける。
ゴンドラは錆びついていて、触るとすぐに手に色がついた。
男はその日一番大きな溜息を吐くと、花束をゴンドラの脇に置いた。
「僕はね、金が無かったんだ。でも、この歳になってやっと株ーそうさね、まあ、取引だーでいくらか儲けた。
そうでもないと、外国への切符は買えないからね」
男はそう言うと、そっとしゃがみ込む。
「君は、この遊園地が出来て1周年のあの日、死んでしまった。
僕が留学から帰る最後の日のこと。
観覧車のゴンドラが落ちて……。
高所恐怖症の僕は、ただ見ていただけだった。
君は12で、僕は13だったかな」
男は帽子を取ると、手を合わせた。
「もう、待たなくていいんだ。
僕は今日、君を成仏させに来たんだからね…。
成仏、分からないかもしれないが」
男はそう言って目を瞑る。
「君は、神のお召を受けるんだ。イギリス風に言えばこんな風だろう。
ともかく…もうここにいてはいけない。
もう、君を知る人は僕しかいないんだ。僕も、もう永くないだろう。
誰も、もう会いに来てはくれない。君は僕の恋人だから。
責任をとらなくちゃならない」
男はそう言うと、しばらく黙っていた。
心の中で、こう語りかけた。
「このまま僕が死ねば、もう会えないだろう。
だから、先にあの世で待っていてほしい。
僕も近いうちに行くから」
そう言うと、ゴンドラの錆びついた穴の中を、風が通り過ぎていった。
「…出られたのかな」
男はそう言って顔を上げた。
「ここまでね、僕の妄想かもしれないんだ。
死んだらそこまで、君はいないし、風も偶然。
ただのエゴだ。だけどもね……。」




