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幻獣たちの恋  作者: クインテット
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ドッペルゲンガーの恋

 ひとつ、「本人」に迷惑がかからないよう、人間とコミュニケーションをとらないこと。

 ひとつ、「本人」と出会ったら、怖がらせないよう微笑むこと。

 後の細かい規約は忘れてしまった。必要なかったということだろう。僕は分厚い紙の束を全部シュレッダーにかけて、火曜のゴミの日に捨てた。こんなものは必要ない。ここに戻る気などないのだ。


 16年という長い年月が、生まれてから経った。比較的成績が優秀だった―自分で言うことでは無いが―僕でさえ、16年かかったのだ。同期の心を思んばかるに、辛いものがある。

 さて、この16年の研修を経て、僕は晴れて実習のキップを手に入れた。つまり、適当な人間の姿を借りて、人間界に行く許可が下りたのだ。研修期間中は、何の監視も入らないという噂だ。そんなもの、脱走して下さいと言うに等しい。

 モノトーンで目が潰れそうなつまらない影の世界にいるよりも、カラフルな人間界の方が素晴らしいに決まっている。忘れもしない、子供の頃、人間界からもたらされた様々な宝物たち。それも、この世界にくれば(しばら)くすればモノクロと化す。僕は、どうしてもそれをずっと色のついた状態で見ていたいのだ。

 残念ながら僕たちが借りられるのは見える部分だけで、臓器などは借りられない。だからご馳走を食べたりはできないのが残念だが、そこは妥協しよう。

 僕は監視員に許可書を見せると、数年前から借りようと思っていた体になって、人間界に降り立った。


 草津陽平(くさつようへい)、あるいは僕の目が、初めて色を捉えた。思わずすぐに目を閉じた。感動もあるが、あまりの鮮やかさに、目を開けていられない。影に色が乗っただけで、こんなにも美しいのか。優しいのか。信じられない。

 そんな感動も、鈍痛で幕を閉じた。

 歩道の真ん中で目を(つむ)っていた僕に、中年男性がぶつかったのだ。謝りもせずに歩いていってしまったが、別に構わない。僕から返事もできないのだから。

 僕はあっちこっちをあくせく見回しながら歩いた。影の世界は所詮模倣(もほう)だと痛感させられる。ビルというものの色も、人々の声も、頭に突き刺さるように、莫大な情報として入ってくる。僕は二度と帰らないという決意をさらに固め、猫背気味に歩いた。


 世界の美しいものを手っ取り早く見るには、写真集というものが良いと聞いたことがある。

 僕は研修で習った本屋に行くと、写真集、という文字を探し歩いた。

 影の世界には、見えるものしか存在しない。声はなく、意思疎通にはこれまた借り物の文字が使われる。僕のクラスは日本担当だったから、日本語はおおよそ理解できる。

 少し昔を思い出しながら、「世界の絶景百選」を開いた。やはり、色鮮やかな世界がそこにある。色の名前も習ってはいるが、色のない世界で、明度の違いだけでしか認識できない色を、どう名前と一致させろというのか。間抜けなカリキュラムのおかげで、僕はこのさんざめく色たちに名前を与えることもできない。ただページから空気だけが溢れ出して来て、僕の輪郭を撫でていった。


 最後のページまで読み終わると、僕は店を後にした。温かい店内との温度差に身震いする。そういえば、暑さ、寒さというものも影の世界には存在しなかった。僕は陽平の衣服を観察し、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「あれっ、陽平じゃん!」

 びくっ、と体が震える。「本人」か。それとも、僕のことなのか。

 肩に、硬い感触。僕は観念して振り向いた。

 蜂蜜色の髪を一つ結びにし、それと対照的な、大きな黒い瞳をした女性が立っていた。表情はお互い冴えない。僕は反応に困って口をポカンと開けているし、女性は少し怒っているらしかった。

「実家、帰んなくていいの?

 毎年帰れるの、この時期だけでしょ?」

 イチカ、と名乗る女性は続けた。僕は頬をかき、何度も首を傾けることしかできない。ああ、面倒な「本人」を選んでしまった。この手の口うるさい女性が、何の声も聞かず立ち去るとは思えない。

「何か言いなさいよ!」

 ほら見たことか。僕は今目をそらしているので、彼女がどんな表情をしているのか正確には分からないが、声の尖り具合が恐ろしい。

 仕方なく、僕は人差し指でバツを作り、喉に当てた。

「ああ、風邪引いてるの?

 それで、実家にも帰れなかったんだ」

 僕はこくこくと頷いた。

「確かに、お父さん昔風邪こじらせて肺炎になって、大変だったもんねぇ。」

 イチカは続ける。僕は、また適当に頷いた。幸いにも、イチカが怪しむ様子はない。

 とっととこの場を離れたいのに、イチカはいつまでも陽平の父が肺炎になった時の話をしている。こうしている今も、規約に違反し続けているのだ。脱走を試みている僕が気にすることではないが。ずっと復唱させられていたから、体に染みついているらしい。

 そもそも、イチカは陽平の恋人なのか?あるいは幼馴染?適当にあしらいすぎて、「本人」が怒られると、借りる人間を変えざるをえなくなる。それは面倒だな、と思ったが、イチカの話は終わらない。残念ながら、切り上げさせることもできない。


「ああ、ごめん、話し込んじゃった。またね。」

 永遠とも思える時間は突然終わった。僕はガッツポーズをこらえて手を振り、イチカを見送った。

 日本エリアから離れた方が追手から逃れられるが、言葉も通じないし、島国だから脱出も困難だ。さて、どうしたものか。一難去ってまた一難。僕は突然のクラクションにピンと背を伸ばし、影の少なそうな日なたへと歩き出した。


「あれっ、陽平、家こっちだったっけ」

 僕は多分、げっそりとした顔をしてしまったと思う。イチカが、アイスコーヒーを頬に当てながら近づいてきたのだ。

 僕はどう答えていいやら迷った。陽平の住所は数字では知っているが、現在地からの方角など知らない。イチカに鎌をかけられていたらどうしよう。脱走中の僕はいくらか気弱なのだ。

 とりあえず、話が(こじ)れないように、首を縦に振った。イチカはスニーカーをとんとんと地面で叩き、ふぅんと言った。

「連れてってよ。陽平の家、行きたい」

 イチカはそう言った。僕は今度は首を横に振った。

「陽平はつれないなー。元カノは大事にするもんだよ?」

 は?元カノ?僕は肩透かしを食らった気分になった。もっと近しい人間だと思っていた。そういえば、イチカなんて名前は陽平の近辺者リストになかった気がする。


「ねぇ、陽平。」

 ふと顔を上げると、イチカは険しい顔をしていた。

「そんな、見つかっちゃった、なんて顔しないでよ。」

 僕は顔のパーツが全部中央に集まっていくような感覚がした。もしかして、イチカは影の国のやつで、僕を捕まえに来たんじゃないのか。

「あたし、ずっと探してたんだよ。

 さっきは強がって、またね、とか言ったけど、あたし、別れたくなかった。

 ずっと好きだったし。」

 どっちなんだ。冷や汗なんか出ないのに、居心地の悪さを感じる。

「陽平が死んでからずっと、探してたの」

 凝縮されたパーツが、外側に向かって弾け飛んだ。どういうことなんだ?

 ふと気がつくと、イチカはボロボロと泣いている。

「一方的に別れようとか言うし、すぐに次の子と付き合うし、元カノだからお墓の場所も教えてもらえないし……。」

 イチカはとうとうアイスコーヒーを地面に落とした。クシャッと軽い音がして、地面に茶色いシミが広がっていった。

「せめて、お墓参りだけはしたい、なーんて思ってたら、まさか本人の幽霊に会えるなんてね。」

 イチカは泣きながら笑っていた。なんて言ったらいいやら分からない。僕は話せないんだけど。

 頭の中でぐるぐる言葉を回していたら、突然イチカが僕の頬を掴んだ。気づけば、唇が重なっている。

「言いたいこと言えたよ。ありがとね。ヨーヘイ。」

 イチカは手を振って、走り去ってしまった。

 僕はその場に立ち尽くしていて、暫く動くこともできなかった。ああ、そうだ。人間とコミュニケーションをとったんだから、借りる「本人」を変えなきゃ。そうは思ったが、借り物を変えてしまうと、この唇の感触が消えてしまいそうで、僕はどうにも踏ん切りがつかなかった。

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