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幻獣たちの恋  作者: クインテット
33/36

オークの恋

「振れ!肘は直角に!

 ルーシー!素振り1000回追加だ!」

「はい!」

 (ほこり)っぽい屋内運動場に、野太い声が響く。

 生徒たちは汗を垂らしながら、一心不乱に切っ先にいくにつれて重くなるよう作られた木刀を振るっている。フォームが悪くて追加された分も合わせると、もう10000回は振っているのではないだろうか。しかし、生徒たちはそれを(うと)んではいない。むしろ、喜んだ。自主的に素振りをすれば、妬まれることもあるが、「先生にやれと言われた」という名目があれば、ある程度容認される。

 筋骨隆々とした教師は絶えず爪先立ちで歩き回っている。彼もまた、修練を積んでいるのだ。


 エリゼもその例外に漏れず、いや、むしろ人一倍努力している。

 家にあるトレーニング道具では負荷が軽すぎるため、学校に居残ることなどしょっちゅうだ。他のクラスメイトは良い顔をしないが、構ってなどいられない。

 丸太のような筋張った腕、脂肪よりも筋肉が前に出た胸、パッドを入れているかのような(もも)。エリゼは完璧な肉体を持っていた。

 しかし、女性につく筋肉には限界というものがある。エリゼの四分の三程の努力で、男子たちは筋肉をつけていく。エリゼにはそれが許せなかった。


 この世界でのし上がる方法は一つ。力だ。

 腕力さえあれば、この世界では認められる。

 エリゼは、どうしても両親に楽がさせたかった。特に、生まれつき病弱なあまり、家を没落させてしまったことを悔やんでいる父のために。


 青天の霹靂(へきれき)

 突如届いた書簡に、エリゼは息を飲んだ。父の体に(さわ)るため騒ぐことはできないが、今にも叫び出してしまいそうだった。

 彼女は、二つ返事で快諾の電報を打った。早く届くと良いのだが。

 さて、書簡の中身はと言うと……。

 ―詳細に書く前に、一つ解説しておく必要がある。

 先述の通り、この世界では力こそが力である。人間たちが(しの)ぎを削って肉体改造に励む世界を想像するかもしれない。もちろん、それは間違いではない。だが、もう少し正確さを伴わせるならば、この世界にいるのは人間だけではない、という要素も必要だ。彼らもまた、人間同様、特別扱いされることなくただ自らの筋肉を肥大させ続けている。ただ人間よりも初期能力が高いため、いささか有利ではあるのだが。

 そんな魔物たちの中でも、崇拝されてやまないのはオーク達だ。彼らは非常に筋組織が発達しやすい性質を持っており、トレーニング次第ではいくらでも力をつけることができる。したがって、この世界では、オークが頂点を占めるという不文律がある。


 さて、改めて書簡の中身であるが、これはあの誉れ高きオークから来たものであった。曰く、

「拝啓 エリゼ・マン・トーマスフォット様

 肌寒い日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

 この度、私はあなたの噂を聞き、この手紙を送っております。

 冬の休みの間、ぜひ私の屋敷に来て、身の回りのことを手伝って頂けないでしょうか。

 良いお返事を待っています。

 ニーベルゲン・オルク・トールキン より」

とのことだ。

 エリゼは飛び上がって喜んだ。大分タイムラグがあったが。

 というのも、エリゼは―それ以外の子どもたち、あるいは大人も―字を読むことができない。もちろん、書くことも。

 ということで、翻訳機に通して、簡単な言葉に直し、音読されたものを聞いてエリゼは喜んだのだ。

 翻訳機から吐き出されたのは、こんな文だった。

「エリゼ・マン・トーマスフォットへ

 寒い 日 続く/案ず 健康

 私 噂 聞く/私 手紙 送る

 私 君 求む…君 家 来る/君 冬 ずっと/君 私 手伝う

 私 返事 待つ

 ニーベルゲン・オルク・トールキン」


 エリゼが口頭で翻訳機に伝え、ニーベルゲンに打った電報。当然、ニーベルゲンの手紙とはかけ離れた稚拙(ちせつ)な文章である。

「はぁ……。」

 ニーベルゲンは溜息を吐き、エリゼからの電報を机の上に置いた。


 ゴンゴンゴンゴン!

 金属の無機質な音が冷たい廊下に響いた。

 ニーベルゲンは、ノッカーが壊れていないことを祈りながら、鍵を開けた。

「エリゼ・マン・トーマスフォットです!

 よろしくお願いします!」

 エリゼはこぼれそうなほどに笑い、ノッカーの一部が欠けている。

「はい。どうぞよろしく。」

 ニーベルゲンが右手を差し出した。エリゼは、笑みを浮かべたままニーベルゲンの手を握り、上下にぶんぶんと振る。指は軽くニーベルゲンの手に食い込んでいた。

「おお、随分激しくやりますね。」

 ニーベルゲンは眼鏡の位置を直しながら言った。肩を抑えながら苦笑していると、

「学校で、よくこうやって力くらべするんです!」

と、エリゼは言う。

「トールキンさんは、あんまり強くないですね。」

 ニーベルゲンはそれを聞くと、口を押さえて笑った。


「あなたの主な仕事は……これです。」

 ニーベルゲンは、エリゼを部屋の中に招き入れた。そこにはうず高く本が積まれており、一応本棚もあるにはあるが、部屋が暗くていくつあるのかは良くわからない。

「私が研究で使った本を、本棚に戻す作業です。

 まあ、私もこだわりが強い方でね、ちょっとしたルールがありますから、それ通り本を入れてください。」

 エリゼは目眩(めまい)を堪えながら、ニーベルゲンの話を遠く聞いている。ニーベルゲンはそれを視界の端に捉えると、また話を続けた。


「あの……私、字、読めないんですが……。」

 ニーベルゲンから覚え書きを受け取ると、エリゼはすぐに目をそらした。ニーベルゲンは、2、3度目を(しばた)かせると、微笑んだ。

「では、一緒に覚えていきましょう。

 ちょうど、研究が一段落して、今は時間があるんです。」

 エリゼは固い動きで頷いた。

 こんなはずじゃなかった。力強いオークの下で、目一杯力仕事ができると思ったのに。痩せぎすの、図書館司書の真似事だなんて!


 ニーベルゲンは、エリゼに紙とペンを与えた。書き損じの紙の束を抱えて、研究室隣の小部屋に通された。室内には薄く埃の溜まった空気と、大きな机、大・小の椅子だけがある。エリゼは小さい方の椅子に腰かけるよう言われた。

 ニーベルゲンは、取りにいくものがある、と言って一度出ていった。エリゼはきょろきょろと部屋を見回す。しかし、無表情な壁紙があるばかりで、この状況を説明してくれるものはない。

 ニーベルゲンは、程なくして戻ってきた。手には数冊の本を抱えている。やはりオーク特有の体躯(たいく)。その中に、分厚い専門書がいくらあったとて、すっぽり収まってしまう。

「さて、まずはタイトルから。」

 ニーベルゲンはそう言いながら、大きい方の椅子に腰かけた。部屋が少し揺れる。

「これを真似して書いてみて下さい。」

 ニーベルゲンは、書き損じの裏に書くよう指差した。エリゼは今すぐペンを折って、力を示そうと思った。しかし、ニーベルゲンは落ち(くぼ)んだ瞳をじっとエリゼの手元に向けている。良く良く考えれば、初日で仕事を失うというのも馬鹿馬鹿しい。

 エリゼはたどたどしく、タイトルを真似して書いた。ニーベルゲンはそれを見て微笑む。

「上手ですね。単語の間にスペースも空けられています。」

 エリゼははにかんだ。腕力のことでないにせよ、褒められるのは気分がいい。

「この固まりは……性質、という意味です。

 そして、これが花。

 つまり、この本は、花の性質についての本なんですよ。」

 へええ、とエリゼは声をもらした。あんな記号に意味があるとは、知らなかった。

「じゃあ、次はこれです。」

 ニーベルゲンはそう言って、本を置いた。


 エリゼは、ニーベルゲンと一緒に、たくさんの言葉を覚えていった。読み書きはおろか、簡単な語彙しか習得していなかったエリゼ。今では、この家にある本のタイトルなら、ほとんど理解できるようになっている。


 3つノックすると、どうぞ、という声が返ってきた。エリゼは恐る恐るドアを開けた。

「どうしました?」

 ニーベルゲンは振り返ることなく聞いた。彼の周りには羊皮紙が散乱しており、お世辞にも綺麗とは言えない。

「どうして、トールキンさんは、私にいろいろと教えてくれるんですか?」

 ニーベルゲンはそこで初めて、半身振り返った。口は半開きで、メガネの位置もズレている。エリゼはゴクリと固唾を飲んだ。ニーベルゲンの目が、異様に鋭く見えたからだ。

「エリゼさん、あなたは、将来有望な方だ」

 ニーベルゲンは、背もたれに身を預け、椅子ごとくるりと回った。

「あなたの筋力は本物です。

 この家に来てからも鍛錬を怠っていませんし、勤勉は性格は筋肉を育てます。

 これからも、あなたはその力を伸ばしていくことでしょう」

 ニーベルゲンはメガネの位置を直した。

「あなたが大人になるとね、そんな人はたくさんいる。

 力が強い人。真面目な人。

 それは随分結構だ」

 ニーベルゲンは机から滑り落ちた羊皮紙を拾って、その表面をしげしげと眺めた。

「しかしね、どれだけ力があっても、その使い道を知らないものが多すぎる。

 考える力を、奪われているんだな……。

 ただ力を振るうだけでは、この世界はやがて退廃するでしょう。」

 えほん、と咳払い。

「私はね、啓蒙(けいもう)したいんだ。

 あなたのような、将来有望な若者を。この世界を。

 力を身につけるだけじゃダメだ。

 賢くならなくちゃ。」

 ニーベルゲンは、立ち上がると、エリゼの元へ歩み寄った。落ち窪んだ目は、ひどく垂れているように見えた。

「期待していますよ。

 あなたが誰かの上に立ったとき、どんな世界にするのか。」

 ニーベルゲンは微笑んだ。エリゼはちょっとどぎまぎしながら頷いた。ニーベルゲンは口を押さえて笑う。


 エリゼは、背中に本の入ったリュックを背負(しょ)うと、遠慮気味に歩き始めた。

「風邪を引かないようにするんですよ。

 春風邪はこじらせやすいから。」

 エリゼはすねた顔で頷いた。

 今日は、自宅に帰る日なのだ。そんな小言のようなことでなくて、もっと優しい言葉をかけてくれれば良いのに。

「あの、トールキンさん」

「なんでしょう」

「また、来てもいいですか。

 学校を卒業して、仕事に就いたら、必ず来ます」

 トールキンは苦笑して、頷いた。

「忙しくなると思いますけどね。

 まあ、来たくなったらいつでも来てください。

 待っていますから。」

 トールキンはエリゼの頭をくしゃくしゃと撫でようとして、はたとやめた。その代わりに、エリゼの手をとって、手の甲に口づけた。


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